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ジョン・ケージ論(7)

音楽作品を規定するもの

(前)

 音楽においては、和声によって境界(3)が形成されていた。不協和音や属七和音といった和声上の緊張は、主和音への到達に向けて準備され、解決される*1 。

不協和音–解決という組合わせは […] 深さを構成する。 […] / […] もし主和音によってある不協和音が解決されるとすれば、それは不協和音や属和音が聞かれているときに、すでに耳–記憶が、音の空間を横切って辿られるべき道を先んじており、目標に到達してしまっている、ということなのだ。《深さ–奥行》は、同時にここに、そして彼方にいるということを仮定している。つまり、不協和音のなかにすでに、耳は彼方の完全和音を聴いているのである。そして、耳がすでに彼方にいることができるのだとすれば、それは、耳がそこへ行く道(終止形)を知っているからである。時間が、このようにして、《支配》されるのだ。

Lyotard, 小林訳,1976, pp. 35-36.


 和声進行によって時間に奥行きが発生する。音楽における和声法は、絵画における遠近法のように機能する。そしてシェーンベルクが十二音技法を用いて作曲をはじめたとき、この時間の支配が、境界(3)が解体されたのである*2。しかしリオタールはそれに加えて境界(1)の解体に言及する。

ケージが、沈黙というものはない、と言うとき、彼はいかなる「他者」も音に対する支配権を保持しておらず、統一化や作曲–構成の原理としての「神」も「シニフィアン」もないということを語っているのだ。濾過もなく、規則的な余白も、排除もない。そしてそれ故に、もはや作品というものもなく、音楽性をある区域として定立しているような囲い(1)もない。われわれはいついかなるときにも、音楽をつくりだしている。

ibid., p. 50.


 ケージの言う「沈黙」――音楽の機構から逸脱したものとされてきた日常音――には作者が存在しない。リオタールはそのことを「いかなる「他者」も […] 「神」も「シニフィアン」もない」*3と表現している。それゆえリオタールは、音に対する作者による操作がなく「沈黙」を提示するにとどまるケージの音楽を作品と見做さない。

 シェーファーもまた彼のサウンドスケープ論において、「世界をマクロコスモス的な音楽作品として扱って」*4いる。その論拠としてシェーファーはケージを挙げ、ケージが「音楽を単に音として定義」*5したと述べている。シェーファーがサウンドスケープという語で意味しているのは、あるひとつの音響的フィールドである。あるひとつの古典的な音楽作品やラジオの番組、特定の音環境といったものがサウンドスケープとして考えられている*6。

 音楽の定義は二十世紀を通じて、音楽家自身のさまざまな活動によって打ち破られてきた。それらの活動とは、打楽器使用の拡大や偶然性の手法の導入、そしてミュジーク・コンクレートと電子音楽の実践である。それらによって音楽で用いられる音素材の可能性は極限まで拡大し、楽音と噪音、そして環境音の間の差異がなくなっていった。これらの活動に加えてシェーファーはさらに、「われわれが作品とかコンサートホールとか呼んでいる音楽の時空間上の容器を開き、その外側の新しい音の世界全体を取り入れるようにしたこと」*7を挙げ、その実例としてケージの『4分33秒』に言及している。

たとえば、ケージの《4分33秒――沈黙》においてわれわれは作品そのものにとっては外側にあるさまざまな音だけをきくのであり、作品自体は単にひとつの休止が引きのばされているにすぎないのである。

Raymond Murray Schafer, "The Tuning of the World," 1977, 鳥越けい子ほか訳、『世界の調律 サウンドスケープとはなにか』、平凡社、1986, p. 24.

