見出し画像

思弁的実在論(特にメイヤスーの議論)についてまとめる

この記事では、現代哲学で流行した『思弁的実在論』について、その思想が生まれた背景と、思想の概略について記載したいと思います。
なお、この記事は哲学についての前提知識が無くても読めることを想定しています。「最近の哲学者はどのようなことを考えているか」ということに興味がある方、よければ記事を読んでもらえると嬉しいです。

※ なお、思弁的実在論という場合、「オブジェクト指向存在論などを含めた現代実在論全体」を指す場合と「現代実在論の中でも、メイヤスーの『偶然性の必然性』を中心とした議論」を指す場合の2パターンがあるように見受けられますが、今回は後者の、メイヤスーの議論に絞って記事をまとめたいと思います。

「存在」をめぐる哲学の歴史

「思弁的実在論」という言葉の意味

そもそも「思弁的実在論」について語る前に、まず「思弁」と「実在論」の意味について確認しておきたいと思います。
「思弁」という単語は聞きなれないですが、ここでは「観察や経験に頼らず、論理的に推論する」くらいに思っておけば大丈夫です。
それでは、もう一方の「実在論」という単語の意味は何でしょうか?
これを理解するには、今までの哲学で議論されてきた「実在論」「観念論」について把握しなければいけません。

「実在論」と「観念論(=相関主義)」

結論から言うと、「実在論」とは「人間の認識なしでモノが存在する立場」を表します。一方で「観念論」とは「人間の認識があってはじめてモノが存在する立場」のことを表します。

例えば、机の上に置いてあるりんごを想像してみてください。実在論的な立場では、誰もこのりんごを見ていない、認識していない場合でも、このりんごが普遍的に「存在」していると考えます。これは極めて普通の考え方でしょう。

一方で、観念論的な立場に立っている人からすると少し考え方が異なります。そもそも「観念」とは、対象物に対して心の働きが加わったもの、つまり認識されたもののことを指します。観念論的に言えば、このりんごは、人間が見て、脳で処理をして、初めて「そこにりんごがある」と確認することができる訳です。この場合、りんごを認識する人によって「存在」の在り方は変わるでしょう。例えば、りんごが好きな人にとっては「美味しそうなもの」が存在していることになりますし、りんごという果物を知らない人がもしいたら、「何か赤くて丸いもの」が存在していることになります。
このように考えると、りんごは人間の認識なしでは「存在」として成立せず、りんごの「存在」と人間の「認識」は切っても切り離せない関係にあると考えることができます。このようにして「存在」というものを考える立場こそが「観念論」という考え方に当たります。
なお、観念論は、上記のように「存在」と「認識」はセットで考えなければならない(=人間は「存在」と「認識」の相関関係にしかアクセスできない)という意味で、「相関主義」とも呼ばれます。

弱い相関主義

さて、近代哲学はこの相関主義を中心に議論が発展してきました。初めに相関主義を世に広めた人物は、カントという哲学者です。
カントがいた頃の当時の哲学界では、「矛盾する二つの命題が互いに証明することができる」という状態がしばしば存在しました。例を挙げると「世界は空間・時間的に有限である」という命題と「世界は空間・時間的に無限である」という命題の二つの矛盾する命題について、当時の哲学の考えを用いると「両方とも正しいと証明できてしまう」という自体が生じていたのです。このような矛盾する命題同士のことをカントは「アンチノミー」と呼びます。カントはこのアンチノミーの解決のために、相関主義という考え方を用いました。

この記事では、アンチノミーの詳細や、カントがどのように解決を行なったかの詳細については触れません。ただ押さえておきたい議論のポイントは、人間が認識をする前のモノ(=物自体)の存在と、人間が物自体を認識した結果生じる存在(=現象)の両者を、初めて分けて考えたのがカントだ、ということです。
先ほどの「世界の有限・無限性」の議論を例に挙げると、人間が認識をする前の世界(=物自体界に所属する世界)には、空間・時間的な「量」が存在しない(=従って有限でも無限でもありはしない)けれども、人間が認識をした後の世界(=現象界に所属する世界)は空間的・時間的にも有限なものとして存在する、としてアンチノミーの回避に成功したのです。
※ 大半の人が「お前何言ってるの?」となったと思います。このアンチノミーの回避方法については詳しく理解せずに流してもらって大丈夫です。より詳しく知りたい方は記事の最後に載せてある参考文献を読んでみてください。

