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【詩と論考】世界|人×ことば×詩 vol.5|文と写真と詩:洋々(詩人)@石垣島


世界

そこにあった
ただ
そこにあった

花が咲いた
そこに花が咲いた

花が咲いたから
わたしが居ることを知った

わたしが居て
花があった
花があって
わたしが居た

風が吹いた
花が揺れた
わたしは揺れないことを知った

虫が来た
花に止まった
わたしは飛べないことを知った

人が来た
花を摘んだ
「きれいな花」
目を細めて微笑んだ

わたしは
人が花をきれいだと思うことを知った
わたしは
摘まれてしまった花を
きれいだと思わないことを知った

太陽の日差し
大地を照らす

わたしは
わたし以外のたくさんが
この世界にあることを知った

さりとて
わたしはここにある
ただ
ここにある

by 洋々


「嫌い」は簡単に信じるのに、「好き」を信じられない人へ

あなたは、あなたのことを「好きだ」という人の言葉を、どこまで信じられますか。そう問われた時、一切の疑いを挟む余地もなく

「100%信じます」
そう迷いなく答えられる人がいるのならば、それはとても素晴らしいことだと私は思う。恐らくまずは、誰が、どこで、いつ、どんな関係性で、どんな状況で、どのくらい真剣で…etc

「条件」を確認する人も多いだろう。

好意に条件をつけること。今回の記事のテーマはこの一文に尽きる。

前半は、他者から自分に向けられた好意について。
後半は、自分自身の好意について。

世界と自己と

他者から自分に向けられた好意について

自分に向けられた「好き」に対して、自分で条件を付けてしまう人がいる。
分かりやすい例は恋愛だろう。相手から好かれること。それは幸福なことである反面、不安を感じるもの。些細な事から相手の好意を疑い、あまつさえ浮気とみなす場合もある。その不安こそ、好意に条件を付けてしまった代償ではないかと、私は考える。

なぜ自分が好意を向けられているのか分からない人は、その好意の「条件」を考えてしまう。例えば、容姿が整っていること、話が面白いこと、お金を持っていること、社会的地位があることなど。条件を満たした自分だからこそ、好意を向けられていると解釈する。

しかし、条件を設定すると、様々な不安が付きまとう。例えば、自分より良い条件を持った人(自分より容姿の整った人、自分より話の面白い人、自分よりお金を持っている人など)が現れた時、自分が条件を満たせなくなってしまった時、その好意への信頼は簡単に崩れてしまうだろう。

この世の誰よりも良い条件を持っていて、決してその条件を満たせなくなることなどない。残念ながら、そんな人間は存在しない。だからこそ、「好き」に条件を設定する限り不安が消えることはない。

どうして、好意にわざわざ苦しい条件を加えてしまうのだろう。きっと、自分が好きになれないのだと、私は考える。私が好きになれない私を、どうして「好き」だと言えるの?その疑問に対して、理解する為に「条件」を付与する。私はこういう条件を満たしているから、好意を寄せられている。

私が嫌いな私。そんな私を無条件に「好き」と言われても信じられない。
ただ、条件を満たした私を「好き」だと言うのならば、納得できる。
自己への否定が、自己への好意の否定に繋がる。その妥協点が「条件」だと私は思う。

自分自身の好意について


これは恋愛に限った話ではなく、自分自身の感じる「好き」にも共通する点がある。例えば、食べ物は好き嫌いが分かりやすい。私はトマトが嫌いで、リンゴが好きだ。その自分が感じる「好き」に疑いを持つ余地はない。なぜ好きなの?と問われた時、躊躇いなく答えられるだろう。

では、「好き」の対象が仕事になったらどうだろう。あなたは今の仕事が好きですか?あるいは、あなたの好きな仕事は何ですか?そう問われた時、迷いなく答えられるだろうか。なぜ好きなの?と問われた時、「条件」を抜いて答えられるだろうか。

自己啓発本に、自分の好きを知る方法論が書かれたものをよく目にする。それほどに、自分が何を「好き」なのか、分からない人が多い。その根底は、前半の結論と同じく自分自身への信頼と好意。自分を信頼していなければ、自分の「好き」にも信頼が置けない。だから、社会的地位のある人や成功者、親、宗教、常識など、自分が信じる何かに判断を委ねたくなる。例えそれが、自分の感情であったとしても。

何かを好きだと言うことも、何かを嫌いだと言うことも、そんな当たり前の感情でさえも、誰かの目を気にすることはある。誰かに、同じものを好きであって欲しい、同じものを嫌いであって欲しいと願われることもある。そうして誰かの願いに応え続けるうちに、自分の本当の感情が見えなくなってしまう。厳密には、本当の感情の必要性を感じなくなってしまう。それを、誰も求めてはくれないから。誰かに願われないと、自分の心が見えなくなってしまう。感情も筋肉と同じで、使わなければ萎んで硬くなる。大人の目を気にして育った子ほど、子供らしくない大人の対応が出来る。自分の内側から起こる感情を無視し続ければ、それは不自然で歪に見えるだろう。

人からの好意を受け取ることも、自分の好意を信じることも、まず、自分を好きになることが始まりだと私は思う。もちろんそこに条件はいらない。
私が、私を好きになる。あなたが、あなたを好きになる。それは自分にしかできないこと。無条件に自分を好きになることが、難しいと感じることもあるだろう。ありのままの自分を受け入れがたいこともあるだろう。
そんな自分を愛するために努力することを、悪いことだとは思わない。

太っている自分が嫌いだから、痩せる為に努力する。弱い自分が嫌いだから、身体を鍛える為に努力する。その努力は自分の力になる。だけど、嫌悪が行き過ぎれば恐怖になる。痩せるための努力が、太る恐怖心から過度なダイエットへと変貌し、自分を追い込んでしまう。それでは、本末転倒だ。

私たちは、元々無垢だった。
成長し、外の世界と関りを持ち出してから気付く。
自分と他者が存在し、その間に「差」があることに。
能力、美醜、社会的地位、それに人種や性別。
「差」が、私たちを苦しめ、時に死に追いやることもある。
しかし、差はあくまで外の話。
外に合わせて自分を測って苦しむ必要はない。

条件なんて必要ない。
私の内側は、それだけで元々完結していたはず。
だから本来は、好きも嫌いも無かったはずなんだ。
好きや嫌いという価値観の外側。
ただ存在しているだけで自然と認めている自分。
私はまず、私を認めてあげて欲しい。
好きも嫌いも、その後の話なのだから。

(了)


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この記事を書いた人

洋々(詩人/作家/整体師)
1989年生まれ。『自由に表現できる心を』石垣島を拠点に活動中。PSJ2019年大会で、日本3位。KSJ2021年大会、名古屋大会優勝。静岡でポエトリーユニット『分水嶺』を結成。
現在石垣島で詩人として活動。言葉と身体を通じて、自由に表現ができる身体作り、それを指針に整体師として人と向き合う。子供たちの支援や、蕎麦屋の店長としても活動中。
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