トイレットペーパー地獄から抜け出して魂の欲求に気づく話

こんにちは、まるです。

どういう経緯だったか忘れましたが、私は子どもの頃から「死」を常に考えながら過ごしていました。

と言っても子どもの頃は
「死ぬのこわ〜い!」「地獄に落ちたら閻魔さんに舌抜かれるかも!」レベルの「死」なんですが。


あ、今ふと思い出した。

昔の親って、よく閻魔さんにしつけの肩代わりさせてたよね。
「嘘ついたら閻魔さんに舌抜かれるで!」とか、日常的に言われてた。

うちの親なんか、もったいない紙の使い方してると(裏にまだ書けるところがあるのに捨てちゃう、とか)

「死んだら地獄に落ちて、火の海の上をトイレットペーパーでできた橋、渡らされるで!渡らへんかったら鬼に後ろからフォークみたいので突かれるんやで!トイレットペーパーなんかすぐ燃えてしまうで!」

とか言ってた。

これがもう、子ども心にすごく怖くて。

テレビドラマで漫画家さんや作家さんが、ボツ原稿をクシャクシャっと丸めてポイってゴミ箱に投げるシーンをみるたび、

「ああ〜!あの人トイレットペーパーの地獄に落ちる…」

と怖い思いをしていました。


……あるかあ、そんな地獄(怒)。

トイレットペーパーみたいな近代の発明品を、地獄で使うかあ!



と、まあ、かなりのゴンベたれ(言うことを聞かない子)でしょっちゅう親に叱られていた私は、怒られる回数だけ地獄の話を聞かされていたわけで、それで常に「死」について考える子どもになったのです、と言えないこともないな。

結局子どもの頃の「死」への恐怖って、「地獄に落ちる」ことへの恐怖だったのかも。(ええ、そんなに悪い子だったんです)


それはさておき。

常に「死ぬこと」を考えていた私は、死ぬのが怖くて怖くて、何とか死ぬのが怖くなくなる方法はないか、と思っていました。

それと同時に、「死ぬ時、どんな人生なら満足して死ねるんだろう」ということも常に考えていました。

臨死体験や生まれ変わりの本もたくさん読みました。

その中でも私が一番しっくりきたのは
飯田史彦著「生きがいの創造」という本です。
おそらく絶版になっているので、気になる方は図書館か古本屋で探してみてください。
(Kindle Unlimitedなら0円で読めます)

その過程で、
命は一回限りのものではなく「死」によってその時の命を卒業し、その後も生と死のサイクルを繰り返すことで「私」という存在を成長させていく
という死生観にたどり着くことができました。

なので、未知のことに対する恐怖はありますが、今は「死」そのものを怖いと感じる気持ちはかなり小さくなっています。

そもそもトイレットペーパー地獄は存在しない、とわかりましたしね。


問題は、どのように生きれば後悔しない人生を送れるのか、ということ。


私は、常々「誰にも真似できない、波乱万丈の人生」を送りたいと思っています。
死ぬ間際に人生を振り返ってみて、
「ああ、なんて面白い人生だったんだろう!」と思いたいからです。

だから、その時々の選択を迫られた時、できれば人生が面白くなる方を選ぼうと思っています。

若い時は「迷った時は苦しいと思う方を選べ」という教えを実践していて、結果的にそれなりの面白い生き方をしてきたと思うのですが、

それももうまどろっこしいので、ダイレクトに「面白い方」を選ぼうと思っています。

それが、今まで考えてきた結果、私の「後悔しない生き方」です。

 

それはそう。これからもそういう方針でいきたいと思いますが、もう一つ大切なことがある、ということに気づきました。


先日、クラブハウスでステージⅣの胆嚢ガンで余命宣告を受け、その後寛解状態になっている方と、同じくステージⅣの胃ガンで余命3ヶ月の宣告を受けられた方のお話を聞く機会がありました。

胃ガンの方はまだお若く(おそらく40代)、宣告を受けた3ヶ月よりもすでに3ヶ月長く生きてらっしゃって、しかもとてもお元気。

お声だけを聞いていると、「もうすっかり元気なんだな」と思うのですが、実際のところこの方のガンは「スキルス性胃ガン」なので、この先の生存率は一桁台。

楽観できるどころか、遠くない未来に確実に来るであろう「死」。

そのことをご本人は十分にわかった上で、

「今は、死ぬことは怖くない。でも残された時間は多くないから、自分の気持ち良さ、楽しさ、喜び、それを最優先にやっています」

とおっしゃっていました。

「他の人の目とか批判とか、そんなつまんないことに気を取られている暇はない」

とも。


これを聞いていて、「後悔のない生き方」とは

「事業に成功した」とか「本を何冊出版した」とか「こんな技術を身につけた」とか、そんなことではなく

「どれだけ自分の心に正直に生きたか」

なのかもしれない、と思いました。


そこで、改めて自分の心に

「余命3ヶ月と宣告されたら、何をする?」

と問うてみました。

もうすでに50代、人生の黄昏時に入っています。

10代、20代の頃は、怖いと言いつつも「死」は遠い先の話だった。そんな時に「余命3ヶ月と宣告されたら?」と聞かれても、ピンとこなかったでしょう。

今は違います。
かなりの現実感を持って、この問いを自分に突きつけることができます。

今、私が余命3ヶ月と宣告されたら。

自分を成長させるために、新しいことを学ぼうとするでしょうか?
自分を深めるためにたくさん本を読むでしょうか?
美しい景色を見に出かけるでしょうか?


いいえ。

 

私は、あなたに会いに行きたい。

あなたに出会って、たくさん話をしたい。

あなたに会うために、日本中、世界中、どこへでも行きたい。


私にとって日本地図は、どこそこにこんな美味しいものがある、こんな美しい景色がある、と記録するものではなくて

ここにあの人がいる、ここにはこの人がいる、と記録するものです。


私と関わってくれる人たちに会いに行って、深い話をたくさんしたい。

そして本当に命が尽きそうになったら、家族に感謝を伝え、来世での再会を誓って旅立っていきたい。

これが私の希望。

あんまり人付き合いが得意でないと思っていたのに、余命3ヶ月と言われたらやりたいことにこれが出てくるとは。

もしかすると、これが私の魂の欲求なのかもしれない。


クラブハウスでは、

「余命3ヶ月と宣告されたとしたら、という質問をしたけど、出てきた答えを、本当に余命3ヶ月になるまで待つんじゃなくて、いますぐやってください。明日死ぬかもしれないんだから。余命3ヶ月と言われた僕らより、あなたたちが先に死ぬ可能性だってあるんですよ。」

と話されていました。

そうです。私もあなたも、明日、今日と同じ朝を迎えられるとは限らない。

だから、私は会いに行こうと思います。

私が会いたいと思う人に。

私が会いたい、あなたに。


私が会いに行ったら、嫌がらずに一緒にご飯食べてね。そしていろいろお話ししましょう。

待っててね。






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