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フロイト入門:局所論と構造論の成立過程

お世話になっております、まるです。
今回は精神分析学の創始者、フロイトについての本を呼んだため、その内容をまとめていきたいと思います。

参考文献

内容まとめ

精神分析とそのはじめ

フロイトといえば、精神分析学の創始者として特に有名な人物である。では、そもそも精神分析学とは何なのか。

まず、精神分析は人間の心に対する治療行為の一種である。といっても、フロイト以前の心の治療が、その疾患を科学的な方法で、特に薬物や手術などの外科的な方法で身体に働きかけるという方法で治療しようとする、科学的な心理学な方法であった。一方で精神分析では、人間の精神を司る魂を分析することでその疾患を治療しようとする。

精神分析という語を初めて使ったのはフロイトだが、身体的な障害を、身体にではなく、精神に働きかけることで治療する、という方法はフロイト以前にも存在していた。有名な人物として、メスマー、シャルコー、ブロイアーが挙げらる。

メスマーが治療を行った対象は、いわゆる「悪魔憑き」と呼ばれる、痙攣などの身体的な症状に苦しむ人々であった。この時の治療は患者に催眠をかけ、体に接触し、一種の性的な快感を引き出すことで治療するという三つの特徴があった。

メスマーの方法を受け継いだのがシャルコーだった。シャルコーはヒステリー患者の治療をしたことで有名になった。シャルコーの取り扱ったヒステリーの中でも、注目を集めたものは特に「叫び声、顔面蒼白、意識喪失、卒倒につづく筋肉硬直」および「意図的性格の身体の捻転、情念、恐怖、不安、あるいは憎しみなどを身振りであらわす芝居がかった仕草」であった。
シャルコーによる治療は、メスマーの治療の三つの特徴をほとんどそのまま引き継いでいる。患者に催眠をかけ、体に接触するという治療方法であり、また患者たちが示した表情は、性的に恍惚に近いものであった。

シャルコーの治療をさらに発展させたのがブロイアーである。ブロイアーは高名な医者であり、『ヒステリー研究』という書物をフロイトと共著で執筆している。ブロイアーはこの書物の中に記されている症例で、新しい治療法を発明する。その治療法とは、アンナという患者に催眠をかけ、その日の様々な妄想を語り出させ、全てが語り終わるころには、すっかり穏やかになる、という治療法であった。この治療法は「談話療法」と呼ばれていた。

この談話療法の効果が確認できたのは、アンナの治療にあたっていた時であった。アンナは水を飲むことを恐れており、喉の渇きが激しい時も、メロンで水分をとるだけだった。ある日、談話療法により、その原因が過去の出来事がきっかけであることが明らかにされた。その出来事を吐露した後、アンナは水が飲めるようになっていた。

この談話療法は、他の神経症の症状に対しても効果を示した。ただし患者の過去の心的外傷が語り尽くされるためには、患者に催眠をかけて、患者を催眠状態にする必要があった。そのため、この療法が効果を発揮するためには催眠をかける必要があるが、患者の中には催眠にかからない者がいる、という問題があった。

フロイトはそこで催眠術に頼らない精神分析の新しい方法を考案するようになった。催眠をかけるのではなく、患者に横にならせて、目を瞑らせ、催眠に近い状態にしてから、患者の額に手を当てて、自由に連想させるという方法をとったのである。これにより、患者を催眠状態にかけなくても、催眠に近い状態にするだけで治療を行うことが可能となった。

ヒステリーの発生メカニズムと無意識

フロイトは「防衛-精神神経症」という論文で、ヒステリーが発生するプロセスについて詳細に考察している。

まず最初に心的外傷が生じる。こうした経験は患者に強い印象を与えるが、患者はそれを受け入れることができない。病を起こす人々は、そうした心的外傷が彼らの自我に肉薄し、あまりにも苦しい情動を呼び起こすために、それを忘却しようと決心するのである。これが「防衛」である。

防衛の能力を持つ自我は、心的外傷を忘却しようとする、しかし自我はこの課題を直接解決することができない。なぜなら、記憶の痕跡もその外傷に付着している情動も、いったんそこに存在してしまうと、もはや消し去ることができなくなるからである。一方で自我は、この心的外傷に付着している興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取り、場所を変えることはできる。例えば心的外傷を身体的な症例として表現する、といった具合である。そうすることでこの情動が嫌な外傷を思い出させることはなくなるが、この情動は興奮量として、すなわちあるエネルギーを持つ力として存在しているため、場所を変えてそれを別のものに結びつけることができたとしても、その量そのものは相変わらず存在しているのである。

フロイトの治療では、医者は患者に働きかけ、症状を起こしている心的外傷を発見し、その防衛メカニズムを解明し、患者に認識させることで、神経症の症状を解消することができる。

