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ハンカチより愛を込めて

 この世界は可笑しいよな。お金がないと何にも出来ないくせにお金は簡単に手に入らない。疲れて重くなった身体を引き摺るように今日も電車に揺られて、日々生きていく為のお金を稼ぎに行く。生きていくだけで何でこんなにお金がかかるのか。満員を超えた人を乗せた車両は一日の始まりだってのにどこかくたびれた雰囲気で、更に気持ちをどんよりさせていく。制服を着た子達が当たり前の顔して弄っているそのスマホ。その子たちの中に本体価格を知っている子はいるのだろうか。俺たちの何日分の給料が必要かわかっているのだろうか。
 こんなこと考えないことが一番疲れなくていいんだ。誰だって余計なことまで考えてこれ以上疲労を溜めたくなんかはない。人生は不平等なんだ。人によって違って来る当たり前を分かち合うことなんか結局出来やしない。
 ぐるぐる巡る思考で目眩がしそうだ。貧血気味だし朝ごはんは抜くな、って健康診断の医者にも言われたけどそんなもん食べている時間があれば1秒でも多く寝たい。俺に足りていないのは血よりも睡眠だ。最近は寝ても寝ても疲れがとれない。身体にまとわりつくような倦怠感がどんな時でも抜けないんだ。

 吐き気がする。目を開けても閉じても白い光がチカチカして、意識が遠のきそうだった。かろうじて近くの吊り革をつかんだが手は震えていた。できれば次の駅で降りて休みたい。でもこの電車を逃してしまったら、確実に出勤時間には間に合わないだろう。今日は月初だ。部長の長めの朝礼から始まり、役職者はそのまま会議があるはずだ。俺は今期昇格したばかりの一番の若手だ。今日欠席するわけにはいかない。
 そう思いなおして吊り革をぎゅっと握り直した。暑くもないのに汗が背中を伝ったのがわかる。何も食べてないせいか、みぞおちが締め付けられるように痛む。せめて空いてくれればいいのだが降りる駅まであと数駅。都内の主要駅を通るこの路線は混む一方だろう。

 その時電車が大きく揺れた。不意の揺れに支えられなかった乗客の体がお互いぶつかりあっていく。どうやら急停止したようで、遠くで舌打ちが聞こえた。

「安全停止ボタンが押されましたので急停車いたしました。確認のため発車まで少々お待ちください」

 ざわついた車内にアナウンスが聞こえた瞬間、俺は絶望した。こんなに我慢したのに、結局会議には間に合わないかもしれない。情けない話だが、体調も相まっていい歳した大人なのに涙が出そうだった。ポケットから会社用スマホを取り出して、部下と上司に遅刻する旨のメールを打とうとしたが手が震えてしまう。必要最低限の文だけ打つとスマホをポケットにしまった。同時に胃から何かが上がって来るのがわかりさすがに「やばい」と焦り口元を手で覆った。その時、右肩を誰かに叩かれた。

「あの……間違っていたらごめんなさいね。どこか、身体の調子悪いかしら」

 隣にいた年配の女性が、そう言いながらこちらを心配そうに覗き込んでいた。朝のラッシュ時にご年配の方を見かけるのは珍しい。さっきまで近くで見かけてなかった気がするが、今はそんなことも考えていられない。

「いえ……あの、大丈夫です」
「でも顔色が悪いし、冷や汗も……駅員さん呼びましょうか?」
「本当に大丈夫ですから」
「では、どうかハンカチだけでも。汗拭くのに良かったら使ってくださいな」

 そう言ってハンカチを差し出された。意外な押しの強さに困りながらも受け取り、遠慮がちに額の汗を軽く拭いて笑ってみせた。ハンカチが小さく揺れるとふんわりと優しい花の香りがした。どこかで嗅いだことのあるような、なんだかとても懐かしく感じる香りだった。

「ご親切にすみません……ありがとうございます」
「いえいえ。滅多に電車なんて乗らなくて。乗ったと思ったらこんなことになってしまって……心細くて話しかけてしまったの」
「そうなんですね。きっと安全停止ボタンならすぐに発車されると思いますよ」
「それは良かったわ」

 花の香りのおかげなのか人と話したおかげか、少し症状も落ち着いたようで手の震えは止まっていた。目のチカチカも収まり、改めて隣を見てみると、綺麗なスカーフをした御婦人が心配そうな顔で次の停車駅が書いてる液晶画面を何度も見ていた。

「次の駅にご用事ですか?」
「ええ……孫がいてね。その子が調子悪いって聞いて、心配でね」
「それは早く向かってあげたいですね」
「そうなのよ。次の駅が待ち遠しいわ」

 御婦人の小さな身体を人混みから守るように立つとなんだか不思議な感覚がした。俺のばあちゃんは小さい頃に亡くなっていて、そういえばこんな風にばあちゃんを上から見たことなんてなかったな。俺も小さい頃はよく熱を出して、仕事に行くお母さんの代わりに隣町からばあちゃんが看病に来てくれたっけな。その日だけは昼間から一緒にアニメを見て、お見舞いにくれたプリンを二人で食べて。夕方になる頃には俺は眠ってしまっていて、ばあちゃんはいつの間にか帰ってて代わりにお母さんが帰ってきているんだ。それはなんだか夢を見ているような一日で、特別な日みたいで好きだったな。

「早く良くなあれ」

そう言って眠るまで頭を優しく撫でてくれたばあちゃんの手の温もりを思い出す。大人になっても体調崩しちゃってさ。ばあちゃん、心配してるかな。なーんて。そんなこと思ってるうちに少しずつ身体が軽くなるのを感じた。

  しばらくすると運転再開の車内アナウンスが流れた。良かった。体調も戻ったし、このくらいの遅延なら朝礼には間に合わなくても会議には出れそうだ。

「運転再開ですって。良かったですね」
「ええ。本当に良かった」
「お孫さん、お大事にしてください」
「どうもありがとうね」
「こちらこそハンカチありがとうございました。ご迷惑でなければ洗って郵送でお返しします」
「いえいえ。もし良ければそのままもらってください」
「でも……」
「いいんです。もう、あなたのものですから」

 電車が大きく揺れてゆっくりと前へ進んで行く。倒れないように壁になると「ありがとう」と嬉しそうに微笑んでくれた。

 ほどなくして電車が次の停車駅に止まる。扉が開いて、勢いよくみんなホームに出て行く。人混みの流れに巻き込まれないように、と思って近くをみるともうそこには御婦人の姿が見えなくなっていた。
 慌てて自分も流れに乗ってホームまで降りた。改札までの階段や車両の中をざっと見ても、どこにもその姿を見つけることができなかった。

 ふと風に運ばれて優しい花の香り。ハンカチからした香りとおんなじだった。この花、なんていうんだっけな。この時期だけ咲く花だったっけな。

そうだった。この香り。
昔、ばあちゃんの家の庭に咲いてた花の香りだ。

 握りしめたハンカチをそっと広げる。昔好きだったキャラクターが右下に書かれていてその横には刺繍で「ケンタ」の文字。

ばあちゃん。ねぇ、ばあちゃん。

「ケンタ。たくさん寝て、早く良くなるんだよ」

 熱が上がりきって疲れてウトウトしている時にばあちゃんがよくこの言葉を言ってくれた。あぁ。今も、なんだか聞こえた気がして。

発車ベルが鳴る。
香りを閉じ込めるように丁寧にハンカチを折りポケットに入れ、俺は再び電車に乗り込んだ。

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