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ラカンの「欲望のグラフ」を読み解く

お世話になっております。まるです。
今回は、精神分析学者ラカンが、前期から中期にかけて考えた彼の思想をまとめたグラフ「欲望のグラフ」を読み解きながら、初期ラカンの思想の概観を追っていきたいと思います。

はじめに

ラカンとは

  • ジャック・ラカンは、20世紀に活躍したフランスの精神分析学者

  • フロイトの思想を、当時フランスで流行していた構造主義的に再解釈した上で、独自の精神分析の理論を生み出した。

    • 精神分析学やフロイトの思想については、過去のフロイトに関する記事を参照↓

欲望のグラフとは

  • ラカンが前期から中期にかけて考えた、「想像界・象徴界」「鏡像段階」「大文字の他者」「ファルス」「父性隠喩」「エディプス・コンプレックスの構造主義言語学的解釈」といった概念をまとめて図にしたもの。

  • 大まかに言えば、赤ちゃんが生まれてから成長していく過程で、どのように人間の言語・法・文化の世界に参入していくか、というラカンの考えを表している。

  • 著作「エクリ」の中では、以下の四つのグラフが提示されている。

欲望のグラフ全四種類
  • 厄介なことに、ラカンは図についての明確な説明をしていない。

    • そのため、文献によってグラフの解釈が異なっていることも…

この記事の目標

  • この記事の作成者(まる)が文献をいくつか調査した上で、初期ラカンの思想と比較しても納得感がある「欲望のグラフ」の解釈の仕方を、できるだけ分かりやすい文章で記述することが、本記事の目標となります。

  • 解釈の内容についてご意見やコメントがありましたら、コメントやTwitterのDMでご連絡いただけると幸いです。

第一のグラフ:主体の想像界から象徴界への移行

第一のグラフ

このグラフの解釈

第一のグラフは、主体が想像界から象徴界へ移行することを表しています。図は二本の矢印から構成されていて、左から右へ水平に向かう矢印(S-S')はシニフィアン(=象徴界)を表し、右下から一本目の矢印と交差して左下へ向かう矢印(△-$)は、想像界に生まれた主体△が言語・法の世界を通じて、象徴界における主体$へと移行する流れを表しています。
この段階では何を書いてあるか理解できていなくて大丈夫です。以下で各概念の解説をした後、もう一度このグラフの解釈を述べたいと思います。

想像界・象徴界

象徴界とは、「言語」「法」「文化」を司る領域です。そして言語化される前、法により支配される前の、すなわち象徴界に入る前の世界が想像界です。
獣は生まれてから死ぬまで想像界を生きます。なぜなら獣には人間ほどに言語や法、文化を扱う能力がないからです。一方の人間は、想像界に生まれた後、母親と接することにより想像界から象徴界へ入ることとなります。

シニフィアン・シニフィエ

シニフィアンシニフィエは、もともと言語学者のソシュールが考案した用語です。大抵の言葉は、それぞれの言葉に対してある概念が紐付いています。例えば、「人」という単語は、概念と結びついていなければ、ただの曲線二本から構成される形でしかありません。それが「人という概念」と結びつくからこそ、人という言葉が成立します。このとき、「曲線二本からなる形」としての人をシニフィアン、シニフィアンによって指し示された概念としての人をシニフィエと呼びます。

シニフィアン・シニフィエの説明

ただしラカンはソシュールの用法を超えた意味でシニフィアンやシニフィエという言葉を用いることが多いので注意が必要です。
ただ、今回第一のグラフを読み解くためには「シニフィアン=言語や法の世界=横切ることは想像界から象徴界への移行を示す」といった理解があれば良いと思っています。

グラフ再考

さて、第一のグラフに戻ってみましょう。右下の△は生まれた直後の主体、つまり赤ちゃんのことを指します。主体は生まれた直後は獣と同様に想像界に属していますが、母親と接することで、象徴界の主体$へと移行します。
シニフィアンの矢印(S-S')は、「言語」というより「法」を表すといったほうが分かりやすいかもしれません。生まれてすぐの赤ちゃんは母親に生殺与奪の権利を握られています。母親の気まぐれ次第で、主体は生かされも殺されもするのです。つまり主体にとって母親は、絶対的権力者であり、法でもあります。主体は生まれてすぐに母親の法のもと、象徴界へと入っていくのです。

