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ジョン・ケージの音楽活動

前回の記事ではジョン・ケージの作曲技法史に触れなかったので、重複する内容もあるがケージの活動を年代ごとに追ったものを載せておく。


 ジョン・ケージ(John Cage, 1912-1992)はアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の作曲家である。

 ケージの活動は、一般的な意見に従えば、音楽への偶然性の導入において、またそれ以上に伝統への反抗において彼が急進的な役割を果たしたという点で革命的なものであったと評価されている。噪音と楽音の区別を廃して音素材を拡大し、また沈黙を「発見」し音楽に導入した作曲家という認識が平均的なジョン・ケージ像であろう。

 しかしそのような活動の背景にあったケージの理念や目標とはいかなるものであったのか。ケージの作品には偶然性や噪音を用いたもののみならず、むしろ伝統的な記譜法に則って書かれたものも多い。一見したところ相反するこの作曲家の活動にはどのような理念があったのであろうか。

 ポール・グリフィスによれば、ケージの活動は「藝術的自己放棄」の過程である*1。活動の最初期からケージは創作行為を個人的な嗜好から切り離そうとする態度を取っていたが、そのような姿勢は弁別的な作曲様式の不在という状況を生み出した。ある特定の作曲法によって作品と作曲家とが互いに規定される事態を防ぐために、自ら創り上げた作曲法が完成し、あるいは別の作曲法の基盤として成立すると、すぐに新たな作曲法に乗り換えるということを繰り返してきたのである。

*1 Paul Griffiths, 堀内宏公訳、『ジョン・ケージの音楽』、青土社、2003、p. 13.

 ケージ自身の音楽に対する態度の変遷を浮かび上がらせるため、本稿ではケージの作曲活動を活動時期ごとに見ていくことにする。なお活動時期の分類はラリー・ソロモン(Larry Solomon, "John Cage Chronological Catalog of Music," 1998, 2002)による。


1.修行時代(1932-1938)


1-1.二十五音技法


 ケージの初期作品においては、創作行為を個人的な嗜好から切り離すために、厳密な作曲プロセスが利用されている。ケージは1933年からヘンリー・カウエル(Henry Cowell, 1897-1965)とアドルフ・ワイス(Adolph Weiss, 1891-1971)に師事しているが、当時彼が考案したのは二十五音技法と呼ばれるものであった。この技法においては、各声部を構成する音列は連続する二オクターヴ、二十五半音の範囲に限られており、二十五音すべてがあらかじめ決められた順序で出現しきるまで、同一声部内でも、各声部間でも、同じ音が繰り返されることはない――『三声のためのコンポジション』(Composition for 3 Voices, 1934)では三つの声部に共通する十三音が、可能な限り遠くに配置されている。これは楽曲内で用いられる音の選び方に、作曲者の嗜好や恣意性が介入するのを防ぐためである。また音の選び方のみならず表現上も、作曲者による規定が最小限となるよう注意が払われており、この時期の作品――『二声のためのソナタ』(Sonata for Two Voices, 1933)や『二声カノンのオブリガート伴奏つき独奏曲と独奏主題による六つの小インヴェンション』(Six Short Inventions, 1933-34)など――には奏法の指示や強弱記号、表情記号が一切記されていない。そのためこれらの楽曲は無機質な構築物という印象が強い。リズム面でも制約が設けられており、『三声のためのコンポジション』では三つの楽句が、移調や音価の拡大と縮小によって変形されて繰り返し用いられるのみである。
 ケージはこれらの操作――音列による音の自動的な選択、表情の排除、リズム上の制約――によって、作曲者の嗜好や恣意性といった主観から切り離された、客観的な作曲を志向したのである。

1-2.リズムへの専念と音程組織


 ケージは1937年までアーノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951)に師事していたが、そのときシェーンベルクに「君に和声の感覚が欠如していることは障碍になるだろう」と言われたことで、ケージは和声の問題から離れリズムの問題に専念するようになる。

自分の人生を音楽に捧げるかどうかとシェーンベルクに聞かれたとき、私は「もちろんです」と答えた。二年間シェーンベルクに学んだあとで、彼はこう言った。「音楽を書くためには、和声の感覚を持たなくてはなりません」。私は、自分には和声の感覚がないことをシェーンベルクに告げた。すると彼は、私にはいつも障害が待ち受けることになるだろうし、それはちょうど通り抜けることのできない壁に突きあたるようなものだ、と言った。そこで私はこう言った。「それなら、その壁に頭を打ちつけることに、私は一生を捧げます」。

John Cage, "Silence," 柿沼敏江訳、『サイレンス』所収、水声社、1996、pp. 408-409.


