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ファンタジー小説「りゅう」-30092文字

 わたしは逃げたかった。
 汚い言葉を吐かれ後ろに流すトイレの便器のようなオペレーターの仕事、もう将来を想像できない同棲相手との関係、どこに行っても人だらけの都会の喧騒。
 なにもかもがわたしをすこしずつ壊していった。
 逃げたい! 逃げたい! 逃げたい!

 気がつくと、わたしはキャリーバッグひとつで通勤に使っていた電車の、終点の田舎町を訪れていた。
 あてなんかない。この町になにがあるかなんて下調べもしていない。
 着替えはもってきたものの、田畑が広がる風景に、泊まる施設があるとは思えなかった。

 舗装されていない道をキャリーバッグのガラガラとした歪な音を響かせ歩く。わたしの足音はまるでとぼとぼといっているような歩みだ。疲れ果てた牛のようなそれだ。
 
 季節は五月の頭で、世間はゴールデンウィーク真っ只中だ。日差しもかなり強くなってきた。わたしはカーデガンを脱いでTシャツ姿になった。
 朝からなにも食べていないので、空腹感がわたしを襲った。
 途中、バス停があり、ベンチが設置されていたので、そこに腰掛け、ペットボトルの水を飲んだ。

 さて、どうしよう。

 腕時計を見ると午前の十一時半だ。いくら見渡しても店の一軒もない。駅前には蕎麦屋があったな、と思い出し、そちらに戻ろうと腰を上げたそのときだ。
 そばにある木に隠れるようにして男の子がひとり、立っているのに気がついた。
 わたしがその姿を捉えると、男の子はさっと身を隠した。
「ぼく、出ておいで」わたしは努めて優しい声で話しかけた。
 男の子はぴょこっと頭を出した。
「ちょっとぼくに訊きたいことがあるの。出てきてくれると嬉しいな」
 わたしは笑顔を向け、じっと待った。といっても笑顔を保ちつづけるのはそんなに簡単なことじゃない。わたしはもともと愛想が悪いのだ。母親にだって笑顔を向けられず、いつも「辛気臭い子」といわれていた。だから、男の子にもはやく出てきてもらいたかった。
 
 そうだ。飴を持っていたんだった。

 わたしは思い出し、ショルダーバッグから飴の袋を取り出した。こんなもので男の子が釣れるのかは怪しいところだが。でも、やってみる価値はある。
「ぼく、甘い飴をあげる。ソーダの味がしてとっても美味しいんだよ。一緒に食べない?」
 飴をひとつつまんで振りかざす。木の陰の男の子は目を爛々と輝かせた。そして、いとも簡単に出てきた。してやった!
 出てきた男の子は、背丈から察するに五、六歳といったところで、髪の色がグレーがかっていて、瞳が淡いブラウンだ。生まれつき色素に問題があるのだろうか。
「はい、飴あげる。喉につまらせないように気をつけて食べてね」
 男の子は礼もいわずに飴を受けとり、紙を剥いて口に放り込んだ。
「んー」男の子は頬に手を当て声を漏らした。
「美味しいでしょ?」
「うん!」笑顔でうなずいた。
 男の子は水色のボーダーのTシャツと膝小僧が見える丈の半ズボンを身につけ、すこしぽっちゃりとした手足が伸びて、可愛らしかった。
「ぼく、ここらへんの子?」
「りゅう」男の子はなかば叫ぶようにいった。
「え?」
「りゅうだよ」
 あ、自己紹介をしていたのか。りゅうという名前のようだ。それならばこちらも名乗らないとフェアじゃない。
「わたしは瑠衣」
「るい?」りゅうという男の子は飴を頬っぺたに収め、そういった。そしてわたしのとなりに座った。
「そう、瑠衣。橘瑠衣。ところでりゅうくんに訊きたいことがあるんだけど」
「なあに?」りゅうくんは小首を傾げた。
「この町に泊まれる施設はある? ホテルとか宿のようなもの。二晩ばかり眠れればいいんだ」
「おうちないの?」りゅうくんは足をぶらつかせながらそう尋ねた。もっともな質問だ。
「おうち? うーん、おうちに帰りたくないんだ。だからこの町に来たの」
「かえらないと、おかあさん、かなしいよ」りゅうくんが眉根を寄せた。幼い子供ならではの発言だ。
「ああ、お母さんとはもう別々に住んでいるんだ。でも、ときどきは帰るよ。遠いから、なかなか時間とれないけど」
 わたしは取り繕うように嘘をついた。わざわざつかなくてもいい嘘を。しかも小さな子供相手に。
 
 わたしの母親は、わたしの住むアパートの家主で、あちこちにアパートを持ち、それらの家賃で生計を立てていた。父親とはわたしが幼いころに別れていて、ある日新しい父親を連れてきた。わたしが中学三年のときだ。新しい父親はわたしを舐めるように見て、「将来いい女になるぞ」といった。
 新しい父親がわたしをいやらしい目で見るのに耐えられなくなった。だから家出を繰り返した。友達の家に転がり込み、何泊かさせてもらい、また別の友達の家に転がり込むことをつづけていた。
 母親は探しもしなかった。新しい父親との生活で満たされていたのだろう。わたしがいない方がかえって都合がよかったのかもしれない。
 
 高校生になると、自分の持つアパートの一室を与えてくれた。生活費もたっぷりと渡してくれた。それが母親としての愛情表現だと思っていたのだろう。実際、わたしにとっても自由を得、気ままに生きていられた。友達が部屋に集まり、宅配のピザを取り、パーティーをしたりしていた。化粧をして、遠い方のコンビニへ行き、酒を買って飲んでもいた。近い方のコンビニは、制服姿で毎日のように通っていたので、アルコールを売ってくれるとは思えなかった。

 とにかく、乱れた生活を送りながらも、なんとか高校だけは卒業できた。大学に行ってまで学びたいこともなかったわたしは、就職をした。そう、なんの知識も経験値もなく、仕事をしてお金を得ることの大変さを甘く見ていたのだ。

 最初の会社では営業職に就いていたが、正しい日本語を上手く使いこなせない上に、気の利いた話題も振れず、まともに商談ができずに、上司に叱られてばかりで、数年でドロップアウトした。
 つぎに勤めたのが玩具メーカーの営業の仕事。子供目線にもなれず、やはり営業はとことん向かないことを思い知った。
 そしてその次に就いたのがいまの職場。パソコンの前で一日中座りっぱなしのお仕事だ。座っているだけならまだいい。コールが鳴ると、出なければならないのだ。いやがおうにも。
 健康食品や化粧品などを扱う会社なのだが、注文や契約はネットで行われる。わたしは商品に関する問い合わせなどを受ける「インバウンド業務」だ。よくお問い合わせ電話番号に電話を掛けると「解約をご希望の方は三の数字を······」というアナウンスにナビゲートされ、「現在大変混みあっております。このままお待ちいただくか、再度お掛け直しください」という掛ける方はいらっとさせられるあのアナウンスが必ず流れる。わたしのところの回線の、主なやりとりは解約かクレーム処理だ。待たされて苛々しているお客様が多く、どちらも胃が痛くなるような言葉を浴びる。よく今日まで我慢した、と自分を褒める。
 
 オペレーターはわたしには向いていなかった。もっと創造性を逞しく磨ける職場が向いていた。
 それはいったいどんなところだ? と尋ねられても答えられない。だって、本当にそうだとは思えないからだ。創造するっていったって、なにを? となる。絵もへたくそだし、文章も小学生の読書感想文レベルで止まっている。
 わたしにはなにもない。口下手で、創造性に乏しく、愛情も薄い。
 同棲している彼にもいわれた。
「おまえさ、子供とか苦手だろ」
 図星だ。赤ちゃんなんか抱いている自分を想像するだけで胸焼けがする。
 おかげで、二十代も後半になるこの歳まで、彼氏にプロポーズもされることなく放置された。おまけに、彼には新しい女ができたらしい。証拠はない。勘だ。ときどきふんわりと微笑む。その笑顔はわたしが与えたものではない。おそらく、新しい女が彼に生じさせたものだ。
 でも、もういい。もう、いいんだ。わたしは疲れ果てていた。そんなこんなに体力を奪われるのはもうやめにした。
 どこでもいい。わたしをニュートラルに見てくれる場所で生きてみたかった。だからここにきた。
 そして、いま、一人の子供がわたしに無邪気な笑みを投げかけている。子供が苦手なんじゃない。子育てをする心の準備ができていないだけだ。いまいる世界中の子供と、接点を持つことはなんら難しいことではない。

 りゅうくんは、ときどき風にざわめく木を見上げたり、わたしの顔を見つめたり、口の中の飴がなくなるまでとなりに座っていた。
「るい」
 いきなりそう呼ばれたので、すこし面食らった。
「え? な、なに?」
「ぼくのおうち、くる?」
「りゅうくんのお家?」
「うん。だってねるところないんでしょ?」
「そうだけど、いきなり、それはご家族には失礼なんじゃないかな」
「ごかぞく?」
「そう、りゅうくんのおとうさんやおかあさん」
「ぼくのおうちには、おかあさんとおねえちゃんがいるけど、おとうさんはいないよ」
 わけがあるのだろう。母子家庭のようだ。それでも、このままりゅうくんについていって泊まらせてくれなどとは、あまりにぶしつけだろう。
「いやあ、ありがとう。でも、ちゃんとした宿を探すよ」
 わたしがそういうと、りゅうくんは茶色い瞳をくるくると回した。
「ちゃんとしたやどってなあに?」
「え? だから、お金を払って泊まらせてくれる施設のこと」
「しせつ?」
「うん、ホテルとか民宿とか」
「そんなのないよ」そういってりゅうくんはベンチから下りた。「おこめやおやさいつくってるおうちしかないよ」
 やはりそうか。わたしは観念して、駅に戻ろうと立ち上がった。
「どこいくの?」りゅうくんがわたしの背に向かっていった。
「ん? そうねえ、電車に乗って帰る、かな」
「ふうん。そっか。またあえる?」
「うん、会える、かな」
「じゃ、ばいばい」りゅうくんは小さなパーの手をひらひらと振った。
「ばいばい」わたしは力なく手を振った。
 
