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「表現の自由」の保障は表現に対する抗議にも及ぶ

 ある人々がテレビ・映画・本・広告などの特定の表現に対して「差別的だ」として抗議することがあります。そして、そのような抗議は、それに反対する人々から「表現の自由の侵害」とみなされることもあります。

 しかし、表現に対する抗議は「表現の自由の侵害」ではありません。なぜなら、表現に対する抗議にも、表現の自由の保障は及ぶからです。「そんなことは当たり前じゃないか」と思う方も多いでしょう。私もそう思います。

 今回は、この「当たり前」のことに、あえて「なぜ」と問うてみようと思います。なぜ表現に対する抗議にも、表現の自由の保障は及ぶのでしょうか。この記事の目的は、この問いを通して、抗議と表現の自由の意義を再確認することにあります。ぜひ、おつきあいください。

 なお、この記事では、一般の市民による抗議、かつ、暴力・脅迫・悪質な嫌がらせなどを伴わない抗議を「抗議」と呼ぶことにします。

※ 参考文献は記事の最後に示し、本文では著者名・刊行年・ページのみを括弧に入れて表記します。


Ⅰ.表現の自由とは何か

 まずは、話の前提として、そもそも表現の自由とは何かを確認します。

 表現の自由とは「言論や文書による思想表明の自由のほか、広く映画・テレビ・ラジオ・演劇などの自由や集団示威運動の自由など、個人が外部に向かってその思想・主張・意思・感情などを表現する自由」(金子/新堂/平井編集代表 2008 p. 1047)のことです。ちなみに「集団示威運動」とはデモなどのことです。

 それでは、表現の自由における「自由」とは何でしょうか。

 憲法において、表現の自由は自由権の1つです。自由権とは「国家権力の介入・干渉を排除して各人の自由を確保する権利」(金子/新堂/平井編集代表 2008 p. 564)のことです。自由権における「自由」とは、基本的には、国家権力の介入からの自由なのです。

 表現の自由における「自由」も、基本的には、国家権力の介入からの自由です。憲法学者の内野正幸は次のようにいいます。

日本国憲法の21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由」をうたっている。これは、国やその機関が法律や行政措置などにより、表現の自由を抑圧してはならない、ということを意味する。現在、マスコミなどの間では、差別用語を使わない、といった了解がなされる傾向にあるが、このような民間の団体による自主的な規制は、法律的な意味では、必ずしも表現の自由への制限とはいえない。また、ある人の言論活動に対して、別の者が危害を加えたりする場合、これはたしかに、常識的にみれば、表現の自由の侵害といってよさそうである。しかし、憲法21条が一次的に禁じているのは、あくまでも、個人や団体の表現行為に対して、国家がストップをかけることなのである。(内野 1990 p. 7 強調は引用者)

 つまり、「表現の自由」などの規定である憲法21条は、国家権力が各人の表現行為に介入することを禁じているのです。表現の自由における「自由」は、基本的には、国家権力の介入からの自由なのです。

 ただし、国家権力の介入だけが表現の自由の問題になるわけではありません、例えば、内野がいうように、メディアが差別用語を使わないことは、表現の自由の制限ではありません。しかし、メディアが本来は報道すべき情報を国民に提供しないことは、深刻な表現の自由の問題になりえます(齊藤 2017)。

 また、内野が示唆するように、憲法を離れて考えれば、ある人の表現行為を暴力によって妨害することは表現の自由の侵害に当たると思われます。ゆえに、もしも表現に対する抗議が暴力を伴うものであれば、その抗議には表現の自由の保障は及びません。なお、このことは、暴力だけでなく、脅迫や悪質な嫌がらせなどの場合にもいえるのではないでしょうか。

 次節からは、以上のことを前提として、なぜ表現に対する抗議にも、表現の自由の保障は及ぶのかを考えていきます。

Ⅱ.自己統治の価値がある表現には、表現の自由の保障が及ぶ

 まずは、表現の自由の保障の根拠を手がかりにしましょう。なぜ表現の自由は憲法で保障されるのでしょうか。憲法学者の宍戸常寿によれば、その根拠は表現の自由がもつ次の2つの価値にあります(宍戸 2014 p. 135)。

(1)自己実現の価値:個人が表現活動を通じて自己の人格を発展させること。個人的な価値。
(2)自己統治の価値:国民が表現活動を通じて政治的意思決定に関与すること。民主制に奉仕する、社会的・集合的な価値。

 なお、宍戸によれば、自己統治の価値については、立法や行政などの国家的意思決定への関与に限らず、社会公共の関心事一般への関与に保護の範囲を拡張することができます(宍戸 2014 p. 135)。