 既に『ピアノのための二つの小品』(Two Pieces for Piano, 1935)において、音列技法は楽曲の副次的な構成手段になっている。ここで楽曲を構成するために用いられたのはユニット、あるいは「音のレパートリー」と呼ばれるもので、これはあらかじめ選択された音の集合体のことである。ユニット内の音は音程も周期も固定されており、移調もリズム上の拡大、縮小も適用されず楽曲内に現れる。音列はただユニット内部の音を選択する際に用いられるのみである。用いられる音の数が限定されているため、ユニットを用いて構成された楽曲はオスティナート的なものとなる。やがてケージは使用する楽器を打楽器に限定するようになり、和声の問題から完全に離れることになる。

 1935年から1936年にかけて、ケージはオスティナートを多用した打楽器作品を多く書き、音高の問題から離れていたが、1938年ごろになると、ユニットの手法を発展させるかたちで音程組織を用いはじめる。ピアノのための『メタモルフォーシス』(Metamorphosis, 1938)では二音から五音の短い断片的な音列をもとに音程組織を形成し、それは移調されはするがリズムは変形されずに楽曲の構成に用いられる。この音程組織による楽曲は、ユニットという小さな要素による楽曲構成や、打楽器音楽的なリズム動機とオスティナート性など、過去の作品や作曲技法との繋がりが明確であった。

2.ロマン主義の時代(1938-1950)


2-1.リズム構造による作曲


 1937年の講演においてケージは、新たな音素材に対する関心を語り、また電気楽器の使用が音楽の将来にもたらす重要な利益と、音楽と社会の類似を言及している。

私の考えでは、ノイズを使った音楽の制作は、引き続き行われ、増えていくはずだ。そしてついには、聞くことのできるありとあらゆる音を、音楽的な目的のために利用する電気楽器の助けによって、音楽が生み出されるようになるだろう。光電気、フィルム、音楽を合成的に生み出すための機械的な手段が、[…] 探求されることになるだろう。昔は意見の相違が不協和音と協和音の間にあったが、近い将来、それはノイズといわゆる楽音との間に移るだろう。[…]/シェーンベルクの方法では、同質素材にもとづくグループ内の個々の素材に、グループとの関係によって機能を割り当てる。(和声においては、不均質なグループ内の個々の素材に、そのグループ内の基本的な、あるいはもっとも重要な素材との関係で、その機能が割り当てられている。)シェーンベルクの方法は、グループやグループ内での個人の調和が重視される社会に似ている。

Cage, 柿沼訳、前掲書、pp. 17-20.

 『心象風景第1番』(Imaginary Landscape No.1, 1939)は電気楽器を記譜した史上初の作品で、二台の蓄音機と、シンバル、ピアノのための四重奏曲である。蓄音機には一定の周波数が記録されたレコードがかけられ、回転速度を変化させることでグリッサンドを得ることができる。ピアノも鍵盤で弾かれるのはミュートされた三音のみで、あとは鋼鉄の弦を撥で叩いたり手で擦ったりするよう指示されており、徹底して打楽器としての役割が与えられている(師であるヘンリー・カウエルが「ストリング・ピアノ」と呼んだ、内部奏法を用いたピアノの使用法に倣ったものである)。ここではあらかじめ定められた時間の枠の中に、ひとつひとつの音響が嵌め込まれている。楽曲全体は5×3――5小節の小部分が三つ連なる――のセクションから形成され、四つのセクションが間奏を挟んで並んでいる。間奏の長さは初め1小節であるところから1小節ずつ増え、第四セクションのあとの結尾部は4小節からなっている。『心象風景第1番』は後に「リズム構造」と呼ばれるこのアイディアが、初めて現れた作品である。