 それから、わたしは駅に向かい、キャリーバッグを引きずり、えっちらおっちらと歩いた。ひどくくたびれていた。何日も旅して回ったわけでもないのに、足が重たかった。駅までが遠く感じた。腹が鳴った。ひもじい。倒れそうだ。水が飲みたい。
 ショルダーバッグの中からペットボトルを取り出そうとした。しかし、そこにあるはずのペットボトルはなかった。
 しまった。さっきのベンチに置き忘れてきたのだ。見渡すところ周囲に自販機はない。しかしベンチまで取りに戻る体力もない。もうだめだ。とその場に膝から崩れ落ちた。
 るいー。遠くからわたしを呼ぶ声が聞こえた。
 顔を上げると、坂道の向こうからりゅうくんが走ってくるのが見てとれた。右手を高くかかげ、その手にはペットボトルが握りしめられていた。
 わたしのところまで走ってくると、りゅうくんはにこりと笑った。
「るい、わすれもの」
「あ、ありがとう」お礼をいうのももどかしく、ペットボトルの蓋をひねり開け、水を飲んだ。
 喉が潤うと、わたしはあらためてりゅうくんに向き直った。
「本当にありがとう。助かったよ」
「どうしてこんなところでしゃがんでいたの?」    りゅうくんはずっと走ってきたのに息ひとつ切れていない。
「もう、歩く気力がなくて」
「るい、ぼくのおうち、くる?」
 情けないようだが、わたしはそのひとことにすがりついた。
「いいの?」
「うん、いいよ」
 りゅうくんは歩きだし、わたしはそのあとをついていった。

「りゅうくんって何歳なの?」
「ぼく、ななさい」
 七歳? そうは見えない。成長が遅いのだろうか。それともわたしの見極めが甘いのだろうか。まあ、この頃の子供というのは成長にもばらつきがあるのだろう。子供のことはよく知らないが。
「ねえ、あめ、もうないの?」
「あめ?」
「ソーダあじのあめ」
 ああ、さっきあげた飴のことか。気に入ったようだ。わたしはショルダーバッグのファスナーを開ける。ソーダ飴はまだ袋にいっぱいある。でも、与えすぎたら、りゅうくんは虫歯になってしまわないだろうか。りゅうくんのお母さんは厳しい人かもしれない。でも、まあ、ふたつくらいならいいか。わたしはソーダ飴を摘まんでりゅうくんに手渡した。
「ありがと」りゅうくんは紙を剥いて、飴を口に放り込んだ。剥いた紙はズボンのポケットに入れていた。ポイと捨てたりしない。母親の躾が行き届いているようだ。

 三十分ほど歩いただろうか。水田の広がる開けた場所にでた。
「あそこがぼくのおうちだよ」
 りゅうくんが指差した。その指差す方向には、こんもりとした森があった。とても小さな森。どこか象徴的で、物語にでてきそうだ。
 りゅうくんはあぜ道を急ぎ足で歩く。わたしは重たいキャリーバッグを持ちあげて歩いているのだ。ついていくのが大変だ。
 森の入り口に、一見すると気づかないほど朽ち果てた鳥居があり、りゅうくんはそこをくぐった。
「こっち、こっち」
 道らしいものもない上り坂には木の根が張り巡らされ、でこぼことしていて、重たいキャリーバッグを抱え上げなければならなかった。りゅうくんはどんどんと進んでいく。
「りゅうくん、ちょっと、待って」
 わたしがじたばたとしていると、りゅうくんが戻ってきて、キャリーバッグの一端を持ち上げようとした。
「んー、んー、」
 りゅうくんの身体にはすこし重たすぎたようだ。びくとも上がらない。
「だいじょうぶ、ありがとう。でももうすこしゆっくり歩いてくれる?」
「わかった!」
 りゅうくんはキャリーバッグを持ち上げるのを諦め、わたしの前をゆっくりと歩いた。
「もうすぐだよ」そういって励ましてくれる。りゅうくんはとても良い子だということがここまでの言動でわかった。おまけに頬がぷっくりとしていて、垂れた目も可愛い。繰り返すが、わたしは子供が苦手なんじゃない。出産や子育てに自信が持てないだけなのだ。あんなやつになにがわかるんだ。歪なでこぼこの上り坂に辟易しているせいか、置いてきた彼氏にまで腹が立ってきた。いいんだ、どうせもう別れるんだから。こっちから捨ててやる。
「なにをすてるの?」
 りゅうくんがわたしを見下ろしそういった。しまった! 口にでていたようだ! 気をつけないと。
「あ、あはは」笑って誤魔化す。
「それ、なにが入ってるの?」キャリーバッグを指差した。
「数日間は生活に必要な諸々よ」
「もろもろ?」りゅうくんは首を傾げる。
「でも、まあ、そんなに大切なものは入ってないわね」
「じゃあそれをすてたら?」
 もっともだ。わたしは声を上げて笑った。りゅうくんは不思議な顔をしてわたしを見下ろしている。

 木造の古い家屋が見えてきた。「ここだよ」りゅうくんはいう。息は乱れていない。当たり前か。毎日のように登り下りしているのだから。
 りゅうくんがガラリと引き戸を開ける。
「ただいまあ」薄暗い玄関の土間にあがってりゅうくんは元気よくいった。しかし、返事が返ってこない。
「お母さん、お出掛け中なのかしら」
「おかあさん、おしごとだよ」
 それもそうか。昼間はみな、なにかしらで働いている。ましてやりゅうくんのお家はシングルマザーなのだ。お姉さんに加え、りゅうくんの二人を小学校に通わせているのだ。生活費を稼ぐのも大変だろう。
「お邪魔します」わたしは断ってスニーカーを脱いだ。
 床はよく磨かれたフローリングで、つるつるとしていて靴下だと滑りそうだ。わたしは慎重に歩いた。
 廊下を真っ直ぐ進むと正面に扉があり、それを開けると、広々とした空間に、大きな窓からたっぷりと陽光が降り注がれていた。左手にはダイニングキッチン。右手にはリビング。
 コトン、音が鳴った。リビングのテーブルにはドリルとノート、鉛筆などが散乱していて、テーブルの向こうで小さな女の子が身を固くしてわたしをにらみつけていた。りゅうくんのお姉ちゃんだろう。
「こんにちは。わたしは瑠衣っていうの。りゅうくんのお誘いに甘えてお邪魔してますが、迷惑ではないですか?」
 りゅうくんのお姉ちゃんは、黒い髪を耳のところでふたつに束ね、つり上がった黒い目でわたしを見ていた。
「こ、こんにちは」声が異常に高い。お客様が珍しいのだろうか。えらく緊張しているのが伝わってくる。それから、小さな声で「あたしはトミーといいます」とりゅうくんとは真逆に控えめに挨拶をした。
「お勉強してたのね。ごめんなさいね、邪魔しちゃって」
 全体的に細身で、うりざね顔のトミーは、りゅうくんとは似ても似つかない。
「もうすぐお母さんが帰ってきます」
 トミーちゃんはすこしつっけんどんにいった。
「ここすわって」りゅうくんがダイニングの椅子をとんとんと叩いた。
「ありがとう。構わなくていいからね」そうはいったが、りゅうくんは冷蔵庫からミルクを取りだし、三つのコップに注いでいる。そっと、慎重に。それでも、すこし溢してしまった。
「あーあ、またやったわね」ソプラノのお姉ちゃんは弟を叱りつけた。それから溢したミルクを布巾で拭いた。りゅうくんは何もなかったかのように、手についたミルクを舐めている。
「はい、どうぞ」りゅうくんがミルクのコップをわたしの前に置いた。
「ありがとう」いただきます、といって、わたしはミルクを飲んだ。冷たくてほのかに甘味がある。ふう、生き返る。
 りゅうくんもこくこくと喉を鳴らし、ミルクを飲んでいた。お姉ちゃんのトミーちゃんはコップをリビングのテーブルに運び、散らばる文房具の間に置いた。

「トミーちゃんは何年生?」
 しばらくの沈黙を挟んで、トミーちゃんはいった。
「本当なら一年生です。でも、学校には行っていません」
 突っ込みどころがたくさんある。まず、一年生ということは、りゅうくんと同じ歳ということになる。でも、お姉ちゃん。どういうことだろうか。それに学校には行っていない。これをどう解釈すればいいのだろうか。小中校は義務教育だ。生活が大変な家庭には国からの支援がある。だから、経済的な事情で通えないということはない。
 わたしはまず、りゅうくんとトミーちゃんの年齢問題から手をつけることにした。
「トミーちゃんはりゅうくんのお姉ちゃん、でいいんだよね?」
「はい」声高にトミーちゃんが返事をした。生真面目な性格のようだ。
「でも、歳は同じ。ということは······もしかして双子なの?」
「はい、そうです」
 トミーちゃんとりゅうくんは似ても似つかない。髪の色、瞳の色。明らかな身長差。外見的にはまったく共通点が見当たらない。二卵性、ということなのだろうか。おそらくそうなのだろう。それ以上掘り下げることはやめた。
 次の問題だ。小学校に通っていない。これは突っ込んで訊いてもいいことなのだろうか。でも、母親がなにか意図を持って学校に通わせていないのだとしたら、問題がある。やはりここは訊いておくべきだ。
「学校にはどうして通っていないの?」
 トミーちゃんはつり上がった目をぱちくりと瞬かせた。それから、いった。
「それは、お母さんに訊いてください。あたしは誰にもいってはいけないとお母さんからいわれています」
 そうか。なにか根深い事情がありそうだ。これは母親に訊いてもあまり首を突っ込むな、と拒絶されそうだ。
 