第二のグラフ:鏡像段階

第二のグラフ

グラフ内の記号の意味

  • A : 大文字の他者

  • s(A) : 大文字の他者のシニフィエ

  • i(a) : 小文字の他者(または単に他者とも)のイメージ

  • m : 自我(または理想自我とも)

  • I(A) : 自我理想

このグラフの解釈

主体$は他者のイメージi(a) (特に鏡に映った自分)のうちに自我mを見出します。しかしながら鏡像i(a)と主体$の自我mはそのままでは両者が一致することが主体$にとって確信できず、主体$は本来獲得したい自我、つまり理想自我I(A)に辿り着くことができません。ここで重要となるのが絶対的権力者である母親、つまり大文字の他者Aの存在です。大文字の他者Aが「鏡像i(a)は主体の自我mと同一である」と主体$に対して保証するからこそ、主体$は自我理想I(A)を獲得することができるのです。$ → i(a) → m → I(a) の矢印に重なるように、A → i(a) → m → s(A)の矢印が重なっていますが、これが大文字の他者Aが、「鏡像i(a)」と「主体$の自我m」が同一であることを保証することを意味します。

大文字の他者・小文字の他者

小文字の他者(あるいは単に他者とも) i(a)とは、日常で使われる「他者」という言葉の意味とほぼ同じです。すなわち主体$以外でありながら、自我を持つ者のことを指します。他者の中には主体$が鏡に映った姿(鏡像)も含まれます。この鏡像は、後述する鏡像段階において重要な役割を果たします。
大文字の他者 Aとは、主体$にとって絶対的な権力を持つ他者のことを指します。第二のグラフの段階では主体$にとっての大文字の他者Aとは主体の母親に当たります。大文字の他者Aは主体$にとって破ってはならない法を科す存在であり、象徴界を代表する存在でもあるわけです。

鏡像段階

主体$, つまり人は生まれてからどのように自我を獲得するのでしょうか。心理学では、人間は内的に自我を成長させると考えます。つまり、子どもが成長するにつれ脳の発達に従って自我を獲得する、という考え方です。これに対して、ラカンは真逆の説を唱えます。ラカンによると、そもそも人間には内的な自我に相当するものはなく、その代わりにあるのは自らの身体の寸断されたイメージしかありません。例を挙げると、生まれてすぐの赤ちゃんは、何かを食べて食欲が満たされるのと、用を足して排泄欲が満たされるのでは、二つの快は独立して発生しており、「食欲と排泄欲のどちらもが満たされたのは、他でもない自分なのだ」という自我のイメージが持てていないと考えるのです。
では主体$がどのように自我を獲得するのでしょうか。ラカンは、主体$は内的に自我を獲得するのではなく、外的な他者の存在を見て自身の自我を形成するのだと考えます。ここで重要なのは鏡に映った自分、鏡像 i(a)です。主体$は鏡像i(a)を自身と同一化させることにより、自我を形成していくわけです。
しかしここで問題があります。第二のグラフの段階で、主体$は鏡像i(a)を用いて自我mを形成するのですが、主体$はこの時点では鏡像i(a)が自我mに一致することが把握できません(つまり、鏡に映っているのが本当に自分自身であるのかが理解できません)。そこで登場するのが大文字の他者Aこと母親の存在です。赤ちゃんである主体$は鏡像i(a)を見た後で母親の方を振り返ります。母親は「鏡に映っているのはあなた自身だよ」と微笑みかけ、保証することにより、主体$は鏡像i(a)と自我mの一致を確信した状態で真の自我、つまり自我理想I(A)を獲得できるのです。