ここで注意したいのは、カントは物自体の存在自体は認めていた、ということです。例えばカントは物自体界に「世界」や「自由」、「善意志」などが存在しているとして、それを根拠にアンチノミーの回避や道徳規則の導出を行なっています。(これについてカントは「物自体は認識不可能ではあるが思考可能ではある」という微妙な言い方をしています。) 
カントの立場のように、基本的には人間は「存在」と「認識」の相関関係にしかアクセスできないとしつつ、物自体の存在を許容している立場のことを弱い相関主義と呼びます。

強い相関主義

カントの弱い相関主義に対して、ハイデガーウィトゲンシュタインが議論を行なった相関主義の立場を強い相関主義と呼びます。ここでは強い相関主義の例として、ウィトゲンシュタインの議論に着目してみることにします。
ウィトゲンシュタインの議論を簡潔に説明してみましょう。彼によれば、人間の思考とは言語によって成り立っています。世の中には日本語や英語など様々な言語がありますが、もしこれらの言語の表現力を全て兼ね備えた「究極の言語」を作り、その上でなおこの言語をもってしても「語りえないこと」があるのであれば、それは考えても無意味だ、という訳です。
さて、果たして上記で出てきた「究極の言語」というものなど作ることができるのでしょうか。この問題に対して、ウィトゲンシュタインは数理論理学の考え方を用いて実際に作り上げてしまう訳です。そしてこの言語について思考を巡らせた結果、ウィトゲンシュタインは言語を持ってしても「語りえないこと」を発見します。そこには価値、幸福、死といった、従来の哲学で重要視されていたテーマも含まれていました。ウィトゲンシュタインはこれらのテーマを「語っても意味のない物」と一瞥したのです。(この議論の詳細について知りたい方は、ぜひ参考文献を読んでみてください。)
ウィトゲンシュタインの議論を先ほどまでの相関主義的な言い方で記載すると、人間は「存在」と「認識」の相関関係にしかアクセスできず、物自体の存在などは「語りえない」とするわけです。これは、物自体の存在を許容しているカントの議論よりも相関主義の考え方を推し進めていることが分かります。この意味でウィトゲンシュタインの議論のような例を「強い相関主義」と呼ぶのです。

相関主義の問題点

この相関主義(特に強い相関主義)という考え方は非常に良くできており、「存在」というものを考える上で中心となっていた考え方でした。そのような中、この相関主義に対して「問題がある」と指摘した人こそが、メイヤスーという人物でした。
それでは、相関主義の問題とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。メイヤスーは問題点として以下の二点を上げています。

  • 祖先以前性

  • 信仰主義

この二つの問題点について以下でそれぞれ詳しく見ていきたいと思います。

祖先以前性

メイヤスーにより提起された、相関主義に対する一つ目の問題点が祖先以前性という考え方です。どのような考え方かと言うと、「人間が存在しなかった過去(=祖先以前)について語ることが、相関主義の立場だとできない」というものです。
確かに、相関主義、特に強い相関主義では、「人間の認識できないものについては語りえない」としてきました。と言うことは人間という生物が存在する以前の世界については、そもそも認識する主体となる人間そのものがいなかった訳ですから、語ることができないことになってしまいます。
一方で、化石の放射線同位体による解析などから、科学的立場になって考えると「人間が存在する前も確かに世界は存在していた」となります。相関主義の立場から言えば、このような祖先以前の世界の存在を「語りえぬもの」として一瞥するわけですが、これは人間が存在する前の「世界の存在」というものについて追求する可能性を失っているのではないでしょうか?
メイヤスーはこのようなことを問いかけている訳です。