 そのとき、玄関の引き戸がガラリと音をたてた。母親が帰ってきたのだろう。りゅうくんは玄関に向かって走り出した。わたしは居住まいを正した。
「おかあさん、おきゃくさんつれてきたよ」りゅうくんの元気いっぱいの声が聞こえる。
「お客さん?」女性にしては低い声が響いた。
 扉が開き、背の高い女性があらわれた。手には買い物袋をぶら下げて。
 黒い艶のある髪を長く伸ばしていて、五月だというのに黒い長袖のセーターを着ていた。それでも痩せて見えた。母親はわたしを見て、真っ黒な瞳を丸くしている。ややつり上がった目はトミーちゃんとよく似ている。
「こんにちは」わたしは緊張気味にいった。
「こんにちは」母親はつっけんどんにいう。トミーちゃんは百パーセント母親似なようだ。いっぽう、りゅうくんは母親の要素を何一つ受け継いでいないようだ。ぷくぷくした顔や手足、グレーの髪。ブラウンの瞳。人懐っこい性格。
「あのね、るいがね、ねるところがないんだって。とめてあげてもいい?」
「るい?」母親の低音ボイスはすこし色気がある。
「あの、わたし橘瑠衣と申します。えっと、すこし休ませていただいたらお暇いたしますので」
「おいとまってなに?」りゅうくんが母親の手を握りしめてわたしに問う。
「帰る、って意味よ」
「えー? やだあ! かえらないで」りゅうくんは身体をくねらせいやいやをする。
「家は別に構いませんよ。部屋ならいくらでもありますし、りゅうがお世話になったお返しもしなければならないですし」
「お世話になったのはこちらの方です。休む場所とミルクを頂いたので」
「るいはあめをくれたよ。ソーダあじのあめ。ふたつも」りゅうくんは指でピースを作って母親に見せた。
「それはありがとうございます。ワタシはニジと申します。いまから夕食を作りますので、よかったら一緒に召し上がりませんか」
「そんな、いくらなんでもそこまでは」
「いえ、恩はかならず返さないといけません」母親はきっぱりいった。
「恩だなんて。飴のひとつやふたつで」
「それなら、どうかトミーに勉強を教えてやってもらえませんか」
「トミーちゃんに?」
「はい。わたしたち一家は戸籍がないので、小学校に通わせようにも通わせられないのです」
 戸籍がない? どういうことだろうか。でも、根掘り葉掘り訊くのははばかられた。
「どうでしょうか」母親は黒い眼をわたしに向けていた。そこに懇願するような色はない。ギブアンドテイクだろう、とでもいっているみたいだ。
「わかりました。それならトミーちゃんの勉強の手助けを引き受けます。りゅうくんにも教えた方がいいですよね」
「ああ、りゅうはだいじょうぶです。この子は五歳で成長がとまっているので。足し算も引き算もできないでしょう」
 わたしのりゅうくんに感じた違和感の正体はそれだったのだ。発達の遅れ。発育の不全。焦点が合ってるようで合っていない視線。七歳にしては幼すぎる反応。すべてに合点がいった。
 自分についてなにをいわれたのかわからないのか、りゅうくんはにこにこと笑みを浮かべている。

「それでは、トミーちゃん。ドリルの続きをしましょうか」わたしはリビングのトミーちゃんのとなりに座った。トミーちゃんは至近距離に人が居るのが苦手なのか、わずかに身体をしならせた。
 トミーちゃんが解いているドリルは二年生用だった。
「すごいね、もうかけ算やってるの?」
「はい。そんなにむずかしいことじゃありません」
「九九は覚えた?」
「はい、とっくの昔に」トミーちゃんはすこし得意げに尖った顎を上げた。
「くくってなに?」りゅうちゃんがリビングのテーブルまでやってきて、ドリルを覗き込んだ。
「いえる?」わたしはトミーちゃんに目配せした。トミーちゃんはうなずいた。
「にいちがに。ににんがし。にさんがろく、
にしがはち、にごじゅう」
 向かい側で聞いていたりゅうくんは、「なにそれ? じゅもんみたい」とけらけらと笑った。
「まあ、呪文みたいなものだよね」わたしがトミーちゃんにそういうと、トミーちゃんは消しゴムを両手で転がして遊んでいるりゅうくんを見て、目を細めた。とても愛しそうに。
 
 トミーちゃんが二年生算数のドリルを半分終えたところで、台所から声が降った。
「ごはんですよ。みんな手を洗って」
「はあい!」一番に台所へ走ったのはりゅうくんだ。
 夕食のメニューは、温かいクリームシチューだった。五月だというのに。もちろん文句などではない。別に五月にクリームシチューを食べてはいけないなんて決まりはない。
 クリームシチューはミルクが強くて鶏肉しか具が入ってなかった。なぜ野菜を入れないのだろう。もちろんこれも文句などではない。一家揃って野菜嫌いなのかもしれない。
 夕食後、わたしは食器を洗う役割を買ってでた。お世話になる以上はできることは手伝うのが筋というものだ。
 食器を洗うと、母親にお風呂を勧められた。
「いや、一番風呂はさすがにいただけません」そう断ると、母親が「この子たちが入るととても汚れるので、お先にどうぞ」と真顔でいった。母親はあまり笑わないようだ。そういえばトミーちゃんもあまり笑わない。感情豊かに笑うのはりゅうくんぐらいだ。
「そうなんですか。そういうことでしたら遠慮せずにお風呂をいただきます」
 
 年季の入ったタイル張りのお風呂に、浸かった。お湯はすこしぬるかった。追い焚き機能はないようだ。早めに上がらないとお湯が冷めてしまう。わたしはカラスの行水のように全身を洗ってでた。
持ってきたヘアドライヤーで髪を乾かし、リビングへ向かった。りゅうくんの笑い声が響いている。
 扉を開けて「お風呂、いただきました。りゅうくんとトミーちゃんも入ってください。お湯がぬるくなっちゃうので」といった。りゅうくんがビーチボールをサッカーボール代わりにして蹴飛ばしていた。母親は細めた目をりゅうくんに向けながら洗濯物をたたんでいた。トミーちゃんと同じ、優しげな眼差しをりゅうくんに向ける。発達に多少の遅れがあるが、家族には充分に愛情を注いでもらっているようだ。
 トミーちゃんは二人分の着替えを母親から受け取り、りゅうくんの手をとった。
「お風呂に行ってきます」そしてリビングをでていった。
「喉、渇いたでしょう。ミルクをどうぞ」
 母親はグラスに入った冷たいミルクを持ってきてくれた。
「ありがとうございます。いただきます」
「あの子は我が家の太陽なんですよ」母親が魅惑的な低音ボイスでいった。
「りゅうくんですか?」
「ええ」
 年の頃三十過ぎといったところだろう。わたしよりすこし上。疲れたようなため息を吐く。しかし、長い髪は黒々として妖艶にさえ見える。
「りゅうくん、可愛いですよね」
「トミーがよく世話をしてくれています」
 いかにもしっかり者といったトミーちゃんは、姉として弟を守っているのだろう。責任感だけではない。心底愛情を持って接しているのだ。
 戸籍もなく、シチューには具材がなく、飲み物はミルクのみ。そんな慎ましやかな母子家庭にあって、りゅうくんを中心としてこの一家は強い愛情と絆で結ばれているのだろう。わたしは感激すら覚えた。
 
 りゅうくんとトミーちゃんもものの十分でお風呂から上がってきた。トミーちゃんがタオルでりゅうくんの髪を拭いている。
「ミルクのむ」りゅうくんがいうと、はいはい、とトミーちゃんは冷蔵庫を開ける。とても小さな冷蔵庫。子供でも容易く扉を開けることができる。