グラフ再考

主体$ → 鏡像i(a) → 自我m → 理想自我I(a) の矢印、およびその矢印に重なる大文字の他者A → 鏡像i(a) → 自我m → 大文字の他者のシニフィエs(A)の矢印は、上述した鏡像段階に対応しています。なお大文字の他者のシニフィエs(A)については今回は詳しく触れません。鏡像段階において、大文字の他者Aの存在が、主体$の理想自我I(a)への到達に不可欠であるということだけひとまず抑えておきます。

第三のグラフ:母親の欲望を探す主体

第三のグラフ

グラフ内の記号の意味

  • d : 欲望

  • $◇a : 幻想

  • Che vuoi? : 「汝は何を欲しているか」という意味

このグラフの解釈

第三のグラフは、主体$である子供は「大文字の他者Aである母親の、本当の欲望(=$◇a)が何か」を知りたいという欲望dを持つ場面を表します。

母親の欲望・想像的ファルス

大文字の他者Aである母親は、家事などのやるべき仕事を抱えているため、常に子供のそばにいることはできず、子供の前にいたりいなかったりを繰り返します。子供ははじめ、なぜ母親が自分の前から母親がいなくなることがあるのかを理解できませんが、次第に「母親には欲望があり、不在になるのはその欲望を満たしにいくためだ」と考えるようになります。母親が欲望を持つということは、母親には欠けているものがあるということを意味します。そこで子供は、母親に欠けているものを満たすために自らを「母親の欲望の対象」と同一化させようとします。この、子供が同一化しようとする母親の欲望の対象は、ラカンにより「想像的ファルスφ」と名付けられました。

母親の真の欲望は何か

子供は母親の欲望の対象、つまり想像的ファルスφになろうとしますが、それで母親がいたりいなくなくなったりする状態が変わることはありません。結局、子供は真に母親に欠けているものが何かを探そうとする欲望を持ちます。この子供による探索の欲望は第三のグラフにおいて記号dで、真に母親に欠けているものは第三のグラフで幻想と呼ばれる $◇a でそれぞれ表されます。子供がある年頃になると周囲の人たちに様々な質問を浴びせるようになるのは、この母親の欲望が何かを探すためでもあるのです。

グラフ再考

第三のグラフは、主体$である子供が想像的ファルスφへ同一化することに失敗した後、大文字の他者Aである母親の真の欲望$◇aが何かを知りたいという欲望dを持つ場面を表しています。グラフ上部に書かれた「Che vuoi? (汝は何を欲しているか)」は主体$のセリフであり、このセリフの「汝」とは大文字の他者Aである母親のことを指しているのです。
なお、大文字の他者Aから幻想$◇aに向かって矢印が二本伸びているかと思いますが、なぜ二本なのかはよく分かりませんでした。とりあえず気にしなくて良いと思います。

第四のグラフ:父性隠喩

第四のグラフ

グラフ内の記号の意味

  • $◇D : 欲動

  • S(A/) : 大文字の他者の欠如のシニフィアン

このグラフの解釈

主体$は、大文字の他者Aの真の欲望$◇aを知りたいという欲動$◇Dに突き動かされて調べていくうちに、象徴的ファルスΦの存在に出会います。このことで主体$は、大文字の他者の欠如S(A/)を確信するのです。

大文字の他者の欠如・去勢

主体$である子供が「大文字の他者Aである母親の真の欲望$◇aは何か」を知りたいという欲動$◇Dに突き動かされ、その答えを探し回った結果、判明するのが父親の存在です。つまり母親の欲望の対象は、想像的ファルスφと同一化した子供ではなく、父親だったのです。この母親の真の欲望の対象としての父親は象徴的ファルスΦと呼ばれます。
今まで子供は、母親に欠けているものとして自分を想像的ファルスφに同一化させてきました。言い換えれば、母親と子供、二人合わせれば、母親に欠けていた部分が埋め合わされ、完全な存在となると子供は考えていたわけです。ところが、母親が真に欲望している対象は父親であるということが分かることで、この子供の考えは崩れ去ります。主体は、大文字の他者Aであった母親は埋めることのできない欠如を持つということを、父親の登場により確信します。この「大文字の他者の欠如」が、第四のグラフのS(A/)で表現されているのです。
また、子供にとって自身が母親のファルスでないことを確信することは、ファルスの去勢(-φ)と呼ばれます。