 同年に書かれた打楽器六重奏のための『ファースト・コンストラクション(イン・メタル)』(First Construction (in Metal), 1939)では、リズム構造はより徹底して用いられている。作品全体は十六のセクションに4:3:2:3:4の比率で分割されている。ひとつのセクションは16小節からなり、それもまた4:3:2:3:4の比率で分解される。このように、最小のユニットと楽曲全体が構造的に対応しているのである。用いられる音素材も十六種類であり、形式の構成と同じ比率で音色が展開される。リズム構造による作曲は、ユニットによるものと同じく、短く基礎的な音の連なりから全体を構成するものであるが、この手法によってより徹底的で複雑な構造を得ることができるようになったのである。

2-2.プリペアド・ピアノの発明


 『バッカナール』(Bacchanale, 1940)は、初めてケージがプリペアド・ピアノのために書いた曲である。ケージが考案した楽器であるプリペアド・ピアノとは、グランドピアノの弦に木片やゴムなど、あらかじめ指定した異物を挿入することで特殊な音色を準備しておくものであり、それによってピアノ一台で打楽器アンサンブルのような音響を得ることができる。ストリング・ピアノの発展として考案されたプリペアド・ピアノは、打楽器アンサンブルの代替物として発明された。ケージはダンサーのシヴィラ・フォート(Syvilla Fort, 1917-1975)に伴奏曲を書くよう依頼されたが、会場のオーケストラピットが小さく、当時ケージが率いていた打楽器アンサンブルは入ることができなかった。そこでケージはグランドピアノ一台で打楽器アンサンブルの代わりをこなさざるを得なかったのである。

 プリペアド・ピアノを用いた楽曲においては、楽譜上の音と実際の音響がかけ離れたものとなる。また、どの音高の弦に何を挟むかは指示されているが、その異物の微妙な形状や、挿入する位置によって音色が変化するため、使用する音色の質を作曲者が規定することができないという状況も発生する。そのためこれらの楽曲にあっては、楽譜というものがもつ意味が変化した。もはや楽譜は正確な再現を要求することはできず、ただ演奏家の探求――より適切な音色をいかにして得るか――の手がかりとしてのみ機能する。

 1940年代はプリペアド・ピアノのための楽曲が多く書かれた時期であるが、これらの楽曲はほとんどがダンスのための伴奏曲であり、ダンスの構造に完全に従属するかたちで書かれたものばかりである。そのためプリペアド・ピアノ作品でリズム構造の手法が用いられた例は少ない。リズム構造が用いられた作品であっても、構造を無視するようにオスティナート的な音型が、ユニットの枠を跨いで現れるようになる。『ファースト・コンストラクション(イン・メタル)』や『バッカナール』では、あらかじめ決められた時間の枠を音で満たしていたが、1940年代後半になると、リズム構造は埋められるべき時間量を示すにとどまり、楽曲に用いられる音響への強制力が失われていく。その結果として次第に沈黙を多く含む楽曲が書かれるようになるのである。

 この時期には傑作とされる作品が多く書かれている。二台のプリペアド・ピアノのための『三つのダンス』(Three Dances, 1944-45)や、プリペアド・ピアノのための『ソナタとインターリュード』(Sonatas and Interludes, 1946-48)などである。プリペアド・ピアノの発明当初は、プリペアされる音は数が少なく指示も曖昧だったが、この時期の作品になると格段に音数が増え、楽譜のほかにプリペアのための詳細な指示書が書かれるようになった。

 『三つのダンス』では速度の変化を小節数の変化に関連付けた、演奏時間の比例システムを使用している。テンポと小節数を反比例させることで、「第一のダンス」(2分の2拍子、二分音符=88、基本ユニットは30小節)、「第二のダンス」(2分の2拍子、二分音符=114、基本ユニットは39小節)、「第三のダンス」(2分の2拍子、二分音符=168、基本ユニットは57小節)の演奏時間はどれも約41秒となる。また『ファースト・コンストラクション(イン・メタル)』など初期のリズム構造による作品は聴覚上も記譜上もリズム構造が明確であったが、『ソナタとインターリュード』ではリズム構造は鳴りを潜めている。リズム構造という作曲法の発達と、「代表作を書いてしまった」という意識にケージは危機感を覚える。またケージは作曲活動の最初期から、作曲者個人によって作品が規定されることのないように細心の注意を払ってきたが、その一方で、音楽そのものは「なにかを〈伝達〉しなければならない」*2とも考えていた。後述のように『ソナタとインターリュード』では、恒久的感情の表現が試みられている。この時期の作品には詩的な、あるいは表現的なタイトルつけられた作品(『永遠と太陽の匂い』(Forever and Sunsmell, 1942)、『十八の春を迎えた陽気な未亡人』(The Wonderful Widow of Eighteen Springs, 1942)、『夢』(Dream, 1948)など)が数多く存在する。しかしケージの意図が正確に聴衆に伝わることはほとんどなく、そのことでケージは大きな悩みをかかえる。こういったさまざまな葛藤があり、このあとケージは一年間、作曲活動を自粛する。

