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夏の甲子園大会中止。思い出した事

夏の甲子園が中止になった。

前日から中止の方向で調整とか報道で流れていたので多分中止なんだろうなとは想像していたものの、新型コロナの自粛解除の動きも出てきていたので、これ出来るんじゃね?という空気が出てきていたのでちょっと期待してたけど、ダメだった。

個人的意見としては、どう考えても出来るでしょ。やるべきでしょ。
リスクとって腹くくれや!!!

というのが個人的意見ですが、まぁ置いておきます。

今年の夏は、僕が今監督をやっている学童野球チームにコーチとして関わり始めた年の最上級生達の最後の夏だったのでめちゃめちゃ楽しみにしていたのですが、残念でなりません。

現役の高3生、その保護者の方の行き場のない、やり場のない想いを想像すると本当にかける言葉がありません。

当事者ではない自分がこの事にどれだけ意見しても無意味なのでこの話しは終わり。

ここからは、自分が高校球児だった時(25年前)の事をいろいろと思い出したので、ちょっと思い出を振り返ってみようと思います。

僕と野球とオヤジ

今でこそ少年野球チームで監督をさせてもらい、コロナ自粛前まで毎週末の土日祝を学童野球に全て捧げて、子ども達に偉そうに指導しているが、僕自身現役時代は野球と本気で向き合っていたかというとそうではない。

小学3年生から地元の弱小チームで野球をはじめ、6年生のときはキャプテンでエースで4番。進んだ中学の野球部もそんなに弱くもないけど強くもなくて、4番ショートでキャプテン。井の中の蛙で調子に乗っている野球少年だった。

高校では学校の中で唯一全国が狙えて、女子モテも抜群のラグビー部に入ろうと思っていたのを、オヤジから野球をやってほしいと全力でお願いされたことから野球部に入る。

オヤジは同じ高校の卒業生で野球部のOB。当時はけっこう強かったらしく、準決勝で平安に1点差で負けて甲子園には行けなかったらしい。大学では準硬式野球部で全国優勝したチームの1番バッター。シーズン打率記録を持っていて、卒業後も30年誰にも記録を破られていないというのが酔ったら必ず自慢されたことが思い出に残っている。

小学校、中学校とセンスだけで野球をやってきたけど高校野球はそんなに甘いもんではなく、1年生は朝7時に集合してグランド整備、練習中にイレギュラーバウンドしたら罰トレ、ボールがグランドに落ちていたら罰トレ、理不尽な事のオンパレードで、同級生は1年で半分になった。

1コ上の先輩が4人しかいなかったこともあり、1年の夏からレギュラーでクリーンアップも打たせてもらって楽しかったが、正直力が全然足りなかった。1年秋の秋季大会で強豪校北嵯峨高校と対戦。乱打戦8-9一点ビハインドで迎えた9回裏。ツーアウト2・3塁で打席に立ちフルカウントからど真ん中のボールに手が出ず見逃し三振。ゲームセット。

当時16歳。16年の人生で味わった事のない悔しさと無力さを浴び、1年冬のシーズンオフに生まれて初めて死ぬほど練習した。

死ぬほど練習して迎えた春季大会。相手はこれまた競合の京都成章高校。一打同点のチャンスで打席に入りタイムリーツーベース。この年京都成章は夏甲子園に出場したチームだったが、そのチームのエースのストレートを完ぺきに打ち返せた。この冬の練習が実を結んだ瞬間の何とも言えない達成感は今でも鮮明に覚えている。(結局試合は1点差で負けた。)

ちなみに1コ上の先輩が4人しかいなかったと書いたが、その4人は全員メチャメチャ能力が高く、バッテリーも良かったのでこの年のチームはまぁまぁ強かった。

高校2年の夏大会前。僕は練習試合で腰を痛めた。盗塁で一塁からスタートを切った瞬間に激痛が走り、塁間で倒れこんで歩けなくなった。担がれてベンチに下がる。診断結果は椎間板ヘルニア。しばらく歩けなかった。

先輩と一緒に野球ができる最後の夏大会は絶対に出たい。カイロプラクティックで応急処置してもらい、痛み止めのブロック注射を何本も腰に打って最後の大会を闘い切った。3回戦敗退。