 母親が玄関に近い和室でごそごそと作業をしていた。物音から察するに布団にカバーを掛けているようだ。わたしは慌てて行った。枕にカバーを被せようとしているところだった。
「ニジさん、やります、自分でやりますので」
「ぼく、るいとねる」
 いつのまにか和室にあらわれたりゅうくんが敷いたばかりの布団にダイブした。
「迷惑でしょ」母親がいい聞かせる。
「やだ! るいとねる!」
「わたしはぜんぜん迷惑ではないですよ」
 母親はまた深いため息をひとつ吐いた。
「あなたのことが好きみたいですね。じゃあよろしくお願いします」
「こちらこそです」
 わーい。りゅうくんは布団にごろごろと転がった。トミーちゃんはどこか呆けるような顔をして弟を見ている。やがて踵を返して和室をでていった。
「さあ、休みましょうか」母親がいう。
「すみません。お部屋お借りします。おやすみなさい」
「はい、ゆっくり休んでくださいね。りゅう、いい子にね」
「はあい」りゅうくんは枕を抱きしめていた。
 わたしが布団に入ると、りゅうくんはくすくすと笑った。
「どうしたの?」
「ぼく、ねむくない。おはなしして」
「いいよ。いいけどさ、トミーちゃん、一人で寂しくないかな」
「ぼくよんでくる!」
 りゅうくんはぱっと布団をでて廊下を走っていった。しばらくすると、トミーちゃんが枕を胸に抱えてりゅうくんとやってきた。どこか泣きそうな顔をしている。やはり一人で寂しかったのだろう。
 りゅうくんのくすくす笑いは収まるところを知らないようだ。こんなに興奮した子供を寝かしつけられるのだろうか。保育士の経験も当たり前だがないし、一人っ子なので姪や甥もいない。要するに子供と接する機会があまりにもなかったのだ。なんだか自信がなくなってきた。
 わたしは右側にりゅうくん、左側にトミーちゃんに挟まれて、身を縮めるように横になった。
「ねえねえ、おはなし」りゅうくんのやわらかな足がわたしの足を蹴る。
「そうねえ、桃太郎って知ってる?」
「しらなあい」りゅうくんは首を振る。
「トミーちゃんは? 知ってる?」
「知らないです」
「んじゃあ、話すね」わたしは咳払いをした。
 昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。
「どこに?」りゅうくんがいう。
「うんとね、山の奥深く」
 わたしはつづきを話す。お爺さんは山へしばかりに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
「しばをかってどうするの?」またもやりゅうくん。
「えーっとね、焚き火に使ったりするんじゃない?」
「せんたくきはないの?」
「昔はそんな便利な機械はなかったの」
「ぼくね、かわであそぶのすきだよ。ふかいところにはいっちゃだめっておかあさんにいわれてるけど。でもね、おさかながいるからとるんだ」
「獲ったお魚はどうするの?」
「もってかえってたべるよ」
「へえ」
「でも、りゅうが獲ってくる魚は小さいから」とトミーちゃん。
「てんぷらにするとおいしいよ」
「それはたしかに美味しそうだね」
「あした、つりにいこう」
「いいね、行こう行こう」
 桃太郎の話はどこへやら、主人公が登場する場もなく、脱線し、三人でくすくすと声をひそめて笑っていた。
 しかしそこはまだ子供だ。眠気が襲ってくると抗いようがなく、やがて深い眠りに落ちていた。 
 なんだかくすぐったかった。わたしの両脇には小さな子供が寝ている。はやくに結婚していたら、あるいはこれくらいの子供を持っていてもおかしくない。毎晩絵本の読み聞かせをして寝つかせる。朝はバタバタと朝ごはんの準備をして、小学校に送り出す。それからわたしも仕事へ行く支度をする。なぜかそこに夫はいない。わたしもシングルマザーになる運命を課せられているようで、不思議な気持ちになる。最初から夫はいないのか、途中で離婚するのか、わからないが、わたしも母親と同じ人生を歩むのか、と何故だかしんみりと思う。でも、新しいお父さんなんかいらない。他人なんかまっぴらだ。家族三人で楽しく暮らしていけるはずだ。わたしはいつの間にかこの両脇の二人との家族の暮らしを夢想していた。二人があまりにも良い子たちだからだ。赤ん坊から育て、躾を叩き込んできた母親の苦労など知らずに。ちょっと無責任だな、と反省をし、目を閉じた。

 早朝に叩き起こされた。
「るい、おねぼうだめ」りゅうくんがわたしの腹の上に乗っている。苦しい。
 わたしは飛び起きて台所へ向かった。母親はもうとっくに起きていて、鍋をかき混ぜていた。
「すみません、寝坊して」
「ゆっくりされてていいんですよ」母親は相変わらず黒いセーター姿だ。
「ええっと、スープですね。スープ皿、スープ皿、と」わたしは食器棚を勝手に開けた。小さめの深皿があったので、それを四つだす。それからスープスプーンだ。
 みな揃っての朝ごはんだ。手を合わせて「いただきます」という。
 スープはミルクの主張が強いコーンスープで、パンもご飯もついていなかった。繰り返すが文句などではない。質素に暮らしている家なんていくらでもあるのだ。ふらりとやってきた旅人の身で寝床を借り、スープをいただけるだけ有り難い。
 朝ごはんが済むと、わたしが食器を洗い、母親は仕事に出かける準備をしていた。
「では、るいさん。トミーの勉強をよろしくお願いします」
「はい、お安いご用です。任せてください」
「いってらっしゃーい」三人で見送る。母親は左手を軽く上げただけで、あとは振り向きもせず歩いていった。

「さて、トミーちゃん、お勉強を始めましょうか」わたしはぱんと手を叩く。
「はい」トミーちゃんは一晩一緒に寝たせいで心を開いてくれたのか、昨日のような緊張をわたしに見せなくなった。それはわたしにとって、とても嬉しいことでもあった。勉強を教える子供が緊張で固まっていたら、なにも身には入らないだろう。
「きょうは何の勉強をする予定?」わたしは訊く。
「漢字です」トミーちゃんはドリルをめくった。
 これは参ったな、とわたしは思った。何故なら漢字ドリルはあらかじめ印刷された薄い文字の上をなぞって書くだけだからだ。教えることは何もない。
 トミーちゃんは黙々と漢字を書いている。向かい側ではりゅうくんが鼻唄まじりでお絵かきをしている。覗き込むと、スケッチブックをくいと後ろに回してしまった。
「なによ、いいじゃない」わたしはりゅうくんの背中を揺さぶった。
「できるまでみちゃだめ」りゅうくんはわたしに睨みをきかせた。それでも垂れ目はつり上がらない。垂れ目のままだ。みぞおちに震えが襲い、わたしは笑いをこらえるのに必死になった。
 わたしはトミーちゃんに、いま書いている漢字を使った例文を教えた。頭がいい子なのか、すぐにコツをつかんで、次々と例文を作っていった。
 りゅうくんは出来上がった絵を見せてくれた。全身黒い服に包まれた細い人(ニジさんだろう)、髪をふたつに縛った女の子(これはトミーちゃんだ)、ちょっと丸いラインの人間がいて(おそらくわたしだろう。こんなに太ってはいないが)、グレーの頭をした小さな男の子(自分だ)が、四人並んで立っていた。しかし、どれも顔がない。目や鼻や口が描き込まれてないのだ。不思議な絵だな、と思った。
 
 わたしの腹が鳴った。二人は何事かとわたしを見た。
「あはは、お腹すいちゃった」腕時計を見ると午後の一時を指していた。「お昼ごはんは食べないの?」
「おひるごはん?」りゅうくんが首を傾げた。
「そう、お昼のごはん」
「食べません」トミーちゃんが答えた。「うちは朝と夜だけごはんを食べます」
 そうか。この家はそんなに困窮しているのか。二人を不憫に思った。
 わたしは和室のショルダーバッグから飴の袋を取り出した。ソーダ飴を三つ掴み、リビングへ戻った。
「はい、飴」
「わーい! ソーダのあめだ!」りゅうくんは大喜びだ。トミーちゃんが飴を手にぽかんとしていると、りゅうくんがいった。
「これ、すごくおいしいんだよ。きのう、るいにもらってふたつもたべたんだ。おねえちゃんもたべてみて」
 トミーちゃんは、紙を破いて飴を口に放り込むりゅうくんを見て、わたしを見つめた。わたしはひとつうなずいた。するとトミーちゃんも紙を剥き、飴を口の中に入れた。
「んー」目を閉じて頬を手で包んだ。昨日のりゅうくんと同じ反応だ。
「どう? おいしいでしょ?」りゅうくんがトミーちゃんの顔を覗き込む。
「うん、すごくおいしい」トミーちゃんはうっとりとした表情のまま、口の中で飴を転がした。

 それから、小学一年生の国語の教科書を二ページほど音読して、きょうの勉強を終えた。
 りゅうくんが台所へ行き、冷蔵庫からミルクを取り出した。きのうと同じように三つのコップに注ぐ。とても真剣な顔で。でも、またテーブルにミルクをこぼしてしまった。
「あーあ、もう。しかたないわね」
 トミーちゃんがテーブルを布巾で拭いた。りゅうくんはまたもや手についたミルクをぺろぺろと舐めていた。

「つりにいこうよ、やくそくでしょ」
「ああ、そういえば夕べ約束したわね。行こうか」
「いこういこう!」りゅうくんはわたしの手をぎゅっと握った。
「トミーちゃんも行くでしょ?」
 トミーちゃんはどこか怯えたような表情を浮かべていた。まるで大きな動物に追い込まれたかのような。
「あたし、あたしは、行きません」
「どうして?」
「外にでてはいけないってお母さんにいわれているからです」
「なぜ?」わたしも食い下がる。
「外には病気の元になるものがたくさんあって、それに触ったりしたら病気になるからです」
「そうお母さんからいわれたの?」
「はい」
「でも、りゅうくんは平気だよ。病気になんかならないでしょ」
「それは······。りゅうはとくべつ強くて、あたしはとくべつ弱いから······」
「そうなんだ。トミーちゃんは病弱なんだね」
「はい、そうです」
「わかった。じゃあお留守番お願いね」
 納得したわけではなかった。お母さんにそう吹き込まれてなぜかトミーちゃんだけは自由を奪われているのだ。すこし腹が立ってきた。お世話になっている身だというのに。
「ねえ、はやくいこうよ。ひがくれちゃう」
 りゅうくんはわたしの手をぐいぐいと引っ張り玄関へといざなう。
 靴を履くと、りゅうくんは玄関に置いてある黄色いプラスチックのバケツを持ち、引き戸を勢いよく開けた。
「いってきまあす」
 トミーちゃんはどんな思いでその声を聞いているのか。考えると胸がざわついた。

