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なぜ現代アートに現代哲学が使われるか 〜アートマーケットの側面から考える〜

現代アートと現代哲学が引き合わされるとき、そこにはどのような意図が働いているのでしょうか。「何でもありの世界になった現代アートの世界を、さまざまな思想を用いて解明したい」という理解に対する欲求もあれば、「小難しい批評を書いてみたい」なんていう俗っぽい欲もあるでしょう。しかし実はアートに哲学が使われている裏では、莫大な金額をめぐる取引が、アートマーケット上で発生しているかもしれません…

この記事では、現代アートに現代哲学が使われている実例を「思弁的実在論」を例に眺めつつ、なぜアートと哲学が組み合わされることがあるのかをアートマーケットの側面から考えてみたいと思います。

※ 本記事を読むのにかかる時間は約30分です。
※ 本記事は単独で、前提知識無しのまま読めるようになっていますが、以前書いた「思弁的実在論」と呼ばれる現代思想についての記事を読んでいると、より楽しめると思います。よければ目を通していただけると嬉しいです。

「名もなき物質たちをめぐる思弁」展

そもそも、アートに哲学が使われている例とは、どのようなものがあるのでしょうか。ここでは「名もなき物質たちをめぐる思弁(“Speculations on Anonymous Materials”)」展を例に、アートに哲学が使われている例を見ていきましょう。

「名もなき物質たちをめぐる思弁」展とは、2013年にドイツのフリデリチアヌム美術館で開催された展示会です。この展示会は、公的な機関が組織した初の思弁的実在論を軸とした展覧会として話題を呼びました。
思弁的実在論とは、現代哲学で流行した思想の一つです。まずはこの思想について、簡単におさらいしてみましょう。

「名もなき物質たちをめぐる思弁」展
「名もなき物質たちをめぐる思弁」展

思弁的実在論のおさらい

※ この章では思弁的実在論について簡単に解説をしています。思弁的実在論について理解されている方(「相関主義」や「偶然性の必然性」という言葉がある程度分かる方)は読み飛ばしても大丈夫です。

思弁的実在論とは、「存在」というものを巡る現代哲学の考え方の一つです。この考え方がどのようなものだったのかを簡単に振り返ってみましょう。

実在論と観念論(=相関主義)

物の存在について、古くは「実在論」という考え方が主流でした。これは「物の存在は人間がいなくても成立する」という考え方です。ところがこの実在論的な物の見方はカントやハイデガー、ウィトゲンシュタインといった哲学者により改められていきます。机の上のりんごを見た時、りんごが好きな人は「おいしそうなりんごが存在している」と思い、りんごが嫌いな人にとっては「あまり好きではないりんごが存在している」と思うことでしょう。この時、存在のあり方が人間の認識によって変わっていることが分かります。このような考えを突き詰めて、「人間がものを認識することで、初めて『存在』が生まれる」という立場の考え方が「観念論」と呼ばれる物です。この考え方は、人間は「存在」と「認識」の相関関係にしかアクセスすることができない、という意味で「相関主義」とも呼ばれます。

相関主義の問題と思弁的実在論の誕生

近代哲学は、相関主義を中心に発達してきましたが、この考え方には二つの問題点が生じました。それは「祖先依存性」と「信仰主義」という問題です。
祖先以前性とは、「人間が存在しなかった過去(=祖先以前)について語ることが、相関主義の立場だとできない」という問題です。また信仰主義とは「理性を突き詰めてた結果、超越的なもの(例えば神など)にアクセスするには非理性に頼るしか無くなってしまった」という問題でした。

これら二つの問題点を解決するために、メイヤスーにより提案されたのが「思弁的実在論」という考え方です。思弁的実在論では、相関主義が陥った「人間の認識外の存在に対する理性の限界」を、次のように言い換えます:「人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)。」このことは「偶然性の必然性」と呼ばれます。
ここで使われる「偶然」という言葉は、例えば「サイコロを振って1〜6のどの目がでるか」といったレベルの偶然性では最早ありません。メイヤスーが言うところの偶然性は、例えば「手に持った石を離した次の瞬間に自然法則が書き変わり、石が明後日の方向へ飛んでいった」などといった、もはやなんでもありの偶然性です。ゆえにこの偶然性はハイパーカオスとも呼ばれます。

この「偶然性の必然性」という命題を絶対的に信じられる基盤として置き、そこから様々な定理を演繹的に導いていくことで、人間の認識の範囲外で語られる領域を増やしていく哲学、それがメイヤスーにより提案された「思弁的実在論」でした。