 私が思うに、これは、第1に、私たちは国家的意思決定だけでなく、社会的問題からも大きな影響を受けるからであり、第2に、民主主義の下では、どんな事柄に対して、社会のどのレベルで取り組むかは、市民の間の政治で決まるからだと考えられます(足立 2003 p. 3)。

 このように、表現の自由の保障の根拠の1つには、自己統治の価値があります。ゆえに、自己統治の価値がある表現には、表現の自由の保障が及びます

Ⅲ.社会的問題に関する抗議には、自己統治の価値がある

 次に、自己統治における抗議について考えます。自己統治において、抗議はどのように位置づけられるでしょうか。政治学者の齋藤純一によれば、民主主義の定義は3つに整理でき、その1つは次のようなものです[注1]。

第3は、政治的平等の理念を重視する定義であり、成員一人一人が政治的に平等な者として処遇されるような政治を民主的と呼ぶ。誰にも平等な発言権が保障され、少数者が多数者の意思決定に抗して異議を申し立てる実効的な機会が十分に開かれているような政治が民主的とされる。(齋藤 2006 p. 810 強調は引用者)

 つまり、民主主義をこのように理解すると、民主的な社会において、人々が政治的意思決定に関して抗議できることは欠かせないのです。

 なお、このことは、立法や行政などの国家的意思決定だけでなく、幅広い社会的問題の場合にもいえるでしょう。なぜなら、先述の場合と同じく、第1に、私たちは国家的意思決定だけでなく、社会的問題からも大きな影響を受けるからであり、第2に、民主主義の下では、どんな事柄に対して、社会のどのレベルで取り組むかは、市民の間の政治で決まるからです。

 このように、社会的問題に関する抗議は、民主的な社会の自己統治において、重要です。言い換えれば、社会的問題に関する抗議には、自己統治の価値があるのです

Ⅳ.表現における差別は社会的問題である

 次に、差別が社会的問題であることと、表現が差別の問題になりうることを確認します。

 いうまでもなく、性差別・人種差別・障碍者差別などの差別は社会的問題です。そして、差別をなくすことは私たちの社会の課題です。なぜなら、第1に、差別は場合によっては命にかかわるほど重大な問題になりえるからであり、第2に、誰もが(私を含め)差別しうる存在だからであり、第3に、社会のしくみに由来する構造的差別があるからです。

 また、表現は差別の問題になりえます。差別表現というと、まず、差別語が挙げられます。しかし、問題はそれだけではありません。例えば、表現におけるステレオタイプ(あるカテゴリーの人々に対する固定的なイメージ)も差別の問題になります。なぜなら、ステレオタイプは偏見や差別につながるからです(上瀬 2002 pp. 7-10)。

 社会心理学の知見によれば、テレビや広告などのメディアの表現は、視聴者や読者の外国・外国人イメージやジェンダー意識などの形成に影響を与えます(李 2017、上瀬 2006、渋谷 2017)。例えば、社会心理学者の上瀬由美子は、ジェンダーのステレオタイプについての研究を整理し、次のようにいいます。

ここまでみてきたように、メディアにおけるジェンダー表現は、かつてのような露骨なステレオタイプ表現は少なくなったようにみえるが、批判されにくい、微妙な姿での偏りは現在でも存在している。曖昧な形であれ、露骨な形であれ、ジェンダー・ステレオタイプは受け手の現実認識に影響を与え、最終的には個々の女性の生き方に対する姿勢にさえ影響を与える。特に、メディアの情報を無批判に受け入れやすい子どもには、その影響が大きい。(上瀬 2006 p. 83 強調は引用者)

 つまり、メディアにおけるジェンダーのステレオタイプの表現は、視聴者や読者の現実認識に影響を与えるのです。ゆえに、メディアのステレオタイプの表現は、些細なことではないのです。

 このように、差別は社会的問題であり、また、表現は差別の問題になりえます。ゆえに、表現における差別も社会的な問題だと考えられます

Ⅴ.結論

 最後に、ⅡからⅣまでの内容を次のようにまとめます。

自己統治の価値がある表現には、表現の自由の保障が及ぶ。……①
社会的問題に関する抗議には、自己統治の価値がある。……②
表現における差別は社会的問題である。……③

 これらのことから、次のようにいえるでしょう。

①・②より、社会的問題に関する抗議には、表現の自由の保障が及ぶ。……④
③・④より、表現における差別に関する抗議には、表現の自由の保障が及ぶ。……[結論]