信仰主義

相関主義に対する二つ目の問題点が信仰主義と呼ばれる考え方です。これは「理性を突き詰めてた結果、超越的なもの(例えば神など)にアクセスするには非理性に頼るしか無くなってしまった」という問題点です。これは一体どう言うことでしょうか?
神という存在は、人間が認識できないものです。相関主義はこうした認識できないものを「語りえないもの」として議論の対象外としてきたのでした。つまり、哲学は理性というものを突き詰めて相関主義という考え方を生み出した結果、人間の認識外に存在する超越的なものについては存在するとも存在しないとも言えない(というより議論する意味がない)という結論を導き出すわけです。これは理性の限界でもあります。
一方、人間というものは超越的なものに憧れるものです。(例えば中世における神もそうですし、現代に即して言えば「なろう系小説」が流行したのも、ある意味で超越的なものに対する憧れがあるのだと勝手に思っています。) そうした超越的なものの存在を認めたいとした場合、理性に頼ることができないため、必然的に非理性的なものに頼らざるを得なくなってしまうわけです。
哲学というものは理性という、論理的な推論から発達してきました。一方で超越的なものに憧れる人間にとって、相関主義を突き詰めるということは、理性の限界を示してしまい、信仰などの非理性的なものへ誘導してしまう、というのが信仰主義の考え方です。

思弁的実在論の概要

相関主義的な考え方には「祖先以前性」と「信仰主義」という二つの問題が生じたのでした。メイヤスーはこれらの問題をどのように解決したのでしょうか。その答えのカギは、「理性の限界」ということ自体が「理性による帰結」であると捉えることにありました。

偶然性の必然性

上記で見てきたように、相関主義は「人間の認識の範囲外は語りえない」と考える立場です。思弁的実在論では、この相関主義と同じ意味のことを、次のように違う言葉で表現します。「人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)。」 このことは「偶然性の必然性」と呼ばれます。
思弁的実在論におけるこの言い換えは、相関主義の主張とどのように異なるのでしょうか。先述した通り、思弁的実在論も相関主義も「人間の認識の範囲外」のことに言及しています。ただし、相関主義では認識の範囲外のことを「語りえない」という表現を用いて「理性の限界範囲」を表現している、という意味でネガティブに捉えていますが、一方で思弁的実在論では、理性により相関主義を突き詰めた結果、「偶然性の必然性」という絶対的な法則を得ることができた、という意味で認識の範囲外のことをポジティブに捉えている、ということができると思っています。

この偶然性の必然性という言葉を、もう少し詳しく見てみましょう。まずは偶然性という言葉について考えてみます。この時に使われる「偶然」という言葉は、例えば「サイコロを振って1〜6のどの目がでるか」といったレベルの偶然性では最早ありません。メイヤスーが言うところの偶然性は、例えば「手に持った石を離した次の瞬間に自然法則が書き変わり、石が明後日の方向へ飛んでいった」だとか、「今は神は世界に存在しないが、やがて将来、神が出現して報われなかった魂を救済してくれる」だとか、もはやなんでもありの偶然性です。ゆえにこの偶然性はハイパーカオスとも呼ばれます。

必然性という言葉にも注目してみましょう。この言葉は「人間の存在の有無に関わらず、必ず法則として成り立つ」ということを表していますが、この言葉は明らかに相関主義の枠組みを超えています。なぜなら、相関主義においては、どのような法則であったとしても「存在」と「認識」の相関関係にしかアクセスできない以上、人間がいなければ法則自体も考えることができなくなってしまうからです。人間が存在しなくても法則が存在する、という考え方は、まさに冒頭で記載した、実在論における考え方でしょう。

私たちは哲学という学問において、理性を突き詰めて相関主義をさらに煮詰めた結果、「偶然性の必然性」という法則を得ることができました。言い換えると「思弁」を追求することにより、「実在論」的な法則を得ることができたのです。ここまで来ると、なぜメイヤスーの議論が「思弁的実在論」と呼ばれるかが分かったかと思います。