本記事を読むのに必要な思弁的実在論の知識は上記で足りると思います。より詳しい解説を読みたい方は、下のリンクから過去の記事をご覧ください。

作品を眺めてみる

さて、上記で解説した思弁的実在論を中心軸として、さまざまな作品が集められた展示会こそが、「名もなき物質たちをめぐる思弁」展になります。
それでは、思弁的実在論の考え方が織り込まれたアートとは、実際どのようなものでしょうか。以下で作品を二つほど眺めてみましょう。

作品① : Axe Effect

はじめに紹介する作品は、Timur Si-Qin という作家により制作された、「Axe Effect」という作品です。

Timur Si-Qin, Axe Effect, 2013
Timur Si-Qin, Axe Effect, 2013
Timur Si-Qin, Axe Effect, 2013
Timur Si-Qin, Axe Effect, 2013

この作品は、男性用シャワージェルのAXEを刀で串刺しにし、床にジャクソン・ポロックの作品のように不規則な模様を凝固させた作品です。

ここで注目したいのが、この作品が「名もなき物質たちをめぐる思弁」展に展示された、ということです。つまりはこの作品は、思弁的実在論と何かしら関連があると考えられて展示されているのです。
それでは一体、Axe Effect はどのようにして思弁的実在論と関連するのでしょうか。批評家の Neomi Smolik はこの作品について以下のように語ります。

Sin-Qinは、メイヤスーの思想を明示的に引き合いに出すことで、彼の「偶然性の美学」を説明します。これは、半安定構造の中にある物質の、安定した流れのようなものを意味しています。

ARTFORUM : “Speculations on Anonymous Materials”

なるほど、つまりAXEから流れるジェルが床に描く偶然的な模様が、メイヤスーの「偶然性の必然性」に関わってくる訳です。確かにこれは思弁的実在論を用いたアートですね。


……待てよ、


……本当に?これ、本当に思弁的実在論でしょうか??


メイヤスーが提起した「偶然性の必然性」で言うところの偶然性は、「もはやサイコロを振って1〜6のどの目がでるか」といったレベルの偶然性ではない」のでした。メイヤスーの言うところの偶然性とは、人間の認識外でどのようなことが起こっても良いという、何でもありのハイパーカオスな偶然性です。

一方で Axe Effect における偶然性を見てみると、これは床に垂れ流されたゲルが偶然的な模様を描く、と言う作品です。ここでの偶然性は、果たしてハイパーカオスと言えるのでしょうか。それよりはむしろ、サイコロのどの目が出るか、といったレベルの偶然性にとどまっているのではないかと、私は感じます。

メイヤスーの思想と Axe Effect は、どちらも偶然性という言葉を用いていますが、その意味合いは大きく異なっています。この作品を偶然性という言葉でまとめてメイヤスーの思弁的実在論に結びつけるのは、少々こじつけ感があるのではないでしょうか?

…とはいえ、Axe Effectは「名もなき物質たちをめぐる思弁」展で展示された多くの作品の中の一つなので、たまたまそんな作品も中にはあるかもしれません。
それでは、他の作品については一体どうなのでしょうか。一緒に見てみましょう。

作品② : Creative Hands

次に紹介する作品は、Josh Kline という作家による「Creative Hands」という作品です。

Josh Kline, Creative Hands, 2013

この作品では3Dプリンタを用いて、エナジードリンクやスマートフォンなどを持っている状態の「手」が制作されています。

さて、この作品は思弁的実在論とどのように紐づけられるのでしょうか。再び批評家の Neomi Smolik によるコメントを見てみましょう。

当たり前のことですが、我々の身体が至る所にあるのと同時に、手もたくさんあります。タッチスクリーンと相互作用して、我々はデジタルの領域への扉を開きました。例えば、Kline は3Dプリントを利用して、友人がエナジードリンクやスマートフォンなどの、お気に入りの物質を持っている手を制作しました。

ARTFORUM : “Speculations on Anonymous Materials”

この文章から読み取れる重要なことは、存在の認識の仕方に対する「身体から手へ」という変化の流れと、「タッチスクリーンと相互作用することによる、デジタル領域へのアクセス」という二点だと思われます。

なるほど、何かの存在を認識したい時、従来までであれば身体を直接その場まで向かわせなければいけませんでした。しかし、今や我々がアクセスできる領域は、リアルな世界だけでなく、新たにデジタルな世界も加わっています。この新たな世界に対してアクセスするには、タッチスクリーンを用います。つまり人間は身体ではなく手を通して、新たな世界を認識していくのです。

つまり、「認識と存在」の相関関係にアクセスする媒体として、時代が進むにつれて身体というものから手というものへ、徐々に移り変わっていった、という事に注目して作られた作品こそが、この「スマートフォンを操作する人間の手」の彫刻なのでしょうか。ふむふむ、これはまさしく思弁的実在論に違いありませ…


……あれ?