 森を抜け、水田のあぜ道を歩き、りゅうくんに案内されるままに進んだ。きょうもよく晴れていて、水田がきらきらと光を受けていた。
 野菜を育てている畑では、身をかがめた人々がせっせと働いていた。わたしがそばを通ると、ぎょっとしたようにこちらを見るので、自ら挨拶をした。
「こんにちは。良い天気ですね」
 彼らは幽霊でも見るかのような眼差しをあからさまにわたしにぶつけた。
「ここにはよそ者は立ち入らないようね。わたしのことがよほど珍しいみたい」そういうが、りゅうくんは聞いてない。ずんずんと歩いていく。
「るい、かわだよ」
 見ると、細い川が目の前に横たわっていた。細いがなかなかに透き通っていて、魚がちらちらと光っているのがわかる。
「わあ、おさかないっぱい」
 りゅうくんは、靴を脱いでざぶざぶと川の中に入っていった。バケツを片手に身を乗り出している。
「転ばないように気をつけてね」
 わたしが叫ぶと、わかってるよ、とりゅうくんも叫んだ。
 りゅうくんは狙いを定めて右手を川に突っ込む。でも空振りをしてしまう。釣りというから、てっきり釣り竿で釣るものだと思っていたが、まさか手掴みとはまたワイルドな。
「こんなきれいな川の、どこに病気の元があるっていうのよ」わたしはまだ腹を立てていた。トミーちゃんだって外で遊びたいはずだ。
「とれた!」
 見ると、りゅうくんが小さな魚を水の張ったバケツに入れて泳がせていた。
「やったじゃん」
 ちょっと待ってね。わたしはお尻のポケットからスマートフォンをだしてフォトを開いた。レンズをりゅうくんに向けた。
「こっち向いてピースサインして」
 ところが、りゅうくんが咄嗟に顔を手で隠したのだ。
「だめだよ。たましいがすいとられちゃうから、しゃしんにうつっちゃだめなんだ」
「魂が吸いとられる? そんなこと誰がいったの?」
「おかあさん」
 またお母さんの知恵か。まったくろくなことを教えないな。仕方なくわたしはスマートフォンをポケットにしまった。

 すこし風がでてきて空気もひんやりとしてきた。あんなに明るかった空も、裾の方がオレンジがかっていた。
「かえろうか」
 そういうと、りゅうくんは「うん」とうなずいて靴を履いた。
「6ぴきとれたよ。きょうのばんごはんはごうかだね」
「そうだね」わたしはいろいろなことが上の空だった。
 子供は風の子だ。外で遊んでなにが悪い。風邪を引いたりして、免疫をつけて子供は強くなっていくのだ。写真に写ると魂が吸いとられる? それならどうやって子供たちの成長の記録を残すのだ? あの母親は子供たちが可愛くないのだろうか?
 水田のあぜ道を歩き、森の入り口をくぐる。木の根に爪先をとられないように気をつけて足を運ぶ。古い日本家屋の前にでる。
「ただいまあ」りゅうくんが引き戸を開ける。トミーちゃんのお出迎えはない。リビングに真っ直ぐに向かうと、トミーちゃんは庭でビーチボールを毬代わりにしてとんとんと突いていた。
「あれ? 外にでちゃだめなんじゃなかったっけ?」わたしはトミーちゃんに向かっていう。
「庭はいいんです」トミーちゃんはビーチボールを両手に抱え、ハイトーンな声で答えた。 
 庭と外界のなにがちがうのか? 庭にも木が植えられ緑があり、隅にはたぶん子供たちが育てているのだろう花壇にポピーが咲いている。トミーちゃんが水を与えたのだろう。花弁に水玉が弾けて光っている。
 胸がひどくざわついていた。トミーちゃんだって外で遊びたいはずだ。なぜ制限を設けるのか?    
これは母親に意見しないではいられない。他所の家庭の子育てに首を突っ込むのはご法度だとはわかっているが、わたしはトミーちゃんが不憫でならなかった。
 りゅうくんが獲ってきた魚をバケツからステンレスのボウルに移し換え、窓際に置いた。一匹一匹を丁寧に洗っている。
「どうして洗うの?」
「ばいきんがおねえちゃんのからだにはいらないようにしないと」
 弟までも気をつかっているのか。でも、表面を洗っただけではばい菌はすべて除去できないだろうに。
 がらり、玄関の開く音がした。「おかあさん! おかえり!」りゅうくんが元気よく駆けていく。
 あのね、きょうかわでおさかなとってきたんだよ。六ぴきもとれたよ。ねえねえ、てんぷらにして。
 ダイニングにあらわれた母親は疲れたような顔をしているが、りゅうくんには微笑みを向けている。
「そう、じゃあひさしぶりに天麩羅にしようかしらね」
「わーい。るい、てんぷらつくってくれるって。おかあさんのてんぷらはおいしいんだよ」
 母親が手にぶら下げていた買い物袋には、紙パックのミルクと鶏卵が四つ入っているだけだった。
「手伝います」わたしは台所の母親の横に立った。この家の隠された事情(別に隠してないかもしれないが)について、話を聞いておくべきだと思った。知ってて知らないふりをするのも、児童虐待に加担しているのと同じだ。
 母親はボウルに卵四つを割り入れた。そこにミルクをすこし注ぐ。フライパンに油を引き、溶いた卵を流し入れた。じゅうじゅうと美味しそうな音がして、またわたしの腹が鳴った。
「ごめんなさいね。すぐ作りますからね」母親は笑い混じりでそういった。
「あの、わたしはいいんですけど、子供たちにお昼ごはんは与えないのですか?」
「お昼ごはんですか? 我が家はずっと食事は朝晩の二回だけです」
「ずっと?」
「ええ」気だるい返事だ。この気だるさに同情をかけてしまう。いまは、耐えろ、わたし。
「でも、育ち盛りの子供たちに二食では足りないのでは?」
「我が家はずっと二食です。ワタシが子供の頃から、ずっと二食なんです」
「そうなんですか?」貧困が二代に渡って受け継がれているその壮絶さを知った。生き抜いてくるのには、相当な苦労があっただろう。離婚も経験したのかもしれない。これまでの母親の人生の、格闘の想像をかきたてられた。

 母親はフライパンで器用に玉子焼きを作っている。卵液を流し込み、箸でくるくると巻いていく。慣れたものだった。わたしは玉子焼きひとつ作れない。同棲相手に気の利いた酒の肴をぱぱっと作ってだしてあげることもしなかった。なんせわたしだって働いてくたくただったのだ。料理は女の仕事だという主張をする方がおかしい、と思っていた。だからこの幼い二人の母親を前に恥ずかしくなった。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「トミーちゃんはなぜ外で遊べないんですか?」
 はあ。母親は出来上がった玉子焼きを皿に盛り、フライパンを流しに置いて、ため息を吐いた。余計なお世話だというのは重々にわかっていた。でも、黙ってなんかいられない。
 母親はボウルに小麦粉を入れ、水を足し、かき混ぜると天麩羅鍋を着火した。
「トミーは、産まれたときに死にかけていたんです。ワタシはトミーの身体をさすって温めつづけました。助かるようにと願って」
「産院で産んだのではないんですか?」
「はい。ワタシはここでこの子たちを産みました」
「ご主人は?」
「とっくに姿を消していました」
 今度はわたしが大きなため息を吐いた。
 こんなことってあるのだろうか。こんな不幸の上に不幸を重ねて生きてきたこの人を、いまや眩しい思いで見つめていた。
「それで、トミーは息を吹き返しましたが、身体の弱いまま育ってしまったんです。外で遊ぶと、嘔吐と下痢をします。保険証もないので病院にも行けないですし。だから、可哀想ですが、家の外には出さないんです」
 母親は魚を天麩羅の液にくぐらせ、一匹ずつ鍋に滑り入れた。わたしは二の句が継げないでいた。児童虐待の疑いもすっかり消え失せ、わたしの苛立たしさも萎みきっていた。
 「さあ、出来ましたよ。食べましょう」母親は明るい口調でいった。
 わたしはやるせない思いで食卓に座った。
「わあ、たまごやきだ。やったあ」りゅうくんは箸を伸ばす。
 本当ならこの玉子焼きも三等分にして食べていたのだろう。わたしのせいで四等分に切られ、りゅうくんやトミーちゃんの食べる量がすこしだが減ってしまった。明日にはもう帰ろう。わたしは完全にうちひしがれていた。
 夜も更け、お風呂をいただくと、わたしは敷き布団の脇で荷物を整えていた。忘れ物がないように、スマートフォンの充電器もしまっておいた。
 結局、りゅうくんもトミーちゃんも写真には収められなかったな、と残念に思った。
 魂を吸いとられる。これだけは謎のままだった。
「なにしてるの?」りゅうくんがいつのにか背後に立っていた。トミーちゃんが追いかけてきてりゅうくんの濡れた髪をタオルで拭っている。健気なトミーちゃんを眺めていると、涙が溢れそうになって、顔を二人から逸らした。
 キャリーバッグをぎゅうぎゅうと押してファスナーで閉じた。
「なんでしめちゃうの?」
「ん? もうね、明日、お暇しようかなって。ずいぶんとお世話になったし」
「ええ? やだ!」りゅうくんがみるみるうちに大きな垂れ目からぽろぽろと涙を溢した。わたしも泣きそうになるが、ここで情にほだされてはいけない。
「りゅう、るいさんも仕事とかあるんだよ。わがままいわないで」トミーちゃんはお姉さんらしく弟をなだめていた。
「やだやだ」りゅうくんはわんわんと泣いている。
「どうしたの?」母親が騒動を聞きつけて和室に入ってきた。
「るい、あしたかえっちゃうっていうんだ」
「そう。瑠衣さんにも生活があるでしょうから、無理をいわないであげて。ね、りゅう」
「やあだあ! るい、かえらないで!」りゅうくんはしゃくりあげている。わたしは困った。困った顔をしているのはわたしだけではないようだった。母親もトミーちゃんも困り顔でりゅうくんを眺めていた。
「瑠衣さん、もう一泊できないですか?」母親は思い詰めるようにいった。
「もう一泊ですか?」
「りゅうがこんなに泣くのを見るのは滅多にないことです。よほどあなたのことが好きになったようです」
 わーん! 足をばたばたさせて泣きじゃくるりゅうくんを見て、わたしも考えを改めるしかないようだった。
「わかりました。では、あと一日お世話になります」
「ほんとう?」りゅうくんが泣き止んだ。わたしの顔をまじまじと見上げている。目に涙を溜めて。
「ええ。でも、あと一日だけだよ」
「やったあ」泣いた子がもう笑っている。
「ありがとうございます」母親が深々と頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください、ニジさん。お世話になるのはわたしの方なのに」
 わたしはとんでもない一家に関わってしまったのだ、と後悔の念を覚えた。朝から夕方まで働いているのにもかかわらず、買い物袋には少しの食糧。お昼ごはんもなく、おやつはミルクのみ。子供たちは学校にも行けず、教育を受けさせることもできず、おかげで給食にもありつけない。こんなことって現代の社会の中で事実としてあっていいのだろうか。自治体か少なくとも近所の人が助けの手を投げるべきではないのだろうか。その橋渡しをするのがわたしの役目なのではないか。それがこの出会いの縁なのではないだろうか。
 明日、近所の人に話してみよう。母親は困るかもしれないが、それも一時的なものだ。すぐに溶け込み、人情と社会性を知るだろう。子供たちにとっても、それが良い。