 このように、差別に関して、表現に対する抗議にも、表現の自由の保障が及びます。ゆえに、表現に対する抗議は「表現の自由の侵害」ではありません。

おわりに

 表現に対する抗議にも、表現の自由の保障は及ぶので、表現に対する抗議に対する抗議にも、表現の自由の保障は及びます。ただ、表現に対する抗議に対して抗議する人々が、表現に対する抗議を「表現の自由の侵害」だと判定するのであれば、その判定は正しくありません[注2]。

 また〈表現に対する抗議にも、表現の自由の保障は及ぶ〉ということは〈表現に対する抗議はどんなものであれ正しい〉ということを意味しません。抗議の中には間違ったものもあるでしょう(もちろん、そうした間違った抗議にも、表現の自由の保障は及びます)。

 たしかに、私たちは間違う存在です。しかし、それゆえに、表現に対する抗議が開かれていることが重要です。なぜなら、私たちは、抗議がなされるまで、表現における差別を見過ごしてしまうかもしれないからです。メディア論を専門とする湯浅俊彦は次のようにいいます。

差別的表現は社会的少数者の批判や抗議によってはじめて顕在化する。なぜなら、差別の存在を切実に感じていない多数者にとっては見過ごされる表現であったとしても、社会的少数者にとってはその生存を脅かされるほどのインパクトをもつことさえあるからである。(湯浅 1996 p. 157)

 湯浅がいうように、ある表現に対する抗議がなされてはじめて、その表現の問題が表面化します。表現に対する抗議が開かれていることによって、私たちが表現における差別に気づき、それを修正する可能性が開かれるのです。

 読んでくださって、ありがとうございました!

注・参考文献

[注1]なお、第1の定義と第2の定義は次のようなものです。

第1は、政体(政治体制)の分類に沿った定義であり、支配者が1人の君主制、少数の貴族制との対比において、それが多数者たる民衆である場合にその政体を民主制と呼ぶ。この定義では、民衆に主権が存するような「人民主権」の政体が民主的とされる。第2は、政治的な意思形成・意思決定の過程に着目する定義であり、少数者の意思ではなく多数者の意思にもとづいて政治的決定が行われる場合に、そのような意思決定が民主的であるとされる。通常は多数決がそうした民主的な政治的決定に相応しい原則として受け入れられている。(齋藤 2006 p. 810)

 多数者の意思を重視する第2の定義と、少数者の異議申し立てを重視する第3の定義は、対立するように見えますが〈第3の定義の条件が満たされるかぎりにおいて、第2の定義は正しい〉と考えることができるでしょう(宇野 2020 pp. 244-247)。

[注2]付言すると、もしも表現に対する抗議が「表現の自由の侵害」だとすれば、同様に、表現に対する抗議に対する抗議も「表現の自由の侵害」だということになってしまいます。

足立幸男 2003「トランス・ディシプリンとしての公共政策学――その成立可能性と研究領域」(足立幸男/森脇俊雅編『公共政策学』ミネルヴァ書房 序章)
李津娥 2017「ジェンダーとセクシュアリティ」(李光鎬/渋谷明子編『メディア・オーディエンスの社会心理学』新曜社 第7章)
内野正幸 1990『差別的表現』(有斐閣)
宇野重規 2020『民主主義とは何か』(講談社現代新書)
金子宏/新堂幸司/平井宜雄編集代表 2008『法律学小辞典』(第4版補訂版 有斐閣)
上瀬由美子 2002『ステレオタイプの社会心理学――偏見の解消に向けて』(サイエンス社)
上瀬由美子 2006「メディアとジェンダー」(福富護編『ジェンダー心理学』〈朝倉心理学講座 14〉朝倉書店 5)
齋藤純一 2006「民主主義」(大庭健編集代表『現代倫理学事典』弘文堂 pp. 810-812)
齊藤愛 2017「報道の自主規制と表現の自由」(阪口正二郎/毛利透/愛敬浩二『なぜ表現の自由か――理論的視座と現況への問い』法律文化社 Ⅱ部⑫)
宍戸常寿 2014「表現の自由・集会結社の自由・学問の自由」(安西文雄/巻美矢紀/宍戸常寿『憲法学読本』第2版 有斐閣 第8章)
渋谷明子 2017「エスニシティ」(李光鎬/渋谷明子編『メディア・オーディエンスの社会心理学』新曜社 第6章)
湯浅俊彦 1996「差別的表現と「表現の自由」論」(井上俊ほか編『差別と共生の社会学』〈岩波講座 現代社会学 15〉岩波書店 pp. 155-169)

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