……これ、思弁的実在論じゃなくて、相関主義の考え方なのでは??


そうなのです。この批評コメントを解釈すると、「デジタル領域の発展に従って、認識の存在の相関関係へのアクセスするための媒体が、身体から手へと移っていった」と言うことになります。確かにこの相関関係へのアクセスの手段が変わっていったというのは面白い考察だと思いますが、この考え方は、思弁的実在論ではなく、まんま相関主義の考え方をベースにしています。そこにはメイヤスーの「偶然性の必然性」といった考え方は少しも含まれていないのです。

なぜアートに哲学を関連付けるのか

ここまで、我々は「名もなき物質たちをめぐる思弁」展で展示された作品を二つ見てみました。この展示会は、メイヤスーの思弁的実在論をベースにした展示会であったはずです。しかしながら紹介した作品の一つは、メイヤスーの提起した「偶然性」の解釈違いがありましたし、もう一つの作品に至っては「思弁的実在論」ではなく「相関主義」についてフォーカスを当てている作品でした。

私はここで、紹介した二つの作品そのものに文句をつけるつもりはありません。ただ、これらの作品が思弁的実在論をテーマとした展覧会に展示されている、という点に違和感を覚えるのです。どこか無理にでも作品と思弁的実在論を結びつけようとした、そのような意図が感じられないでしょうか。

「なぜ現代アートの説明に思弁的実在論が用いられたか。」 この問いに対して、アートマーケットの理論を持ち出したユニークな考察をした投資家がいます。彼の名前は Stefan Heidenreich です。以下では、 e-flux に投稿された Stefan の論考について見ていきたいと思います。

美術館の役割の変化

Stefan は、従来までの美術館と現代の「新たな美術館」では、それらが果たす役割が大きく変わってきたのだと論じます。一体、その役割はどのように変化してきたのでしょうか。彼の論考を見てみましょう。

時間と歴史の認識を作成するには、知的かつ制度的な努力が必要です。アート界の大きなタイムマシンは、かつて美術館でした。 (中略)
現在の美術館は別のところに注目しています。国の文化的アイデンティティと歴史的遺産の保護は、二次的な目標へと成り下がりました。新たな芸術の宮殿を建てるために巨額のお金が費やされています。新たな美術館はとても素晴らしいものです。建築のランドマークとして、観光名所としての役割から国家間の競争力のソフト要因としての役割まで、あらゆる目的を果たします。しかし新たな美術館は、芸術や歴史と時間の構築のための、以前のような機能は果たしません。新たな美術館は、巨大なコレクションを集める代わりに、一時的なショーの開催にリソースを費やしています。文化的規範となることはもはや新しい美術館の関心ごとではないのです。

Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism

かつでの美術館は、歴史的・美術史的な側面などにより、「価値がある」とされた作品を保存し、時間による劣化から防ぎ、時には損傷を修復して作品の元の状態を保つことを一番の目的としていました。ところが現代における「新しい美術館」の目的は、かつての美術館のそれとは異なります。

美術評論家のボリス・グロイスによれば、新しい美術館は一時的なキュレーションされた企画の場となりました。その目的は、移り変わりの早い現代アートの世界において、美術館を流動的にし、今日の時間の流れと同期させることにあります。新しい美術館は鑑賞の場であることをやめ、ものごとが起こる場となりました。美術館はまたキュレーション企画のみならず、講演、会議、朗読、上映、コンサート、ガイドツアーもまた行っています。

このように、美術館の役割が変わっていくにつれ、かつての美術館の役割であった「巨大なコレクションの収集・保護」というものに対して掛けられる金額が少なくなり、徐々に関心から外れていったのです。

文化的規範の不在

さて、こうして美術館の役割が変わることで生じるのが、「文化的規範の不在」です。かつて、由緒ある正当な芸術作品の基準は、美術館にコレクションされた作品でした。ところが今では、美術館は規範を定める役割を徐々に失っているのです。