 わたしはまたりゅうくんとトミーちゃんに挟まれて眠った。眠りに落ちるまで、わたしは「桃太郎」の話のつづきを語った。
「そのとき、川上から大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきました」
「どんぶりでながれてきたの?」
「どんぶらこ、っていうのは大きな桃が流れてくるさまを音で表現したんだよ」
 話のつづきをトミーちゃんは目をらんらんとさせて待っている。
「ももってどれくらいおおきいの?」
「ちょうどりゅうくんが入るくらいかな」
「そんなもも、みたことないや」
「お婆さんは桃を持ち上げ、家に持って帰りました」
「うそだね。そんなおおきなもも、おばあさんがもてるわけないよ」
 りゅうくんが茶々を入れるせいで物語がちっとも進まない。
「とにかく、お婆さんは洗濯物を入れる籠に桃を入れて、持ち帰りました」
「きったらなんにんぶんあるかな。ぼくなら三きれたべれるとおもうよ」
「トミーちゃんはどれくらい食べられる?」
「あたしは一切れでいい」
「そんなあ、これはお話の世界なんだから、いくらでも夢見ていいんだよ」
 ええ? トミーちゃんは恥じらう。
「じゃあ、あたしも三切れ」
 うん、うん。その調子。想像するだけならただなんだから。
 やがて子供たちは眠りに落ち、わたしはぐるぐると考えごとをしていた。二人揃って外に遊びに連れて行きたい。でも、あの母親が許すとは思えなかった。しかし、話のまったく通じない人ではない。そう思いたかった。希望的に。明日、話してみよう。

 胸が圧迫されて苦しくて目が覚めた。りゅうくんがわたしの胸の上に乗っかってくうくうと寝ていた。左側を見ると、身体を半分はみ出して眠っているトミーちゃん。
「く、くるしい······」呟くと、りゅうくんが目を覚ました。
「あ、るい」そういって首に抱きついてくる。眠気眼をこすりながら。
「トミーちゃん、風邪引いたら大変だから、お布団掛けてあげよう」こそこそと耳打ちする。
 りゅうくんはわたしから下り、掛け布団をえいやっとトミーちゃんに掛けていた。おかげでわたしたちは冷えを感じ、布団をでて、リビングダイニングに向かった。遮光カーテンを開けると、まだ出来立てのふんわりした陽光が部屋中を照らす。母親もまだ起きていない。朝ごはんを作って驚かせようとした。
「スープってどうやって作っているのかしら」わたしは呟いた。
「れいとうこにはいってるよ」
 冷凍庫を開けると、りゅうくんがいうとおり、ジップロックに入れ固められたスープらしきものが入っていた。それを深鍋に入れて火をつける。しゅうしゅうと音がして、スープの塊は溶けていった。
「そこにミルクをいれるんだよ」
「ああ、そうか。ミルクね」
 冷蔵庫から紙パックのミルクをだして鍋に注ぎ入れる。他人の家の冷蔵庫の中をしげしげと見るのははしたないが、見ずにはいられなかった。パックに鶏肉らしきものがこまかく切って詰めてある他、ミルクとバターしかないのだ。本当に困窮しているのだ。胸が痛んだ。
「あら、瑠衣さん、なにをされているの?」母親が起きてきた。きょうも黒いセーター姿だ。
「おはようございます、ニジさん。すみません、勝手にお台所お借りしてました。スープをりゅうくんと作りました」
「あらあら、そんなことなさらなくても結構なのに」
「いえいえ、居候の身ですから」
「おはようございます」トミーちゃんが目を擦りながら扉に手をかけ突っ立っていた。まだ眠そうだ。ふああ、と大きなあくびをしている。
 温まったスープを皿によそい、テーブルの上に並べた。スプーンを置くのはりゅうくんに任せた。
 四人で当たり前のように食卓を囲む。トミーちゃんは啜らずにスープを飲む。お行儀がいい。りゅうくんはおしゃべりばかりしていて、スープを飲む手がしょっちゅう止まる。
「りゅう、はやく飲んでしまいなさい」母親がいう。

 食器を洗いながら、わたしは昨夜から思っていたことを母親にぶつけた。
「きょう、トミーちゃんを外に連れていってもいいですか?」
 母親はぎょっとした顔でわたしを見る。「トミーをですか?」
「はい。りゅうくんが魚を獲る小さな川は、透き通っていてとても綺麗なんです。そこで川遊びなんかできないかな、と。実際その川の水をすくって飲んでみましたが、とても美味しかったです。なにもトミーちゃんにその水を飲ませようというのではありません。足を浸かるだけでも楽しいんじゃないかなと思いまして」
「でも······」母親は思案している。
「決して危ない目には合わせません。トミーちゃんにも外で遊ぶ楽しさを知ってもらいたいんです。まだ子供なのですから。ニジさん、どうか、お願いします」わたしは深々と頭を垂れた。
 やがて、母親は観念したようにいった。
「危ないところへは連れていかないように、くれぐれもお願いします」
「わかりました!」
 トミーちゃんを見ると、目を輝かせている。りゅうくんも嬉しそうだ。わたしは二人とハイタッチをした。
 すこしだけ面白くなさそうな顔をして、母親は出掛けていった。

「さあ、お勉強済ませて外に遊びに行こう」
「はあい」二人が合唱する。
 きょうのお勉強は、かけ算だ。ドリルに五×五、と書かれてあるが、トミーちゃんは「ごいちがご、ごにじゅう、ごさんじゅうご」と五の段の頭から数える。
 わたしが応用問題をだす。
「三枚のお皿にみかんが四つ乗っています。みかんは全部でいくつ?」
「みかん? どうしてみかんなの?」りゅうくんが横槍を入れる。
「みかんじゃなくてもいいよ。お魚の天麩羅鍋でもいいよ」
「おさらにいっぱい!」りゅうくんが答える。
「そうだね。みんなお腹いっぱいになっちゃうね」
 くすくす。りゅうくんは笑う。トミーちゃんはドリルの隅に三つのお皿を描いて、四匹の魚を描き加えた。指折り数えている。だからわたしは注意をした。
「これはかけ算の問題だよ。お皿が三枚でお魚が四匹だから?」
 ああ! トミーちゃんが甲高い声でなにかを発見したかのように叫んだ。
「さんいちがさん、さんにがろく、さざんがきゅう、さんしじゅうに。じゅうに! 十二匹!」
「正解」わたしは拍手をした。
「じゅうにひきってどれくらい?」りゅうくんが首を傾げる。
「いっぺんに食べきれないくらい」
 わたしがそういうと、二人は笑った。
「ねえ、ミルクのんだらそとにいこうよ」
「そうだね。日が高いうちに行った方がいいかもね」
 念のためにトミーちゃんにはパーカーを羽織らせた。りゅうくんは半袖半ズボン。玄関でトミーちゃんのために長靴を用意していた。
「りゅうくん、気が利くね」
「はやく、はやくいこうよ」足踏みしている。
 りゅうくんがトミーちゃんの手を掴む。ゴム長靴を履いて動きづらそうなトミーちゃんをリードする。片手には黄色いバケツを持って。
「るいはこれ」と渡されたのは網だ。これで魚をすくえというのだろう。