この方法において何よりも重要なのは、抑圧されている過去の心的外傷の記憶を想起するということである。この記憶は、患者にとっては不愉快なものである。不快なものであるから抑圧され、それが意識されることを防ぐための防衛機構が発達し、それが身体的な症状を生じさせているわけである。そのため患者がどうしてもそうした過去の心的外傷の記憶を想起できないことがある。このような無意識に到達するために、フロイトは重要な現象を三つ指摘している。

第一が上述した神経症である。神経症は、症状としての身体的な通路から、わたしたちに無意識の存在を明らかにしてくれる。第二が夢である。夢は、わたしたちが意識していない多くのことを、心の中に秘めていることを明らかにしている。第三が、言い間違いや度忘れなどの失策行為である。わたしたちはうっかりとひとの名前を忘れたり、大事なところで恥ずかしい言い間違いをしたりすることがある。そしてその忘却や言い間違いを調べてみると、その背後に私たちの忘れたい欲望や、言い間違いが明らかにした欲望の働きが暴かれるのである。

フロイトは無意識に関して、抑圧されていたトラウマが身体的に表現されるのが神経症の症状であり、秘められた欲望が精神的に表現されるのが、言い間違いや度忘れだと考えた。そして夢については、夢見る主体の秘められた欲望の充足である(=夢は秘められた欲望を満たしてくれるものである)と考えていた。

夢の理論と局所論

フロイトは『夢解釈』という書物において、「夢は欲望の充足である」という持論を展開する。しかし多くの夢は、欲望の充足とは言い難い。そこでフロイトは夢が欲望の充足であるのに、そのように思えない夢が多いのは、夢は歪曲されていて、自分の欲望がそのままで表現されることが少ないからだと考えたのである。夢をみる人の意識は、自分にとって不快なものを排除しようとする。そのため夢をみる人の無意識は、夢の中で自らの欲望を表現するためには、意識にとって不愉快に思われる要素を偽造させなければならないのである。

このようにして夢の形成には、欲望と検閲という二つの力が働いていると考えることができる。一つは夢によって表現される欲望を作り出し、もう一つはこの夢の欲望に検閲を加える。そして検閲によってその表現を歪曲させるのである。

フロイトは人間の心は無意識、前意識、意識の三つの領域で構成されていると考えた。まず欲望がありのままの姿で働いているのが無意識の領域である。その領域の出口のところに、第一の検問所が存在する。この検問所は、自分の願望を充足するものだけを通過させる。この無意識の領域から夢の潜在的な内容が、前意識の領域に入り込むことになる。

次にこのようにして前意識の領域に入り込んだ夢の潜在的な内容は、前意識と意識の間にある第二の検問所を通過して、意識の領域に入り込むことになる。しかしその夢が自分の欲望の真の性格を意識した場合には、これを再び抑圧して無意識の領域に押し戻してしまうので、この真の欲望を示す夢は、加工しなければならないのである。

そのための役割をはたすのが、この前意識と意識の領域の間に存在する第二の検問所である。この検問所は、潜在的な夢の内容に手を加え、意識にとっても許容できるものとみえるように偽造する役割を持つ。

ときには人は苦痛な経験を夢見ることもある。これは夢が本来の充足であるというフロイトの根本的な仮説を否定するようにみえる。フロイトはこのように、本来であれば、欲望を充足するものではない苦痛の夢が、それでも逆説的に欲望を充足するものであると考える。苦痛な夢は実際に、第一検問所にとっては苦痛であるが、同時に第一検問所の欲望を満たしているのであるのだ。

夢は、主体にも秘められた欲望を幻覚という手段で満たそうとする。こうした欲望は危険をもたらすことがあるために、現実の世界では実現されないことが多い。しかし睡眠中は、人は自分の運動器官を活動させることができないのであり、実際に危険をもたらすことはないのである。そして覚醒している間は第一の検問所は閉じていて、秘められた願望が意識に到達することはないようになっている。

フロイトは以上の夢の理論から、人間の心には、意識、前意識、無意識という三つの領域があると考えるようになった。これは局所論(ないし第一局所論)と呼ばれる。フロイトの局所論は、夢の分析によって確立されたと考えることができる。

この局所論に基づいた考察によって、精神疾患の治療のための手がかりがえられることになる。そのためにまず無意識の特徴を確認する必要がある。無意識はいわば、幼児的な欲望が蓄積されている容器のようなものである。そして無意識的なプロセスは破壊されない。この無意識の中で発生した興奮は、うっかりするとどこかに突破口を作って自分の興奮にそのつど運動力への放出の道を作り出すことになるだろう。これは症状を行動として示す危険な道である。それを回避するために、患者に自由連想によって、自分の無意識のうちで抑圧している記憶を想起させ、語らせる必要があるのである。