父性隠喩

父親の登場により、今まで主体$が大文字の他者Aだと思っていた母親は、実は欠けた部分のある存在s(A/)だということが明らかになります。そこで今まで母親が担っていた大文字の他者Aの役割を新しく担うのが父親です。ファルスの去勢(-φ)を通じて、それまで「いるかいないかが気まぐれのように見えていた」母親の法から抜け出し、父親の規則ある法の下に自らを置くことが可能となります。このように、主体$の置かれる立場が母親の法から父親の法に移行することを父性換喩と呼びます。

グラフ再考

第四のグラフは、主体$が大文字の他者の欠如S(A/)を確信する場面を表しています。このグラフには欲望dと欲動$◇Dという似たような言葉が出てきます。この二つは異なる概念ではあるのですが、今回第四のグラフを読み解くに当たって、どちらも「主体$が大文字の他者Aである母親の真の欲望$◇aは何かを知ろうとする気持ち」としました。
その他、多くの矢印が新たに登場していますが、今回は無視します。

欲望のグラフまとめ

さて、ここまで「欲望のグラフ」全四種類を解説してきました。ここで内容をまとめてみましょう。
第一のグラフでは、主体である赤ちゃんは生まれてから母親によって法の世界である象徴界に入ることを表しています。
第二のグラフは、いわゆる「鏡像段階」の場面です。大文字の他者である母親のもと、鏡像と自己を同一化させることで、主体は自我理想を獲得します。
第三のグラフは、主体は絶対的な法である母親がなぜ現前-不在を繰り返すのかをを疑問に思う場面です。この段階で、主体は母親に欲望があることを知り、その母親の欲望を満たすために自身を想像的ファルスに同一化させようとします。しかしその試みは失敗に終わり、母親には自分の他に、何か望むものがあるのではないかと探し始めるのです。
第四のグラフは、「父親隠喩」を表す場面です。この段階で、主体は母親の真の欲望が象徴的ファルスである父親であることを知ります。ここで主体は、母親は欠けた存在であること、すなわち大文字の他者の欠如を確信します。また父親の登場により、自分は母親のファルスにはなれないことを悟り、いわゆる去勢がなされるのです。この段階は父性隠喩とも呼ばれ、主体は現前-不在が気まぐれな母親の法から、規則ある父親の方の下に移行することができるのです。
実はこれまでの説明で出てきた「想像界・象徴界」「鏡像段階」「大文字の他者」「ファルス」「父性隠喩」といった各概念は、まさにラカンが前期から中期にかけて考えた理論の内容と重なります。つまり欲望のグラフについて理解することは、初期ラカンの思想を把握することに直結するのです。

フロイトとの違い

フロイトについてある程度知識を持っている方であれば、第三・第四のグラフを見て「ラカンの理論と、フロイトのエディプス・コンプレックスとの違いはどこだろう」と思うかもしれません。
自分が理解では、フロイトとラカンの大きな違いは以下の二点にあると思っています。

  • フロイトのエディプス・コンプレックスにおいて、子供にとって母親は近親相姦的な性愛の対象として捉えられているが、ラカンにおいては母親は言語・法を司る大文字の他者としての側面が強調されている。

  • (今回はあまり触れていないが)母親の欲望や父親の存在などを言語学でいうところのシニファンやシニフィエとみなしたり、大文字の他者が母親から父親に移行する段階をシニファンの隠喩とみなしたりすることにより、フロイトのエディプス・コンプレックスを構造主義言語学的な文脈で再提示している。

おわりに

以上、今回の記事ではラカンの「欲望のグラフ」について解説を行いました。
もしこの記事を気に入ってくださった方は、是非いいねを押してもらえると嬉しいです。
それでは、最後までお付き合いくださりありがとうございました。

参考文献

ジャック・ラカンの「欲望のグラフ」について(1)
https://researchmap.jp/taro_koyama/published_papers/34030483/attachment_file.pdf

ラカン理論における欲望とシニフィアン
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=6132&file_id=22&file_no=1


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