「しゅっぱーつ!」りゅうくんの元気いっぱいなかけ声で、わたしたち三人は森を抜けていった。
 
 今日も五月晴れで、暑くもなく寒くもなく、澄んだ空気が美味しい。水田のあぜ道を歩くがなぜか人には出会わない。水田を通りすぎ、畑エリアに入ると、腰を屈めた人たちが作業している。
「こんにちは、今日も良いてんきですね」
 わたしが声を掛けると、やはりバケモノでも見るような視線が送られる。
 こういう閉塞的な田舎の人はよそ者には厳しいのかな、と思った。それは仕方のないことで、都会でも大なり小なり起こることだ。いまはマンションの一室を借りて同棲相手と住んでいるが、同じくらいの若い夫婦でさえすれ違うときにも挨拶を交わさない。それが子連れであってもだ。教育に良いわけがない。なんだか悲しくなってしまうのだ。
 だから、せめてここのようなのんびりした田舎で、挨拶も交わさないなんて、そんなことが許されるとは思えなかった。
「ほら、りゅうくんとトミーちゃんも挨拶しなきゃ」
「あいさつ? あいさつってなに?」りゅうくんが小首を傾げる。
「同じ町に住んでいる人同士、仲良く声を掛け合うことだよ」
「聞こえていないのよ、あたしたちの声なんか」トミーちゃんはさも当たり前のことのようにいう。
「そんなわけないでしょう?」
「ほんとよ」
 そのとき、お腹の大きな若奥さんらしき人物がおにぎりがたくさん乗っかった大皿を運んできた。
「さあ、みなさんお昼にしましょう」
 よっこいしょ、と大きなお腹を曲げることなくその場に座ると、若奥さんはおにぎりを配り始めた。
 美味しそうだなあ。腹がぐうっと鳴る。でも、若奥さんはこちらを見向きもしない。
「こんにちは」わたしは若奥さんに声をかける。
 若奥さんは驚いたように目を見開いた。
「こんにちは。網とバケツをお持ちになってどちらへ行くんですか」
 そう尋ねるが、どこか胡散臭そうにわたしを見ている。
「この子たちと釣りに」
「この子たち?」若奥さんはわたしを凝視する。
「ええ、この子たちです」わたしは両側にいるりゅうくんとトミーちゃんに腕を伸ばす。
「ちょっと、ほらいったでしょ」
 麦わら帽子をかぶった初老の女性が若奥さんを咎める。みなでなにやらアイコンタクトをとっている。感じが悪い。わたしがここにいるのがまずいのかな、と思い、「失礼します」とその場を去った。
「ほら、最近変な女の人がいるって」
「ああ、森の方ね」
 囁き声だが、お天道様の下なので、丸聞こえだ。
「変な女の人っていってたわよね。どういうことかしら」
「るいはへんじゃないよ」りゅうくんがわたしの手をぎゅっと握る。真剣な眼差しで。
「そうよね、失礼しちゃうわ」
 トミーちゃんはどこか物憂げな顔をしていた。
「どうしたの、トミーちゃん?」
「ううん、なんでもない」
 外にでて人に会うのがいつぶりかはわからないけど、きっと緊張しているだけなのだろうとわたしは思った。

 りゅうくんがいつも釣りをしている川に着くと、わたしは深呼吸をした。
「ここは空気もきれいね」
「くうき、おいしいね」りゅうくんもわたしを真似、深呼吸していた。
 いっぽう、トミーちゃんは所在なさげに突っ立っていた。
「トミーちゃん、この川はとてもきれいなんだよ。長靴のままでいいから入ってごらん。魚もたくさんいるわよ。獲れるかな?」
 わたしがそういうと、トミーちゃんは目を輝かせた。そして一歩ずつ川に近寄り、そっと足を入れた。りゅうくんはとっくに靴を脱ぎ捨てて川にざぶざぶと入っている。片手には黄色いバケツを持って。
「ひゃあ、つめたい」トミーちゃんが小さく叫んだ。
「気持ちいいでしょ?」わたしが問いかけると、トミーちゃんはこくりとうなずいた。
「ほら、おねえちゃん、おさかないるよ」
「え? どこどこ?」
「よく見て。見つけたら、手ですくってごらん」
「あ、いた!」そういうなり、トミーちゃんは手を川に入れた。水しぶきが跳ね、小さな魚が空を舞った。
 りゅうくんがそれをバケツで受け止め、「やったね、おねえちゃん!」といった。
「トミーちゃん、やるじゃない」
 トミーちゃんは目をらんらんと輝かせている。そうでなくちゃ。わたしは思った。子供はそうでなくちゃならないのだ。家に閉じ込めておくのは親のエゴなのだ。それにこんなにいい天気。日光を浴びて、骨も強くなっていく。

 釣りをひとしきりして、わたしたちは各々自然を満喫していた。わたしとりゅうくんは川の水を飲み喉を潤した。トミーちゃんにも飲ませてあげたいが、可哀想だが我慢してもらうしかなかった。その代わり、ソーダの飴を三人で食べた。
 わたしは石の上に腰掛け、二人の様子を眺めていた。りゅうくんは川で沢蟹を獲り、わたしに見せに来た。トミーちゃんは暑いのか、パーカーを脱いで木陰で休んでいた。
 そのときだ。トミーちゃんが草むらにバッタが跳んでいるのを見つけた。すると、ものすごい俊敏さでそのバッタを捕まえ、口に入れたのだ。
「あっ!」わたしは叫んだ。トミーちゃんはパリパリと音をたてて咀嚼している。「トミーちゃん、だめよ。吐き出しなさい」
 そして、ついには飲み込んでしまった。
「トミーちゃん、どうしてバッタなんか食べるの?」
 トミーちゃんは、夢でも見ていたかのような、きょとんとした顔をしている。
「え? 美味しいから」
「バッタが美味しい?」
「はい」
「もしかして、外出するとお腹壊すって、バッタを食べるからなの?」
 トミーちゃんは、もじもじしてうなずいた。
「お母さんは知ってるの?」
「いいえ、知りません」問い詰められて、だんだんトミーちゃんの表情が曇っていった。
「バッタを食べたあとに吐いたり下痢したりするの?」
「たぶん······」やがて、涙をぽろぽろとこぼした。
「おねえちゃん、よくむしをたべてたよ」りゅうくんがいう。
「お腹すいてたの?」
 トミーちゃんは首を横にふる。
「むかしから虫を食べてたの?」
 トミーちゃんはうなずく。
「でも、お腹壊すってわかってるでしょ?」
 うわーん。トミーちゃんは大声で泣き出してしまった。
「わかった。ごめん。責めてるんじゃないから。とりあえず帰ろう」
「ええ? もうかえるの?」
「うん、トミーちゃんが吐くかもしれないから」
 釈然としない表情のりゅうくんとわんわん泣いているトミーちゃんの手を握り、わたしは川をあとにした。
 畑の脇を歩く。相変わらず、畑の人たちはわたしたちを冷めた目で追う。水田を抜け、森の鳥居をくぐる。木の根が這うでこぼこ道を上がっていく。
「だいじょうぶ?」わたしはトミーちゃんに声をかける。べそをかきながらもこっくりとうなずく。そのうち、えずきはじめた。
「待って、もうちょっと我慢して」
 玄関を開け、わたしは走った。ティッシュ、ティッシュ。リビングを探す。そういえばこの家にはティッシュのひとつもないことに気づく。わたしは咄嗟にりゅうくんのスケッチブックを一枚剥がした。そしてそれを持って玄関に向かった。
 トミーちゃんの口元にスケッチブックの紙を持っていくと、彼女はそこに盛大に吐いた。緑色の虫の破片がいくつも出てくる。背中をさする。苦しそうだ。もうなにも出てこなくなるまで、わたしはトミーちゃんの背中をさすりつづけた。
 
 トミーちゃんをソファに寝かせ、わたしはりゅうくんとお絵かきをしながら母親の帰りを待った。報告をしないとならない義務がある。なぜ、外へでるとトミーちゃんが吐くのか。まさか虫を食べてしまうだなんて、思いもよらなかった。なにがトミーちゃんをそうさせたのか。母親ときっちり話さないとならない。
 りゅうくんはお絵かきに夢中だ。トミーちゃんの怠そうな様子を心配するわけでもない。出来上がった絵を一枚一枚トミーちゃんに見せている。横になったまま、顔だけこちらへ向け、トミーちゃんは力なく微笑む。
 二時間ほど休んでいると、トミーちゃんは突然ソファを下り、トイレへ駆け込んだ。水を流す音がして、トミーちゃんは戻ってきた。
「下痢したの?」訊くと、トミーちゃんはまた泣き出した。
「お腹痛い?」
「お母さんに怒られる」そういって彼女はしくしくと泣く。
「だいじょうぶよ。わたしに任せて」
 わたしがきっぱりというと、トミーちゃんは赤い目でわたしを見つめた。
「座敷のお布団で寝ておいで。トイレも近いし、よく休めると思うわ」
「みんながいるからここがいい」
「そう、わかった」
 母親と下手をするとバトルになるかもしれないと思うと、トミーちゃんにはここにいて欲しくはなかった。でも、ここにいたいというなら仕方がない。わたしと母親が部屋を移ればいいだけのことだ。子供に大人の言い争いは見せたくない。