実は夢というのも、精神分析両方と同じような役割を果たしているとフロイトは考えている。無意識は抑圧し続けるにはエネルギーが必要であり、それは心的負担である。夢は無意識に対してその興奮を放出させるために役立っているのだ。

第一次世界大戦による理論の修正

局所論による心の機能の説明は、神経症などの精神疾患の発生プロセスの分析に大いに役立った。しかし、ある出来事を境に、局所論による心の説明では解決することのできない多数の現象が登場した。その出来事とは、第一次世界大戦である。この世界的な戦いでは、多くの兵士たちが辛い記憶を抑圧することができず、繰り返し反復してその不愉快な記憶を夢見る病にかかったのである。これはそれまでの「夢は欲望の充足である」という定式では解釈できなかった。こういた災害神経者の夢は、もはや欲望の充足という観点からは解釈できないと考えざるを得ないのである。そこでフロイトは、これらの症例を考察するために、新たな理論的な構築を迫られたのである。

フロイトは、こうした患者たちは、別の形で自分の欲望を充足していると考えたのである。その願望とは、自分の死を望む欲望であると考えるならば、「夢は欲望の充足である」という定式が維持できるのである。そしてこの時期から、フロイトは人間の欲望をエロス的な欲動(エロス)と死を望む欲動(タナトス)の二つの欲動で構成されると考えるようになったのである。そしてこの新たな理論構成に合わせて、局所論に代わる構造論(=第二局所論ともいう)と呼ばれる新たな理論を提起し、自我、エス、超自我から心の機能を説明したのだった。

エディプス・コンプレックス

構造論の説明に入る前に、フロイトが提唱した需要な概念であるエディプス・コンプレクスについて確認しておきたい。

フロイトが精神分析を行っている時に気づいたのは、神経症の患者の多くが、幼児の頃に近親の人々から性的な誘惑を受けた記憶を語るのであり、それが神経症の病因になっていると考えられたことである。初期のフロイトは、神経症の多くは基本的に父親からの性的な誘惑や濫用によるものだと考えていた。しかし当時のウィーンにはいたるところに神経症に苦しむ女性がいたのだが、そのすべての人々の肉親が、とくに父親がそのような倒錯者であると考えるのは、妥当ではないとフロイトも感じていた。

さらにもっと重要な理由があった。フロイト自身、みずから神経症を病んでいることを自覚していたが、自分の父親がそのような倒錯者であり、自分を誘惑したのだとは信じられなかったのだ。そこでフロイトが取り組んだのが、自分の夢を分析することだった。夢を分析することで、自分の神経症の原因となっているものをつきとめ、父親による誘惑という自分の理論が正しいのかどうかを考察することを試みたのである。

フロイトは自己の夢を分析することによって見つけたものは、自身の中にある母親への惚れ込みと父親への嫉妬であった。意識のうちではフロイトは、自分がそこのような感情を抱いていることを自覚しておらず、承認もしていないが、夢を分析することによって、そうした無意識的な欲望が自分のうちにあることを認めざるをえなくなったのである。そしてフロイトはこうしたコンプレックスを、エディプス・コンプレクスと呼ぶのである。

フロイトはこの自己の夢の分析のうちに、神経症の患者たちが語る誘惑の記憶は、偽造されたものであると考えるようになった。患者たちは子供の頃に、両親から性的に誘惑されたのではなく、反対に子どもが両親に性的な欲望を抱いたことが、こうした偽りの記憶を作り出す原因となっていると考えるようになったのである。そしてこうした偽造された記憶は、エディプス・コンプレックスが作り出したものだと結論したのである。

フロイトによれば、母親への惚れ込みと父親への嫉妬というエディプス・コンプレックスは、少年が成長する過程でだれしもに発生するものである。そしてこのコンプレックスの克服には、二つの道がある。

第一の道においては少年は父親と同一化する。少年はエディプス・コンプレックスにより、父親の立場に立って母親を愛することを望む。しかしこの場所にはすでに父親が存在している。少年は父親を亡き者にすることを望むが、現実がそれを許さない。父親は強く、母親もまた子供である自分ではなく、父親を愛しているからである。そしてやっかいなことに、少年は自分を育ててくれている父親もまた、母親と別の意味で愛しているのである。そして父親のような存在になりたいと願っているのだ。

そのために少年の父親への同一化である、少年には父親にたいする両儀的な感情が生まれることになる。少年が父親に同一化したのは、父親に憧れ、父親を愛しているからだが、同時に父親を憎んでもいるのである。この道は陽性のエディプス・コンプレックス呼ばれる。

