いつになったら苦しまずにいられる日々が来るのか。 いつになったらストレスから解放されるのか。 そんなことばっかり考えて、ついに20歳になった。 世間からしたら"まだ"20歳なんだろうけど、 私からしてみれば"やっと"20歳なのだ。 いまだに日々を生きるのはしんどくて、 未来は数ヶ月先すらも見えないままで、 人生は難しいなぁと常々思ってる。 最近『不適切にもほどがある!』というドラマを見た。 ほとんど一気見の勢いで見た感想は、 「どの時代も生きづれぇな」だった。 つまり"生
経験上、「いつか」は99%の確率でやってこない。 「いつか一緒に遊びに行こうね」はこれから疎遠になっていく合図だし、「いつか買ってあげるよ」はトイザらスで駄々をこねる子供を持つ親が数えきれないほど使ったであろう、その場しのぎの定番文句である。 明確な日時を指定しない「いつか」という言葉を 無条件で信じるほど馬鹿な人はいないと思う。 それでも私は、残りの1%を信じる。 それが唯一の希望だから。 「いつか家族が元通りになる」って、 「いつか私は自由になれる」って、 そう言い
「10代最後の夏」とかそんな名前でもつけないと日々の大切さを感じられないのが人間なんだと思う。「日常」って名前じゃ大切にできないなんて、誰にも愛されずに終わっていく一日があまりにも可哀想じゃない?私みたいで。
「眠れない夜という名の朝」
あんな人と同等に成り下がった私を誰か蔑んでくれ。誰に向けられてるのか分からないこの罪悪感の矛先になってくれ。
感情を言語化できないのがすごい気持ち悪いけど、かと言って言語化できたところで他人に完全に理解させることは不可能なんだよな。共有したいのに、できない。どーしよ。
「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。」
目が覚めて一番最初に絶望を感じる日々は終わったんだ。
何の為に人は言葉を紡ぐのだろう? 曖昧で不安定で不純であるにも関わらず、何故。 その問いへの私の答えは、『自分の為』である。 伝達の手段として最も用いられる『言葉』だが、この世に概念的なものが存在している限り『言葉』は永遠に曖昧だ。その信憑性も、結局は『言葉』を用いて証明することになる。 人間は自分の為ならどんな嘘もつけてしまう。それなのに、自分をごまかしながら、一時の安定のために信じてしまう。少しの期待を込めながら、根拠なんてないと分かっていても信じてしまう。自分の為に
『ない』がある
他人に嘘つかれた時の痛み、靴擦れっていう比喩が1番しっくり来た。
「好き」とか「愛してる」じゃなくて、「気に入ってる」だってさ。 あなたらしくて案外、他のどんな平凡な言葉より心に沁みちゃったりなんてね。
「言葉は明快だが、それゆえに真実を歪めてしまう」
『その場しのぎ』がしのげるのはその場だけ
「可哀想」って残酷な言葉だよなぁ
他人の人生にケチつけるなんて、一体何様なんだと言ってやりたかった。言ってやればよかった。