私と娘の2年間

・私のマタニティーライフ

私には2歳の娘がいる。妊娠するまで赤ちゃんとの接点が全くない人生だった。自分が妊婦になった時には、体調はそこそこ良かったけれど、マタニティーハイになるようなキラキラ妊婦にはなれなかった。

もちろん、華冠をつけて白いチュールスカートを着用し、伏し目で撮るマタニティーフォトは撮っていない。SNSでよく見る、初マタ(=初のマタニティー)、プレママ(=もうすぐお母さん)というような言葉を絶対に使いたくない側の妊婦だった。

その言葉を使う人たちの事を、批判しているつもりは全くない。私がそういうテンションになれなかった。それだけの事。そういう妊婦だった。

それでも、無事に産声を上げてこの世に出てきてくれた事は本当にありがたいし、彼女を産んで良かったなあと日々、色々な所で感じてきたつもりである。

・今が一番可愛い盛りって耳タコなほど聞いたけど

娘が生まれてから、人並みの頻度で散歩に出るようになったし、知らない方から声をかけらる事も多くなった。

そこで1番言われる言葉が、『今が1番可愛い盛りね』

適当にその場で相槌を打って、普通のお母さんを装っていたけれど

全っっ然、納得が出来なかった。

・新生児〜6ヶ月の頃は、まとまった睡眠を取れなかったのが辛かった

・6ヶ月〜12カ月の頃は、離乳食を全然食べなくて乳を24時間稼働させた

・12カ月〜18カ月の頃は、生活リズムが安定しなくて発狂していた

・18カ月〜24カ月の頃は、1日にいやいやを100回は言ってたな

そのくらい、私は24カ月目(=2歳)まで彼女の事を心底可愛がる余裕が無かった。常時時間に追われてたし、なんだかいつも疲れていた。(ような気がする)


・疲弊と消耗から一転

2歳をすぎた頃から、ぐーんと彼女との生活が楽になった。

彼女は2歳を過ぎてから、溢れるように言葉が出始めた。巷では早い子は1歳半から話し出すと言われている気がするので、あまり早くは無かったようだが

日に日に、色々なことを表現するようになった。

今まで全て泣いて表現していた事を、言葉で伝えて私と意思疎通できるようになった事で、私自身に余裕が生まれたんだろうなと思う。

今までは、不快感全てを泣いて表現していて眠いのかな?暑いのかな?とか状況と経験から判断して、処置をする。それはもう救急病院のような。でも言葉で伝えるようになってからは『りんごじゃなくてバナナ食べたい』とか『今いやいや虫がいるの』とかめちゃめちゃ分かりやすく、泣いている原因を伝えてくれる。

バナナを食べたい人にはバナナをあげれば済むし、いやいや虫がいる時はその虫が退散するまで待てばいい。

私は、ああこんなに言葉って私と娘の生活を楽にしてくれるのか。

言葉に感謝。もっともっと言葉を使おう。と思った。

・1行も書かか無かった育児日記

ほら、産院で貰うあれ、育児日記は退院した初日に紙ゴミに出した。とてもズボラで、細々とした日記帳などは続けられない私という事は20年前から分かっていたので、早速仕分けをしてしまった。

同時期に出産した友人が、1年間きっちり付けた!の完了報告をインスタにUPしていた時は、出来る人は出来るんやな。と尊敬の眼差ししか無かった。

毎日お乳の時間とか、気温とかその時の気持ちとか、髪の毛すらとかさずに過ごしていた私にはやはり無理だろうな。

なんなら、母子手帳すら必要最低限の事しか書かれていなくって、今回の妊娠でも全然役に立ちそうな気配がない。

だけど、とっても可愛かったはずのあの頃の事を何にも記していなかったのはちょっとだけもったい無い事をしてしまったのかなとこの頃思う。きっと私自身に育児の余裕が出来て、子供の事を私なりに記してみたいなという気持ちがふっと湧いてきたからだろう。

このnoteに少しずつでも記して、大きくなったらアカウントの存在を教えてあげようかな。


・母性とは

冒頭でも触れたように赤ちゃんに全く疎遠な生活をしていた。人並みに赤ちゃんは可愛いなあという気持ちはもちろんあったが、自分が妊婦になっても母性という物が湧かなかった。(ごめんよ。娘。)

産まれてからも、生かさねばならぬという必死さばかりが先走っちゃて。あんなに疲弊する必要もきっと無かったんだろうけど、きっとあの期間も私が母になる為には必要な時間だったんだろうな。

私的結論 : 私が心身ともに母になるのにかかった時間は2年

今も妊娠中だけど、過剰なワクワクはない。(ごめんよ。第二子。)

だけど、赤ちゃんってどんな生き物で、どんな風に育って行くかを経験してるから、肩の力を抜いて、子育てを楽しみたいなあと思う次第。(こうやって2番目以降の子供は強く逞しく育つんだろうなあ)

あれ?でもこの結論で行くと2人の子の母になるのにかかる時間は4年ってこと?