第二の道においては少年は母親と同一化する。そして少年は母親の立場に立って、父親から愛されようとする。これは陰性のエディプス・コンプレックスと呼ばれる。

実際のエディプス・コンプレックスの克服の際は、少年は父親と母親との同一化のいずれかの道を選択することを迫られるのではなく、その両方を統合する道を選ぶこととなる。この二つの同一化が統合されることで、超自我と呼ばれるものが生まれる。超自我は、少年のエディプス・コンプレックスの願望を抑圧する役割を果たすのである。

こうして超自我は両親のまなざしを獲得することになり、自我を支配する性格を獲得する。そして超自我が良心として、あるいは無意識的な罪悪感として、強力に自我を支配することになる。超自我は、両親の影響を永続的な形で表現するものとなるのである。

なお、上記では少年の立場でエイディプス・コンプレックスの克服を考察してきたが、少女にも似たようなものとしてエレクトラ・コンプレックスと呼ばれるものがある。ただしその詳細はこの記事では割愛する。

構造論の誕生

このようにエディプス・コンプレックスの克服の過程において、少年はその心の内部に超自我という機能を抱えることになった。この超自我の登場に伴って、心の構造は新たに自我、エス、超自我という三つの機能で構成されるようになった。

この新しく登場した機能を局所論の各領域と比較して考えてみる。まず、新たに登場した「自我」と意識はどういう関係にあるだろうか。自我に意識が結びついているのは明らかだが、フロイトは自我に次の三つの重要な役割を与えている。

第一に自我は、外界の現実とエスの欲動を吟味することで、この二つが矛盾しないように制御する機能がある。自我は理性や分別というものを代表しているのである。

第二に自我は、抑圧する作業を担当する。これは局所論では前意識が担っていた役割である。自我は夜は眠りに入るものの、絶えず夢を検閲している精神的な審級である。抑圧もこの自我から生まれるのである。

第三に自我は、無意識と前意識の両方にまたがるものである。自我は近くシステムを中枢とするが、記憶の残骸に依拠する前意識も含むだけでなく、自我は無意識的なものでもある。例として上に挙げた抑圧は、自我の機能であるものの、普段は意識されることはなく無意識的なものである。

これに対してエスは欲動の塊であり、ほぼかつての無意識の領域に対応する。ここで重要なのは、無意識の概念とは異なり、エスにおいて欲動が抑圧されて無意識的なものになっっているかどうかは、問題とされないことである。エスには抑圧されたものが含まれるが、抑圧されない欲動もまた存在しているのである。

さらに超自我は、これまでには全く登場しなかった機能である。この超自我は、エスの欲望をそのままで充足しようとする自我の営みを禁圧し、こうした欲望を抑圧するように命令する。超自我は良心や道徳心の役割を果たし、エスの欲動を抑圧して、道徳的にふるまうように自我に命令するのである。

死の欲動

構造論において、超自我は主として、人間が成長の過程でエディプス・コンプレックスを克服する際に生まれる機能と考えられており、この機能のもたらす道徳性と社会性のもとで、人々は他者と社会を構築することが可能になるとされたのだった。

人々はたしかに自己の欲動を放棄することで社会のうちで他者と交わり、創造的な活動に携わる。しかしこのようにして欲動の満足を放棄することができる人ばかりではないだろうし、欲動の満足を妨げるこの社会は、多くの人々にとって、過酷なものとなりうるのである。

人々が協力して生きるために作り上げた社会は、やがて人々がみずからの欲望を充足することを禁じる「檻」のような役割をはたすことになる。人々が苦労して構築した文明と文化は、エスのうちに潜む要望を超自我の力によって抑圧するという犠牲を払うことを、人々に求めているのである。

社会という「檻」に閉じ込められた人間たちは、檻の格子に体当たりして自己を傷つけるしかない。人々は良心というものを発明し、自己の内部に檻を作り出してしまった。この罰する機能としての超自我は、自我を罰し、ときにはその人を破壊してしまうこともあるのである。この攻撃的な欲動が自己に向かっている状態が、死の欲動を結びつけられる。

元々、構造論がなく局所論だけで人間の心を説明していた時は、フロイトは夢は欲望の充足であるものと考えていた。しかし、第一次世界大戦後、多くの人が戦争の辛い体験を繰り返し夢に見ることに悩まされることとなり、一見、夢が欲望の充足とは考えられなくなってしまった。だが人間には誰しも、死を望む欲動があるのだと考えれば、戦争の辛い経験の夢もまた、欲望の充足であると考えることができる。そうした死の欲動は、エディプス・コンプレックスの克服により誕生した超自我という機能を軸にした構造論により、超自我が自我に課す罪悪感や攻撃性、破壊的な衝動と結びつけられるのである。

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