偶然性の必然性から分かること

思弁的実在論の立場に立つと、理性を追求した結果として「偶然性の必然性」という法則が得られることは分かったかと思います。次に私たちが疑問に思うことは、「一体、それが分かったからといって、なにか嬉しいことはあるのか」ということではないでしょうか。
メイヤスーは偶然性の必然性を発見した後、この法則を「疑いようがない、絶対的に信じられる基盤」とし、この法則から様々な法則を演繹的に導き出していくことで、人間の認識の範囲外で語れる領域を広げていこうとしました。この方針は、近代哲学の祖、デカルトが「我思う、故に我あり」という命題(=コギト命題)を絶対に疑えないものとして全ての議論の基礎に置き、そこから様々な法則を導いていったことと全く同じことを行っています。言うなれば、数学において「定義」を絶対的なものとして置いて、そこから様々な「定理」を導いていく、という考え方を、哲学において適用させた、と言ってよいでしょう。

偶然性の必然性というのは、ハイパーカオスと呼ばれるほどの、一見無秩序に見える法則です。しかしながら、この法則とよく向き合うことでメイヤスーは以下のような定理を導けることを証明しました。

  • 必然的存在者は不可能である

  • 存在者の偶然性は必然的である

  • 矛盾した存在者は絶対に不可能であること(無矛盾律)

  • 即自的なものの領域の必然性

この記事では、それぞれの定理についての詳しい意味や、具体的な証明方法については触れません。ただ押さえておきたいのは、偶然性の必然性という一つの命題から、人間の認識外においても成立する様々な定理を証明することができる、ということです。

思弁的実在論が扱うテーマ

メイヤスーは「有限性の後に」において、上述のように偶然性の必然性を用いて様々な定理を証明した後、以下の2点のテーマについて、思弁的実在論の立場から議論を行っています。

  • 哲学における数理自然科学の客観性の基礎づけ

  • 救われなかった魂の救済

前者のテーマについては、哲学と数理自然科学の関係を根底から問い直し、数学の客観性を哲学的にどのように基礎づけるか、という内容について取り扱います。それに比べて、後者の「救われなかった魂の救済」というテーマは、一体どのような内容を指すのでしょうか。
本記事の残りのパートでは、この部分に注目して解説を行いたいと思います。

救われなかった魂

今まで思弁的実在論の提案者として紹介してきたメイヤスーですが、実は彼の哲学におけるの関心の一つは神学的・宗教的なところにありました。メイヤスーは今までの議論を用い、哲学を用いた「救われなかった魂の救済」というテーマに取り組みます。
ここで、救われなかった魂とは何を意味するのでしょうか。通常、ある人が死んだとき、その人と生前親しかった人たちは悲しみに暮れることとなります。しかし、この悲しみは永遠に続くものではなく、葬儀等の儀式を通じ、死者との決別を行うことで、悲しみを乗り越えていくことでしょう。この過程を通じて、死者の魂は残された人にとって成仏し、救われたこととなります。
ところが、この世には成仏することができなかった魂も考えられます。それは「悲惨な死を遂げた死者の魂」です。悲惨な死とは、早すぎる死、凄惨な死など、自然死や事故・殺人による死を問わず存在しています。このような死を迎えた際に、残された人は葬儀等の儀式を通じても永遠に死者と決別することができず、魂は現世を彷徨い続けてしまう、このような状況に対して、「救われなかった魂」という言葉が使われます。
このような魂を救うべく、メイヤスーは思弁的実在論を用いることで、「救われなかった魂を救う神の出現の可能性」について論じるのです。