それらのことからシェーファーは、今ではすべての音は音楽の領域に属するものであると述べている。「音を出すすべての人、すべてのものが音楽家なのだ!」*8

 シェーファーのサウンドスケープ研究は、「音楽をわれわれの周囲の世界におけるさまざまな音の影響の調和を追及していく行為として再確認すること」*9である。それはピュタゴラスやボエティウスに見られるような宇宙の音楽〔musica mundana〕の思想につながるものである。星々の音楽は、人の生まれる前にも死んだあとにも鳴り続け、変化も衰えも示さないため、「われわれにはおそらく沈黙としてしか知覚されないであろう」*10。


 そしてこの沈黙を聴くことが、彼のサウンドスケープ論において目指されているものなのである。「宇宙に向けて、無限の世界に向けて意識を拡大していくことができれば、われわれは沈黙を聴くことができる」*11。それは単なる音の不在ではなく、より積極的な意味で理解された沈黙である。西洋社会では沈黙は否定的なものであり、その否定的な性格によって藝術音楽の作品を容れる器となった*12。しかしより積極的な沈黙は道教や、西洋においてもマイスター・エックハルトが活動した十三世紀末のキリスト教神秘主義思想に見られるものであり、それは精神集中や瞑想の技術とともに十四世紀以降の西洋では失われてしまったという。そしてシェーファーは瞑想を復活させることで積極的な沈黙を回復し、沈黙をそれなしにはなにごともなされない偉大な背景として認識できるようになると考えている*13。


 ケージは音素材の構成を放棄して、偶然に発生する音現象を聴取する機会を提供するために4分33秒という恣意的な時間量を設定している。美的鑑賞に向けられた一個の人工品である藝術作品は時間的あるいは空間的な限界をもたざるを得ない。この限界こそが『4分33秒』と単なる4分33秒間の沈黙――すなわち世界の内部で起こる意図されない音――とを分けるものである。『4分33秒』の演奏がある時点ではじまりある時点で終わることによって、その内部で起こった音現象はその外部の音に対して特権化されることになる。そしてこの特権化こそ藝術と藝術ならざるものを区別する境界であり、リオタールの言う限界(1)である。藝術作品は限界(1)の内部でしか存在し得ず、ケージは限界(1)を解体していない。『4分33秒』が一個の作品であり、演奏のたびにそれぞれの演奏会場で起こるまったく異なった音現象が同じ『4分33秒』という作品内部のものであるという事実は、境界(1)の設定なくしてはありえない。境界(1)なき『4分33秒』は、日常の音現象に――「それなしには自分たちの行為が意味を為したり存在することさえできないような偉大ですばらしい背景」*14に――埋没してしまい、作品として存在することができない。単なる日常の時間経過の内部で発生するすべての音現象を音楽作品として認めるといったことはナンセンスである。作品として定立するためには時間的–空間的限界と提示されるべき場が設定されていなければならない。境界(1)、すなわちある制度化された場がなければ作品は存在しえない。このことについて近藤譲と庄野進は、枠という概念を用いて考察している。

 ケージが作品という枠の内部で発生する音響・音現象を指定しなくなったことで、「枠を設定することそのものが、彼の作曲」となり、「その枠の中でどのような音響が生じたとしても、それが彼の設定した枠の中で生じたものであるが故に、すべてが許容される」*15のである。ここでは、演奏が行なわれる場という空間的な枠*16と、演奏の開始から終了までという時間的な枠とがともに設定される。「(ある作品の枠は)どこからどこまでの空間で、いつからいつまでの間、という枠――時空間の器なのである」*17。


 ケージの言う「沈黙」とは、楽器や声を用いた音である楽音に対立するものであり、音の不在ではなく「意図されない音」である。「実際、沈黙をつくろうとしても、つくることなどできないのだ」*18。『4分33秒』が提供する枠――全体が4分33秒の時間的な長さをもち、その全体は不確定な比率で三つに分割されている――の内部は「沈黙」によって満たされる。この「沈黙」は、もちろん、我々の周囲に存する日常の音現象・環境音と同一である。『4分33秒』が作品内部の音として取り込む環境音は、もともと作品外の音であったのであるから、『4分33秒』が作品として提示されるためには、時間的–空間的な枠が設けられていなければならない。「ひとつの曲として閉じた独立の存在をもつ音楽をつくるためには、ケージは、「沈黙」を――或るいは、世界を――、区切り、切り取って、その曲のための器を用意しなければならない」*19。

 庄野は音楽を、音を秩序の中に置くことでつくられるものとしているが*20、『4分33秒』における「沈黙」すなわち日常の音現象・環境音は、どのように秩序と結びつけられるのであろうか。