*2 John Cage & Daniel Charles, "John Cage, Pour les Oiseaux," 1976, ジョン・ケージ、ダニエル・シャルル共著、青山マミ訳、『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』、青土社、1982、p. 17.

3.〈偶然〉と〈不確定性〉の時代(1951-1969)


3-1.東洋思想と神秘主義


 ケージは1940年代後半以降、インドの美学や藝術理論を学び、それを作曲に応用し始めた。この時期を境にケージの東洋思想への傾倒は顕著になる。『ソナタとインターリュード』やバレエ音楽『四季』(The Seasons, 1947)、『4パートのための弦楽四重奏曲』(String Quartet in Four Parts, 1949-50)などは、作曲の手法においても、作曲に対する態度においても、それ以前の作品とは異なったものであることが明らかである。ケージは後年、ダニエル・シャルルとの対談においてインドの美学思想から受けた影響について語っている。そこでは、季節に関するインド的な発想――春は創造、夏は保存、秋は破壊、そして冬は平穏――や、九つの恒久的感情についての思想が、ケージの作曲法に重大な影響を与えたことが窺える。

インドのおかげで、私は季節に関係するいろいろなこと、つまり創造、保存、破壊、平穏について語り表現したわけです。とりわけヒンズーの芸術理論は正しいと確信したのです。私の作品をこの理論に一致させようと思いました。その理論が教えているのは、ラサが起こるためには、つまり美的感動が聴く人の内に起こるためには、作品は、感情の恒久的状態――ブハヴァ――の一つ、つまりあらゆる他の感情が従うべき様態を呼び覚まさなければならない、ということです。[…]〔ヒンズーの理論によれば、無意識の内に起こる八つの感情、[…]また快楽と苦痛から派生する一時的な様態が三十三種類あります。しかしこれらすべては、九つの恒久的な感情のまえではとるに足らない。九つの感情は恒久的なもので、つまり真実のラサへ導くもので、それなしではラサは起こらないんです。〕この九つの感情とは、ヒロイズム、エロティシズム、驚き、落ち着き、悲しみ、憎悪、怒り、恐れ、そして九番目は[…]歓喜the mirthfulです。[…] 落ち着きは四つの〈白い〉様態と四つの〈黒い〉様態のまん中にあり、それらの様態が向かわざるをえない正常な性質のことなのです。ですから他の様態を表そうとせずに、他の様態より前に落ち着きを表すことが重要です。それは最も重要な感情なんです。

ケージ、シャルル共著、青山訳、前掲書、p. 90.

 ケージがインドの美学に触れたきっかけは、アーナンダ・クーマラスワーミー(Ananda Coomaraswamy, 1877-1947)の著作であった。クーマラスワーミーはセイロンに生まれ、西洋にインドの文化や藝術を紹介した美術史家である。ケージはクーマラスワーミーの著書によって、西洋と東洋は根本的に異なるものだという当時の通念に反対するようになった。また、クーマラスワーミーの著書"The Transformation of Nature in Art"(Harvard University Press, 1934)において神秘思想家マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, c.1260-c.1327)が参照され、比較されていることからも、西洋と東洋が本質的に異なるということはないとケージは考えるようになった。ケージは自身の著作で頻繁にエックハルトを引用している。

対位法は有効か? 「魂そのものはひじょうに単純であるため、何についてであれ、いちどにひとつ以上の考えを持つことはできない……一人以上の人に注意を払うことはできない」。(エックハルト)[…]自分自身あるいは他人を模倣するときには、形式ではなく構造(また形式的素材や形式的方法ではなく、構造的素材や構造的方法)を模倣することに留意すべきである。こうして、人は「無垢で自由なまま、目下の一瞬一瞬、あらたに天の賜物を授かる」のである。(エックハルト)

ケージ、柿沼訳、前掲書、p. 116.