歴史の欠如は、彼らが「現代」に焦点を合わせているときに最も顕著になります。 刻々と変化する現在にとらわれて、美術館は歴史的保護区を開発する機能を失いました。 美術館の歴史を通じて、アートマーケットは、その規範構築の取り組みから利益を得てきました。 最後の貸し手として、美術館はアートマーケットの中央銀行のように振る舞ってきました。 従来の美術館は、安定した歴史と規範に基づいて、安全性、つまりほぼリスクのない投資の基盤を提供してきました。 キュレーターはこれを行いません。 ビエンナーレはこれを行いません。 そして新しい美術館もこれをやめました。 今日の新しいアートリポジトリであるフリーポートは、完全に市場の法律に従って運営されているため、その変動にさらされています。

Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism

アートの価値を決める絶対的な存在としての美術館は、もはや存在しません。アートの価値は完全に市場の法則のもとで変動しています。そうなると困るのはアートを用いて資産を運用してきた投資家たちです。彼らには絶対的に頼れる存在がありません。アートに価値を見出したい時、私たちは「感性」と呼んでいる、曖昧なものに頼るしか方法はないのでしょうか。

アートの価値付けとしての哲学

そんな「絶対的文化規範の不在による世界における、アートの価値付け」のために出てくるのが哲学です。引き続き Stefan の論考を見てみましょう。

ここで哲学が登場します。哲学の伝統的なレトリックは、権威への訴えを呼び起こします。適切で十分に根拠のある哲学論文は、2,500年に及ぶ書面による豊かな思考の歴史から著者に呼びかけることでその地位を引き出しています。哲学者を現代美術の言説にとって非常に価値のあるものにしているのは、まさにこの歴史の積み重ねです。より多くのアート批評がこの長い思考の歴史への引用と参照で飾られているほど、このアート批評は関連するアート作品の耐久性を保証するのに役立ちます。

Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism

美術館による文化的規範の存在がない今、アートの価値を定めるのに哲学が用いられる、と Stefan は語るのです。確かに、どこの誰か分からない批評家がただ感想を書き連ねた批評より、哲学からの引用に溢れた批評のほうが、作品に由緒や正当性を与えてくれそうです。なぜなら、哲学にはその背景に歴史的な豊かさが含まれているからです。

「現代アート」と「現代哲学」のこの二つの組み合わせは、一見するとどちらも純粋にアカデミックなものに見えるかもしれません。しかしその一方で、実はアートマーケットという資本主義の世界では、アートの価値をつけるために哲学は重要な役割を果たしている、という裏があるのです。

アートにおける思弁的実在論の役割

思弁的実在論のメリット① : 由緒正しさ

実は、「現代アートに由緒や正当性を与える」という点で見ると、思弁的実在論は非常に優れた哲学となっています。それは一体、どういうことでしょうか。

したがって、アート作品の開地に対するリスクヘッジとして値する哲学の唯一の要件は正式さです。 過去の幽霊のように、この哲学は、彼らを引用したり、彼らの理論的概念を参照したりすることによって、古い権威を呼び出す必要があります。 古くなればなるほど、厳粛になります。

この測定基準によると、思弁的実在論はかなり高いスコアを示します。 それ以前のフランスのポスト構造主義とは対照的に、思弁的実在論は、哲学の永遠の核となる質問を捨てることから始まりました。 その主な参照点は、この分野の長い歴史の中に散在しています。 アート作品の価値に対する哲学的リスクヘッジの目的では、カントに賛成するか反対するかは問題ではありません。 重要なのは「カント」という名前です。

Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism

アート作品に対する批評に哲学を用いる時、重要となるのは「正式さ」です。その哲学に賛成するか反対するかは問題ではないのです。この点、思弁的実在論は非常に優れています。なぜなら思弁的実在論は、実在論から相関主義といった、現在までの哲学で考えられてきた「存在」に対する思考の歴史を全て踏まえた上で考えられた思想であるからです。