 古典派の音楽の特徴とされる均衡の取れた形式は、「作品という閉じられた全体に対する諸々の部分の関係、部分相互の関係、全体を統一する首尾一貫性」*21として考えられる。それゆえ古典派の音楽における秩序とは、作品という統一体を前提している。作品内部の音ひとつひとつは、フレーズや楽節、楽章といったさまざまな層を介して作品という統一体に結びつけられる。このことは音列主義に代表される二十世紀の前衛音楽においても同様である。作品という統一体へ個々の音を結びつける方法が、調性システムによるものであるか、音列技法によるものであるかという違いによって、その秩序を聴覚的に知覚する際の困難さの程度が異なっているに過ぎない。調性システムという古典派の音楽で用いられる秩序は、個別の作品とは独立した一般的なものである。一方で音列主義の技法を用いて作曲された音楽のもつ秩序は、多くの場合、その作品に固有の特殊な秩序であって、ある作品における個々の音同士の関係は無秩序なものに聴こえることが多い。その場合でも作品内部の個々の音は、ある秩序によって作品という統一体へと結びつけられている。


 ケージが用いた偶然性の手法は、あらかじめ設定された時間量の中へ偶然に選択された音を置き入れていくというものであった。『易の音楽』における音は、音価、音高、音量などのさまざまな側面において確定したものであるが、ある秩序に基づいて作品という統一体へと結びつけられているわけではない。古典派の音楽に見られるような作品内の個々の音と作品全体との有機的な統一をもたないケージの音楽は無秩序であるように思われるが、ケージは彼の作品において作品内の音と作品全体との関係を変えているのである。庄野はそれを「枠」と呼んでいる。「ケージの音楽は様々な「枠」を含んでいる。彼が行なっているのは、枠を通して世界を覗くこと、世界に対して様々な枠づけをすること、様々な枠の中に種々のものごとをとり集めてくること、別の枠に移し替えること等である」*22。『4分33秒』においては第一に演奏会場という空間的な枠が、第二には4分33秒という時間量が三つの部分に分割されているという時間的な枠がある。このふたつの枠の内部で作品に組み込まれる音は、意図されない音としての「沈黙」であるが、この「沈黙」もひとつの枠として作品内の音現象を規定する。この音現象は統一体としての作品に結び付けられた要素ではなく、これらの枠の中に出来する出来事なのである。「作曲家の意図しない音は、沈黙という枠の中に偶々現われる、出来事なのである」*23。

 1960年代のケージの作品においては、不確定な要素が増大し、作品全体の時間量さえ確定されなくなる。『ヴァリエーションズ第4番』は作品の時間量が確定しておらず、演奏空間も劇場にとどまらずアパートやビルの中、洞窟、外部の空間などさまざまな場所で演奏されうる。だからといってこの作品が時間的–空間的な限界をもたないということにはならない。ケージ自身が設定した枠は存在しないが、「演奏会のプログラム自体が、その都度枠となる」*24。

 古典的な音楽作品に典型的に見られる作品の全体性はその内部と構造的な関係をもつが、枠はその内部で生起する出来事と構造的な関係をもっていない。作品という統一体を構成するひとつひとつの部分は、作品という形式をなす素材であって、つねに形式的規定を蒙る。ケージの作品ではこの形式的規定が排除されていると庄野は考えている*25。ケージは、音をあるがままにしておくということを主張しているが*26、その音も必ず枠の内部で現われることになる。作品としての時間的–空間的な限界が枠として与えられ、その内部で生起する出来事としての音は自然の秩序(人間が出したのではない環境音の出来事)や社会の秩序(人間の日常生活に属するさまざまな営為に伴う音の出来事)に属するものである。ケージの音楽には、「様々な全体という秩序の切口と、枠の秩序=作品的無秩序がある。それはむしろ半秩序と呼ぶべきものである」*27。


