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平安蚤の市(8月10日)


 夏真っ盛りのその日、私は高校時代からの友人と平安蚤の市へと足を運んだ。


 そもそも、蚤の市が何か知らない人のために説明しておくと、「蚤の市は、ヨーロッパの大都市の各地で春から夏にかけて、教会や市庁舎前の広場などで開かれる古物市。パリの蚤の市が有名。」(wikiより引用)という感じの代物である。


 すごく面白そうな催し物である。ヨーロッパ発の骨董品市場が、京都は平安神宮で行われるのだ。きっと、「和」と「洋」が織りなすハーモニーが素敵な空間が広がっているに違いない。


 昼過ぎに平安神宮へ向かうと、神社前の広場に無数のテントが設営され、その一つ一つでガラクタが売られていた。そう、どっからどう見てもガラクタとしか思えないモノがたくさん売っていた。私たちは、「ヨーロッパ発の骨董品市場」に来たと思ったら、「ちょっとお洒落なゴミ処理場」に迷い混んでいたのだ。蚤の市主催者の方、ごめんなさい。私には、ゴミを売っているようにしか見えませんでした。


 平安蚤の市の情趣を、「ちょっとお洒落なゴミ処理場」としか理解できない無粋者2人に、この場所を楽しむ術はないように思われた。店員さんに商品の説明をされても、「ほぇー」だとか「すごぉーい」だとか、言うだけ無駄な感想しかでてこない。「和」と「洋」が織りなすハーモニーが素敵な空間かと思われた市場は、私たちにとってはドンキホーテとなんら変わりなかった。 


 しかし、こんな2人にもこの市場を楽しむ方法が一つだけあった。それは、「蚤の市の中で、最も使い道のないモノを探す」という遊びであった。この遊びが、本当に難しい。先ほど無粋者2人によって、ガラクタの烙印を押されてしまった商品たちであったが、ちゃんと考えればそれなりに使い道がある。例えば、何十年か前に出版されたコミック雑誌は、認知症を患った心優しきお爺さんが青春時代を思い出すのに使えるだろう。昭和初期にはその役目を終えたらしい織り機は、ただそこに存在するだけで、昨今の大量消費を前提としたアパレル業界に問題を提起し続けるのだ。


 この世にガラクタなど無い、すべてのモノに意味があるのだ。僕たちは間違っていた。そんな素敵な結論にもう少しで辿り着けそうだったその時、”やつ“は現れた。”やつ“とは、縦70cm、横30cm ほどの木の板に赤字と黒字で「最高傑作のプレミアム  アサヒスーパードライ取扱店」とプリントされた掛け看板のことである。これだと。こいつにはマジで使い道がない。私はそう確信した。だってこの看板を必要とするのは、「日本国内でこれから居酒屋を始め、なおかつスーパードライを店に置く人」だけである。そんな人、この世界広しといえどなかなか見つかるものではない。(今思えば、それなりにいそうだけど)


 結局、友人がその掛け看板を買うことになった。友人が千円札を出し、店員さんが掛け看板を渡す。なんと感動的な場面であろうか。友人は、購入するという行為によって、使い道などないように思われたガラクタに意味をもたらしたのだ。きっと彼は将来ビッグになる。ならねばならぬ。私は、そこに小さなニューディール政策を見た。友人がアメリカ合衆国政府で、掛け看板が失業者だった。合衆国政府が失業者に仕事を与えるようにして、友人は掛け看板に意味を与えた。


 人助けをしたときのような、爽やかな満足感を胸に我々は帰路についた。平安蚤の市は毎月10日に開催されるらしい。また来月も、意味なきモノに存在する意味を与えにいってもよいかもしれない。

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これは友人宅の玄関



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