理性に基づく神の出現の可能性

救われなかった魂を救うことのできる「神」の出現についての予言を、私たちは哲学の範疇で扱うことができるのでしょうか。従来の哲学で中心的な考えであった相関主義では、神の出現といった話は人間の認識の範疇を超えているため、「哲学で扱う議論の範疇外」とするのでした。その結果、神について語るためには、信仰といった非理性的なものに頼る以外に方法がなかったのです。
しかし、今までの議論で私たちは「思弁的実在論」という考え方を見てきました。この考えによれば、理性を突き詰めていった結果、「偶然性の必然性」という法則が導かれたのでした。偶然性の必然性に従えば、「今は神はいない(=魂は救済されない)が、やがて神が現れる(=魂が救済される)」という可能性は否定できない、という結論が得られるわけです。
ここで、「信仰による神」も、「思弁的実在論により予言される神」も、どちらも救われない魂を救済できる存在であることに変わりはありません。問題となるのは神の出自です。「信仰による神」は、理性の限界から生じた、非理性的な信仰により生じる神であり、哲学の範疇で論じることはできませんでした。一方で「思弁的実在論により予言される神」は、理性を追求した結果として予言された神であることから、哲学の範疇で論じることが可能です。
こうして相関主義では扱えなかった「理性の追求による救われなかった魂の救済の可能性」が、思弁的実在論では論じることができるようになるのです。

おわりに

本記事では、現代の哲学で流行した「思弁的実在論」について、事前知識がない方でも分かるように、その成立の背景や議論の概要について紹介を行いました。
記事を書いた自分自身、特に哲学を専門で勉強したというわけではなく(大学での専攻は物理学でした) また様々な文献を読んだ中で自分なりまとめている部分も多々あるため、もしも内容でわからない点や解釈が間違っている点などあれば、気軽にご連絡いただけるとありがたいです。
ちなみに、普段は Spoon という配信アプリで、哲学や現代アート、数学など幅広い分野について勉強した内容を簡単にまとめて配信を行っています。この記事を読んで面白いと思ってくださった皆様、よければぜひ配信にも遊びに来てください。

参考文献

  • 新しい哲学の教科書 現代実在論入門(講談社選書メチエ)
    今回の記事のネタ本です。本記事はこの本の第一章を要約し、自分なりに解説を補足した内容となっています。記事の中で省略していた種々の議論について詳しく知りたい方にとって、まずは手にとって読みやすい本になると思います。

  • カント入門(ちくま新書)
    相関主義の創始者、カントについて、彼の思想について初心者が学ぶのにうってつけの本です。相関主義の考え方を用いたアンチノミーの解決方法や、弱い相関主義を中心とした道徳法則に関する説明などについて、分かりやすく記載されています。

  • 初めてのウィトゲンシュタイン  NHKブックス
    強い相関主義の発展に貢献した哲学者の一人である、ウィトゲンシュタインの議論について学ぶ際の入門書です。本記事でも紹介した「認識できないものは語りえない」という発想を中心とした「論理哲学論考」についての解説に加えて、言語ゲーム等などでも知られている後期ウィトゲンシュタインの議論についても詳しく記載されています。

  • これからの美術がわかるキーワード100(BT BOOKS)
    メイヤスーによる思弁的実在論の議論が簡潔にまとめてあることに加え、後述する「名もなき物質たちをめぐる思弁」展についても少しだけ触れられています。

  • ポスト・ドゥルーズの実在論をさぐる - 中央大学 (Link)
    メイヤスーの議論を含めた、思弁的実在論の概要について簡単に説明がされています。

  • メイヤスーと思弁的実在論 (Link)
    メイヤスーの哲学における主題が神学的・宗教的なところにあることを確認するために用いた文献です。

  • “Speculations on Anonymous Materials” at Fridericianum, Kassel (Link)
    「Speculations on Anonymous Materials」とは、2013年にドイツのフリデリチアヌム美術館で開催された「名もなき物質たちをめぐる思弁」展という展示会のことです。この展示会は、公的な機関が組織した初の思弁的実在論をめぐる展覧会として話題を呼びました。
    本記事のヘッダー画像として、この記事に紹介されている Timur Si-Qin という現代アート作家の「Axe Effect」という作品を用いたので、参考文献に載せています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?