僕はこの大会を最後に、先輩たちと一緒に高校野球を終わろうと決めていた。腰は痛いし、先輩が抜けたチームで勝てるとも思えなかったし、当時は遊びの誘惑も沢山あった。もう十分だろうと思っていた。

野球を辞める。そう両親に伝えたあと、オヤジが末期の癌である事を母親から聞かされた。本当はもう亡くなっていてもおかしくないと医者からは言われていると。あなたの野球を応援に行くことを生きがいにして生きているのだと。あと1年。あと1年だけ頑張ってほしい。と。

そう母親からお願いされ、あと1年最後まで高校野球を全うすることを決意する。とはいえ、椎間板ヘルニアでまともに歩けない。足もずっと痺れている。半年ほどリハビリに通いチームに復帰したのは3年春。復帰戦でいきなり2ホーマー。でもチームはくそ弱かった。でも関係なかった。最後の1年。僕はオヤジの為だけに野球をやった。

高校野球最後の夏。僕の野球が終わった夏。

3年生夏の大会を迎えた。

西京極球場(現わかさスタジアム)。3番ライト。
相手は当時はまだ新興校だった立命館宇治高校。

序盤1アウト満塁で打席に入り、完ぺきに捉えた打球はサード正面。サードライナーでダブルプレーチェンジ。その感触と光景だけ鮮明に覚えている。

結果は敗戦。点数は覚えていない。たぶん大差だったと思う。
やっと終わった。小学3年から野球を始めて10年。
大好きだったけど、大嫌いだった野球がやっと終わった。試合後何とも言えない解放感に包まれた。

オヤジはバックネット裏で試合を観戦していた。
翌日京都新聞のスポーツ欄に結構大きなスペースで取材された記事が載っていた。

「自分の夢を息子に託す」確かそんな見出し。
自分の息子が、自分と同じユニフォームで同じ背番号を付けて同じポジションを守っている。試合は負けたけど、最高に幸せな気持ちになれた。息子に感謝したい。そんな取材記事だった。

当時の僕はその記事を見て恥ずかしいとしか思わなかったけど、今ならその当時のオヤジの気持ちが痛いほどわかる。当時自覚は全くなかったけど、我ながらきっと最高の親孝行だった。

夏の大会が終わってすぐ、オヤジは体調が一気に悪くなり1か月後に亡くなった。きっと、息子の最後の大会を見届けて気持ちの糸が切れたのだろう。更に間が悪く、30年以上破られずに記録を守ってきた大学準硬式野球の打率記録もこの年塗り替えられていた。記録は天国にもっていかせてもらえなかった。(いつか探偵ナイトスクープでこの記録を塗り替えた打者を探し出してもらおうとずっと思っている。)

あの最後の夏の大会が、もし中止になっていたら。。。
考えただけでぞっとする。

ニュースで流れたり、コメンテーターがコメントするのは夏の甲子園が中止になる。という事がコメントの対象となる事が多い。

これまで数々のドラマを生んできた甲子園。
甲子園で活躍することでプロへの道が開ける選手がいる。
甲子園に行く為に必死で努力してきた球児。
etc

でも本気で甲子園に行く為に努力してきた球児なんて、
きっと全国の高校球児のせいぜい1割くらいだと思う。

甲子園には多分いけないけど、毎日毎日きつい練習はする。
甲子園には多分いけないけど、1ミリでも近づく為に毎日バットを振る。
その「毎日」を終わらせるGOALが最後の夏。

大好きだけど、大嫌いな野球を終わらせるイベント。
これが最後の夏の大会(地方大会)である。僕同様そんな風に夏の大会を位置付けている高校球児がきっと全国に山のようにいるはずだ。

甲子園大会の開催が無理だとしても、彼らが気持ちよく野球を終わらせて次の”何か”にスッキリと向かっていけるイベントは何が何でも絶対にやってあげて欲しい。

色々と思い出にふけりながら、やや感傷的に長々と書いてしまいました。
高野連の八田理事長。どうぞよろしく頼みます。

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