 音楽作品は、その内部で用いられる素材や、作品そのものの構造がいかなるものであるかに関わらず、音楽作品として聴かれる。「開かれた作品」や偶然性を用いて作曲された作品も、それが演奏会という境界のなかで提示されると、聴き手はその音響体験を枠づけ、それを音楽作品として扱うことになる。作曲家が規定する音楽作品の構造や、そこで用いられている素材の峻別――楽音という機構――といった恣意性を離れて作曲しようというケージの姿勢は超越主義的なものであった。そのような姿勢から作曲される作品は、提示される音をただ聴くという聴取のあり方を要請し、そこでは作品は因果関係も目的ももたない。「意図されない音」としての沈黙が生起するための枠が設けられ、その内部に出来する素材は、聴衆の身体において自由にグルーピングされ関連づけられて聴取されることになる。「人は、音楽として提示された音の布置を前にするとき、その中に […] 音のグルーピングを聴き出す。それが、音楽に於ける、組織構造の聴覚的認知の過程である」*28。作曲され演奏される際に設けられる枠と、聴取による音のグルーピングが、演奏会という制度化された場において音を音楽作品として構造化するのである。その限りにおいて『4分33秒』は音楽作品であり、また単なる日常音は音楽作品として構造化されていないことは明らかである。日常音や環境音を素材として音楽作品を構造化するためには制度化された場が必要であり、リオタールの言う「もはや作品というものもなく、音楽性をある区域として定立しているような囲い(1)もない」*29というポストモダン藝術の理念はしかし、ポストモダンの藝術においても妥当しない。作曲者は音響体験を切り取る枠づけをすることで、また聴衆は音響体験の聴取に際して音のグルーピングというかたちで「音に対する支配権」*30をもち、音響的な体験を音楽作品として構成するのである。

(了)


*1 Lyotard, 小林訳、ibid., 1976, p. 34.

*2 十九世紀末から二十世紀初頭にかけての西洋音楽は、音列技法によって伝統的な和声による特権的な楽音の操作から脱した。とはいえ十二音技法も、またその展開としてのトータル・セリエリスムも新たな合理性を創出するのみで、楽音の体系にとどまっていたのはそれ以前の音楽と変わらない。そのため十九世紀以前の音楽から考えれば解体されたと見えた境界(3)も、すぐに音列体系とその操作者による特権的な支配に回収される(境界(3)が再建される)。日常音を素材に用いるミュジーク・コンクレートと、素材の可能性を極限まで拡大した電子音楽、さらには偶然性・不確定性の音楽の登場を俟って漸く境界(3)は解体されたと言える。

*3 id.

*4 Raymond Murray Schafer, "The Tuning of the World," 1977, 鳥越けい子ほか訳、『世界の調律 サウンドスケープとはなにか』、平凡社、1986、p. 23.

*5 id., p. 24.

*6 id., p. 27.

*7 id., p. 24.

*8 id.

*9 id., p. 26.

*10 id., p. 373.

*11 id., p. 374.

*12 id., pp. 365-366.

*13 id., p. 369.

*14 id.

*15 近藤譲、「器としての世界――ケージの音楽に於ける時空間の様態」、『現代詩手帖』第28巻第5号所収、1985年4月臨時増刊、思潮社、p. 66.

*16 演奏が行なわれる場は、必ずしもコンサートホールとは限らない。『ヴァリエーションズ第4番』(1963)やヒラーとの合作『HPSCHD』(1967-69)は、舞台上に留まらず客席やアパートの一室、戸外まで、どのような空間でも演奏されうる。

*17 近藤, ibid.

*18 Cage, 'Experimental Music,' in "Silence," p. 8, 柿沼訳、「実験音楽」、『サイレンス』所収、p. 25.

*19 近藤, ibid., p. 68.

*20 庄野進、「秩序・無秩序・半秩序――枠と出来事」、前掲『現代詩手帖』第28巻第5号所収、pp. 70-78.

*21 id., p. 71.

*22 id., p. 73.

*23 id., p. 74.

*24 id., p. 75.

*25 id., p. 76.

*26 Cage, op. cit., p. 10, 柿沼訳、p. 28.

*27 庄野, id.

*28 近藤譲、『音を投げる 作曲思想の射程』、春秋社、2006、p. 66.

*29 Lyotard, 小林訳, ibid., 1976, p. 50.

*30 id.

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