確かに、メイヤスーの議論には賛否両論、さまざまな意見があるでしょう。偶然性の必然性、という彼の提唱した概念によれば、「今は神は世界に存在しないが、やがて将来、神が出現して報われなかった魂を救済してくれる」といったハイパーカオスな出来事も、可能性としては存在するわけです。人によっては「神という存在を哲学で扱える範疇まで持ってきた」と評価する人もいれば、「神なんて出てくる訳ないだろう。お前は何を言っているんだ」と反対する人もいるでしょう。ただ、アート作品に対する価値付けという観点でいえば、思弁的実在論に対する賛否の立場はどちらでも良いのです。「思弁的実在論は、カントを中心としてさまざまな偉大な哲学者たちの思想を引用した上で考えられた」という、その由緒ある基盤こそが、アートの言説にとって重要なのです。

思弁的実在論のメリット② : 政治的・経済的リスクの低さ

思弁的実在論には由緒正しさというメリットの他にも、政治的・経済的リスクの低さというメリットが挙げられる、と Stefan は語ります。

思弁的実在論は大陸の哲学とは異なり、政治的議題から完全に逃れています。哲学的推論の純粋さのために、思弁的実在論のほとんどの支持者は、政治的行動主義は言うまでもなく、政治的および経済的理論のような大雑把な問題を避けます。哲学的推論の純粋さのために、思弁的実在論のほとんどの支持者は、政治的行動主義は言うまでもなく、政治的および経済的理論のような大雑把な問題を避けます。このため、重大な混乱や不利な談話的介入のリスクは非常に低いです。 そして、ヘッジに関して言えば、リスクを回避することが重要項目となります。

Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism

思弁的実在論とは、純粋に「存在」というものに対する哲学であり、そこに政治的・経済的な議論はありません。このことは、世界情勢の変化に対してこの哲学の意義が頑健であることを表します。アートを投資として考える人たちにとって、最も回避したいのは政治や経済の混乱により、自分が保有している作品の価値が暴落することでしょう。政治に言及されるような哲学であれば、世界情勢に応じてその哲学への反発が高まり、理論の権威が失墜することもあり得ます。そのようなリスクのある哲学より、思弁的実在論のような政治・経済と無縁の哲学であればあるほど、リスクが回避でき、投資家からは好まれるのです。

思弁的実在論のメリットまとめ

まとめると、思弁的実在論は「由緒の正しさ」と「政治的・経済的リスクの低さ」から、アートの価値付けとして最適な哲学であると Stefan は主張していることになります。

哲学的ヘッジを成功させるには、十分な引用と長い思考の歴史への言及を介して接続され、不利な政治的および美的判断を回避するのに十分賢明な、歴史的に十分に根拠のある理論が必要です。 哲学とその主要な思想家の古典的な質問を再活性化するためのアプローチでは、思弁的実在論はこの目的を完全に満たすのです。

Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism

このように考えると、「名もなき物質たちをめぐる思弁」展で展示された上記の2つの作品について、なぜ作品と思弁的実在論が半ば強引に関連付けられていたのかが分かってくるでしょう。そこにはメリットがあるからです。かつての美術館という文化的規範を定めていた存在が無くなり、アートの価値が市場原理に左右されるようになった今、その価値の拠り所として哲学が使われるのです。そしてそのように使われる哲学の中でも、思弁的実在論というのは特に高いスコアを誇ることから、作品を思弁的実在論に結びつけることはアートマーケット的観点からも有用である、というように理解することができます。

まとめ

本記事の内容を箇条書きでまとめると、以下の通りとなります。

  • 現代アートの批評には、しばしば現代哲学が用いられることがある。

  • 例えば「名もなき物質たちをめぐる思弁」展では、作品と思弁的実在論が関連付けられた展示会であった。

  • しかしながら、この展示会では作品は半ば強引に思弁的実在論と関連付けられているように見える。何故そこまでして作品と哲学を結びつけたいのか。

  • その裏には、美術館が「文化的規範を定める」という従来の役割を失ってきた歴史が隠れている。アートの価値を決める絶対的な基準を美術館に求めることができなくなった代わりに、投資家や批評家は哲学にそのより拠り所を求めることになった。

  • 特に思弁的実在論は、「由緒正しさ」と「政治家・経済的リスクの低さ」という観点で、文化的な規範として高いスコアを誇る。このことが、一見こじつけに見える考えであっても、作品を思弁的実在論と結びつけようとする理由の一つではないか、と考えることができる。

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参考文献

  • ARTFORUM : “Speculations on Anonymous Materials”
    本記事の元ネタ記事の一つ。批評家 Noemi Smolik による「名もなき物質たちをめぐる思弁」展の作品に対する解説記事です。
    本記事でめちゃくちゃこじつけとか言ってすいませんでした。


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