 エックハルトは神と人間とにおける愛の理想的関係を、人間の個体性から離れたところに成立するものと考えた。人間は自然なあり方においては自己の存在の根拠を自己自身のうちに求める。そういった自意識のもとに自我が形成されるのであり、それによって人間は根底的に閉塞したものとして存在する。この意識が人間の個体性と呼ばれるものである。しかし根底的に閉塞している自我によっては、すべてを擲ちすべてを与える愛の関係は成立しえない。自己を自己として保つ者は、いかなるものを他へ与えようとも自己のすべてを与えることはない。神と人間の間に真の愛があるためには、我々は個体的なあり方を超えなければならない、とエックハルトは主張する。それは自らの存在を基準に考える、いかなる精神の作用からも離れなければならない。個体性を離れたところにこそ、被造物たる人間の真なるあり方があるのである。人間の精神が自身の根底を開放し自己と世界を超越することを、エックハルトは「離脱」(Abgeschiedenheit)と呼んだ。

 またエックハルトは、神との合一が真の幸福であり、そのためには神を愛するよりも、「離脱」することが重要であると説いている。神への愛は自らを神へ向かわせる作用であるが、「離脱」は神を人間のもとへ向かわせる。

 すべてのものは、その本性に合った場所にあることを求める。神の本性とは単一性であり、離脱した精神は神に単一性を与える。よって神は離脱した精神に自らを与えざるを得ないのである。ここにおいて人間と神との間に結ばれた関係は、純然たる合一である。そのような精神は離脱によって神のみを受け容れることになり、エックハルトはそれを、「精神のうちに神が誕生する」と表現している。

 エックハルトはまた鈴木大拙(1870-1966)によっても、禅仏教と西洋の思想の類似点としてたびたび引用されており、ケージはコロンビア大学で鈴木に学んだ禅の思想をも、作曲に生かそうとした。

芸術家の責任は、作品が魅力的につまらないものになるよう、作品を完成することにある。

ケージ、柿沼訳、同前。

 これらの思想から影響を受けたケージは、記憶や嗜好、また関係性から解き放たれ、「無垢で自由なまま」作曲することを求めるようになった。ケージはこれらの思想を音楽において表現するための手段を模索し、「ギャマット」(Gamut)と呼ばれる技法を創出する。これは、あらかじめ決められた単音や和音の集合体であり、プリペアド・ピアノにおいてあらかじめどの弦をプリペアするか決めておくように、楽曲内で用いられる音素材を決定しておくというものである。ギャマットが初めて用いられたのは『四季』においてであるが、この時点ではギャマットは、まだリズム構造を補佐するかたちで現れるのみである。『4パートのための弦楽四重奏曲』では、各楽器は独立の声部としてではなく、全体で一つの楽器として扱われる。「4パート」というのは四つの楽章のことである。この作品では、ギャマットは狭い音域に集められ、リズムにおいても多様性は縮小されている。

 こうして作曲者との関係性や作曲者の嗜好から解き放たれた作品は、無為であらざるを得ない。無為とは主体と客体という二元的な対立における関係性から離れているということである。『4パートのための弦楽四重奏曲』では同一フレーズを幾度も繰り返し、藝術における無為という姿勢を表現している。

 1946年から1948年にかけて作曲された『ソナタとインターリュード』においては、ギャマット技法は用いられていないが、そこにはすでにインド美学への傾倒が見られる。『ソナタとインターリュード』でケージは、インドの恒久的な感情を表現することを試みている。そういった表現の試みは、『四季』や『4パートのための弦楽四重奏曲』でも引き続き追求されるのであるが、その探求は『プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲』(Concerto for Prepared Piano and Chamber Orchestra, 1950-51)において、さらに押し進められた。この曲では、室内管弦楽は『4パートのための弦楽四重奏曲』のときと同様に、二十二人の独奏者が分担するひとつの大きな楽器として扱われ、ギャマットから選択された音のみを奏でる。独奏のプリペアド・ピアノは、第一楽章では即興的に書かれた音を弾き、第二楽章、第三楽章と進むにしたがって、徐々に室内管弦楽と合一しひとつの楽器として機能するようになるのである。一曲の中で個人的な嗜好の表現から、自然に発生する音響へ移行することについて、後年ケージはこの曲を「当時陥っていた優柔不断の一例」*3と反省している。

*3 ケージ、シャルル共著、前掲書、p. 91.