 玄関の戸が開く音が聞こえてきた。りゅうくんが色鉛筆を投げ出して走っていく。
「おかあさん! おねえちゃんがたいへんなんだ!」
「なんですって?」母親の声に緊張感が走った。ぱたぱたと足音が聞こえ、母親は横になっているトミーちゃんを認めた。
「また吐いたの?」
 トミーちゃんは苦しげに顔を歪める。そして起き上がるとトイレへ走っていった。
「るいさん、だからいったでしょう? トミーは外へでるとこうなるのよ」口調は穏やかだが目がつり上がっている。
「なぜ吐くのか、ご存知ですか?」わたしも母親を強く見つめた。
「なんですか?」首を傾げる。
「虫を食べたんです」
「虫を?」
 わたしは先ほどトミーちゃんが吐き出した虫の残骸を見せた。
「外に行くといつも食べてしまうそうなんです。なぜかわかりますか?」
「なぜって?」母親は怯む。
「この子たちは虫を食べてしまうくらい極限にお腹を空かせているんです。いつも我慢しているんです。ニジさん、お世話になっているよそ者がいうのもおこがましいのですが、どうか国からの支援を受けてください。戸籍も取得してください。トミーちゃんを学校に行かせてあげてください。りゅうくんも特別学級なら入れるでしょう。そうすれば給食が食べられます。ここに閉じこめて、外でこっそり虫なんか食べさせて、そのままでいいおつもりですか?」
 わたしの剣幕に、母親は呆気にとられていた。口をはさむ余地もない、といったところか。
「ニジさん、この子たちのためにも、どうか考えてください」
 ところが、母親はやれやれといったように首を振った。
「るいさん、あなたにはわたしたちの事情がわからないのです。わたしたちは存在していないようなものです」
「存在していないようなもの? どういうことですか?」
 母親が深いため息を吐いた。
「るいさん、もうわたしたちに関わらないでください。明日、子供たちが寝ている間にここを去ってください。お願いです。この子たちを思ってくださるならば」
「ニジさん、なにをそんなに頑なに守っているのですか?」
「わたしたち三人の暮らしです。三人だけの」
「そんなことをいっていても、この子たちはどんどん成長していくんですよ。わたしには見過ごせません。この子たちは本当にいい子です。不幸になんてさせたくないんです」
「不幸ではないですよ。わたしたちは昔からいままでずっと幸せなんです。あなたにはわからないと思いますが」
 ずっとわたしたちの様子を見ていたりゅうくんが、母親ににじりより、手をぎゅっと握った。子供たちの前で言い争いをしてしまった。話の内容がわかったとでもいうのか。そして、涙を浮かべてわたしを見上げている。トイレから戻っていたトミーちゃんも、ソファに座ってわたしたちを見つめている。とても神妙な顔で。
「わかりました。わたしは明日帰ります。お世話になりました」
 今度はりゅうくんも駄々をこねなかった。それがかえってわたしの胸を掴むような痛さを覚えた。
 
 最後の晩餐となったが、食卓には相変わらず鶏肉のシチューしか並ばなかった。でも、もうわたしの口出すことではなかった。
 トミーちゃんも下痢が治まって、静かにシチューを飲んでいた。りゅうくんは相変わらずおしゃべりに夢中だ。
 お風呂をいただき、布団に入った。りゅうくんとトミーちゃんももちろん一緒だ。
 桃太郎も、無事に鬼ヶ島へ行き、鬼退治ができた。りゅうくんは「どうしてキジなの? ゾウのほうがつよいのに」と不満を漏らしていた。

 翌朝、わたしは早くに起きて、荷物をまとめた。りゅうくんが暑いのか布団をはいでいる。その分、トミーちゃんは布団に巻かれるようにして、すやすやと寝ている。わたしは二人の寝姿をスマートフォンで写真に収めた。
「ごめんね。ばいばい。りゅうくん、トミーちゃん」
 それからキッチンへ向かった。ニジさんがダイニングテーブルでわたしを待っていた。
「お世話になりました。いろいろと失礼なことを申しましてすみませんでした。でも、わたしはあの子たちの······」
「るいさん、他人には他人の事情があるのです。わたしたちは幸せなんです。これからも」
「そうですね」わたしはうちひしがれていた。なにをどういっても相手にされず、受け入れられなかった。悔しさも滲む。助けたい、と思うのは思い上がりだろうか。でも、りゅうくんとトミーちゃんが健気で胸が痛かった。
 玄関で靴を履いていると、Tシャツの背中を掴まれた感覚があった。ふりかえると、そこにはりゅうくんが立っていた。両目に涙を溜めて。わたしは思わず抱き締めていた。
「ごめんね、ほんとにごめんね。ありがとう」
 りゅうくんはしゃくりあげながら精一杯の声を絞りだした。
「また、あえる?」
「うん、また、会えるよ」
「ほんと?」
「うん、たぶん」
「じゃあ、ばいばい」小さなパーの手をひらひらとさせる。
「ばいばい」わたしも手の平をひらひらとさせた。
 玄関をでて、キャリーバッグをうんしょと持ち上げ、木の根が這うでこぼこ道を下る。下りきると、朽ちた鳥居をくぐった。そこはもう外界だ。りゅうくんたちの慎ましやかな暮らしとは隔絶された世界だ。わたしはひとつ深呼吸をした。

 キャリーバッグをがらがらと派手な音を立てて引いて歩いていると、もう畑には人がでていて農作物の手入れをしていた。作業中の初老の女性がわたしを見た。
「やっと帰るんか」
「はい」
「心配しとったんよ。あんた、あんな廃墟で寝泊まりしとるようやったもんで」
「廃墟? いや、二人の子供と母親が住んでますよ」
「住人の夫婦ははとっくの昔に亡くなって、あそこはずっと留守なんよ」
「いえ、小さな子供たち。こないだここを通ってご挨拶した二人の子供のことですよ」
「こないだ? あんたひとりだったよ。黄色いバケツと網を持って。あんた、頭がおかしいんじゃないかってここらで噂になっとったんよ」
「そんなはずは······」
 わたしは踵を返して森へ戻った。水田を抜け、鳥居をくぐり、木の根が這うでこぼこ道を駆け上がった。正面にとらえた日本家屋は、どこか古ぼけて見えた。引き戸を開ける。鍵はかかってない。ほら、やっぱりいるじゃないか。
 ところが、玄関の土間にはりゅうくんのスニーカーもトミーちゃんの長靴もなかった。わたしは靴を脱いで上がった。上がって一歩進んで気がついた。廊下が埃まみれだ。わたしは足の裏を見た。靴下が真っ黒だ。
「そんな」
 和室を覗いた。そこに布団が一式広げられていたが、りゅうくんもトミーちゃんも寝ていない。正面の扉を開けてリビングダイニングに入った。
「ニジさん!」
 叫ぶが、そこにも誰もいない。カーテンは破れ、どこもかしこも埃がかぶり、ソファは穴が開いてスプリングが飛び出ていた。キッチンにはスープ鍋が置いてあったが、錆びていて、ガスコンロには蜘蛛の巣が張っていた。
 誰かが暮らしていた形跡などない。いまさっきまで、りゅうくんとトミーちゃんが布団に眠っていて、ニジさんがダイニングテーブルに座っていたのに。でも、どこにも誰もいないのだ。
「うそだ······」
 破れたカーテンの裾に引っ掛かるようにして何かが落ちていた。近づくと、それは四つ折りにされた一枚の紙だった。広げると、一番左に大きな黒猫が、そのとなりに小さなキジ猫が、その右側に丸いフォルムの女の人が、一番右にはグレーの猫が描かれてある。りゅうくんが描いた絵にそっくりだ。
 
 わたしは廃墟をあとにした。放心していた。そんなことってあるのか、と自分自身を疑った。
 一じゃあ、あの親子はいったいどこの誰だったのか。
 置きっぱなしにしていたキャリーバッグのところまで戻った。初老の女性がわたしを気の毒そうな眼差しで見ていた。わたしは四つ折りになった絵を広げて見せた。
「あの子が描いてくれたんです。グレーの髪をした男の子が」
「あんた、猫に化かされたね」女性は小刻みに首を振った。
「化かされた?」
「そうだよ。化かされたんだよ」もう一人の女性が横からいった。
「あの家のご主人と奥さんが三年前に事故で亡くなって、飼い猫が残されたんだよ。真っ黒い大きな猫が。あそこの夫婦には子供がいなかったのさ。あたしたちは始めは猫を可哀想に思って、餌をあげていたんだ。でも、そのうちふらっといなくなってねえ、しばらくしたらあの家に戻って子供を生んでいたんだ。四匹生んで、二匹は死んでたよ。悪いがあたしらもそこまで面倒見きれない。気の毒だが、あたしらは猫を見捨てたのさ」
「そうそう、その頃から、時々養鶏場の鶏や卵が盗まれるようになってねえ。あの猫たちの仕業じゃないかっていうとったんよ。でも、死んだのか、そのうち見なくなったねえ」
「そんな······じゃあ、わたしが見たあの子たちは?   母親は?」
「やっぱり化かされたんだねえ。あんた、夢でも見ているような目をしてひとりでここを行き来してたからねえ」

 信じられなかった。りゅうくんの笑い声とトミーちゃんが勉強する姿。ニジさんが作るミルクの強いシチューの味。すべてが鮮明に残っている。
 
 わたしはキャリーバッグを引きずって遠い駅まで歩いた。いろいろなことが上の空だった。
 途中、バス停のベンチがあった。はじめてりゅうくんと出会った場所だ。ソーダ味の飴をあげたら、うっとりとした顔をして舐めていた。ぷくぷくとした頬と手足。垂れた目。ペットボトルの水を忘れていったら走って届けてくれた。あれもすべて幻だというのか。
 
 駅舎に着くと、電車が扉を開けて停まっていた。これから発車するようだ。わたしは切符を買い、電車に乗り込み、椅子に腰掛けた。始発駅だから乗客もぽつぽつとしか乗っていない。わたしはポケットからスマートフォンを取り出した。さっき撮ったりゅうくんとトミーちゃんが写っているかもしれない。
 ところが、スマートフォンの電池が切れていてつかないのだ。脇のボタンを押すが、うんともすんともいわない。昨夜一晩充電しておいたのに。なんだ······。わたしはがっかりと肩を落とした。

 ホームのベルが鳴る。扉が閉まって電車が動きだす。四つ折りになった紙を広げ、ぼんやりと絵を見つめた。絵がぼんやりとして見えたのは、目に浮かぶ涙のせいだった。やがて、ぽろぽろと涙が落ちた。
「ばいばい」りゅうくんの声が耳に触り、可愛らしい小さな手をひらひらさせていた。

                  完




 
 
 

 
 




 

 
 

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