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洗礼を受けた理由

こんにちは!寒くなってきましたね…🥶

自己紹介の投稿で、私は大学卒業前に受洗したことをお話ししました。今回は、受洗に至るまでの経緯となぜ「マルタ」という洗礼名にしたのかということについてお話ししたいと思います。

私はキリスト教系の大学へ進学し、大学の寮で生活していました。ある日、朝祷会というものに参加したことがきっかけで某ルター派教会の牧師先生と出会い、毎週礼拝へ足を運びました。

そして気が付けば私は就活をする時期になり、将来のことを考えなくてはならなくなりました。地元に戻って働こう、と考えてはいたものの、コロナ禍でどうしても対面での採用試験が難しく、オンライン一択での無謀な就活をせざるを得ませんでした。

結果は惨敗。そりゃそうですよね。持ち駒が極端に少なかったんですから。当時の私は酷く落ち込んでしまい、精神的にダメージを受け、睡眠障害になり体調不良になってしまったのです。

「神様は本当に私のことを何があっても愛してくれるのか?」

ある日知人にその疑問をぶつけました。返ってきた答えが

「祝福のお祈りに『神はあなたを見捨てない』という言葉がある。だから何があっても愛してくれるよ」

というものでした。それなら信じてみよう、卒論が落ち着いたら洗礼を受けよう、と決心しました。

そしてクリスマスの礼拝後、教会の先生に「洗礼を受けたいです!」と相談すると、「ぜひやりましょう!」と言ってくださり、年明けから洗礼準備会がスタートしました。

準備会をしていく中で先生に「洗礼名は何がいい?」と聞かれ、私は「プロテスタントなのに洗礼名あるんですか⁉」と驚きました(;^_^A

教会や先生の考え方にもよるそうですが、ルーテルでは洗礼名を付けることがあるそうです。

聖書の人物縛り、ということもあり、何がいいかギリギリまで悩みました。ふと、「『マルタ』いいなぁ…🤔」と思い浮かびました。

ルカによる福音書の10章38節から42節の「マルタとマリア」の話が浮かび、「マルタの性格が自分っぽいな」と思ったのです。礼拝でこの箇所を読む度に、マルタの真面目さと不器用さがなんだか自分を見ているみたいだな、と感じていました。それで「マルタ」という名前を選びました。

大学卒業や引っ越しの都合もあり、おおよそ1ヶ月程の準備会を経ての洗礼式となりました。洗礼式ではものすごく緊張していて、準備会で聞いた式文の内容が頭から抜け落ちる程でした…(;^_^A

水をかけてもらった後に「アーメン」と言わないといけなかったのに、言い忘れてしまい、先生から「アーメンって言ったっけ?」と聞かれ、慌てて「アーメン」と言ったのは今ではいい思い出です(;・∀・)

ちなみに後で聞いた話ですが、先生も私が言ったか分からなくなって確認した結果会話(?)が成立してしまったそうで…(苦笑)
友人にこの話をしたら爆笑されたのは言うまでもありません。

あれから7ヶ月経った今、自分は何か変われたのか、と聞かれると今でもよく分かりません。まだ移籍先の教会も見つけていませんし、これから自分がどうなるかもよく分かりませんが、何年か経ったら変化を感じるのかな、なんて考える今日この頃です。

長くなりましたが、今回はここまでです!それでは!




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