3-2.偶然性の導入


舞踏家のマース・カニンガム(Merce Cunningham, 1919-2009)との協働の中で作曲された『十六のダンス』(Sixteen Dances, 1951)において、表現性の問題は大きな転換点を迎えることになる。ケージはリズム構造を明確にするため、ギャマットを図表の中に配し、一定の規則にしたがって図表から音を選択する、という手法を発明する。これは作品内に、単音や和音からなるギャマットを客観的に配置するための補助として考案されたものである。これによってケージは「意図しているものを図表に書き写すのではなくて、[…]音全体の動きを直接描くこと」*4ができるようになった。ギャマットと図表を用いることで、音素材は偶然に選択され作品に当てはめられていく。作曲者自身の個人的な嗜好を超えた音楽を書く可能性が見えてきたのである。

*4 ケージ、シャルル共著、同前。

音の動きは私なしでも私がやるのと同じように、ひとりでに決まっていくこともできたんです。私の好みなど二次的な問題に思えました。

ケージ、シャルル共著、同前。

 しかしケージはすぐに、この手法の問題点に気づく。図表へギャマットを配置する仕方や、図表から音素材を選択する方法に、作曲者の恣意性が介入しうるからである。それを解決するためには、音素材の選択に偶然性を導入する必要があった。

 ケージが音素材の選択に偶然性を導入するため使用したのは、儒教の経典である易経であった。易経は陰爻と陽爻をランダムに六つ選ぶことで得られた六十四卦を用いた占術であるが、筮竹を用いずとも六回のコイントスで1から64までの数字が得られる。そうして得られた数を用いて、図表からさまざまな要素――事象の積み重ね(作品内の各部分においていくつの事象が同時に起こるのか)、テンポ、音(単一音か集合音か、楽音かノイズか沈黙か)、持続(音と沈黙の)など――を拾い上げることで、まったく偶然に作品を作ることができるようになる。これをケージはチャンス・オペレーションによる作曲と呼んだ。また、予測不可能な音を発生させる装置としてラジオを使うようになるのもこの時期である。

 初めてラジオが楽器として使用された作品は十二台のラジオのための『心象風景第4番』(Imaginary Landscape No. 4, 1951)である。ここでは選局のための周波数や音量、音を出し続けている時間、複数のラジオが同時に音を出す回数などがすべて易経で決められている。周波数や音量などの演奏に関する諸要素をいかに厳密に決定しても、演奏会場の地域や時間帯によって実際に鳴る音はまったく異なったものになる。

 同じく易経を用いた作品としては、ピアノのための『易の音楽』(Music of Changes, 1951)が書かれている。この作品では譜面上の1小節の長さが十センチメートルに固定されており、音の持続時間と休止は視覚的に表現される。そのためこの作品では4分の4拍子の小節内に四分音符四つより多くの音事象が書き込まれることもあれば、より少ない音事象しか書かれていない場合もある。また、偶然に得られた音をひたすら書き込んでいくため、『易の音楽』には演奏不可能な箇所が散見される。その場合には演奏者が各自の裁量で、いくつかの音を省略するなどの対処を取るように指示されている。この指示によって『易の音楽』は、音やその音量、音の持続時間などが厳密に決められているものの、実際に演奏されるたびに違った音現象が発生することになる。

 作品が書かれる媒体の物理的な長さがそのまま作品内部の時間と一致するというこの手法は、テープ音楽から発想されたものである。同時期にケージが書いたテープ音楽作品としては、『心象風景第5番』(Imaginary Landscape No. 5, 1952)と『ウィリアムズ・ミックス』(Williams Mix, 1952)が挙げられる。これらの作品も『心象風景第4番』と同じく、最終的にどのような音現象が鳴るか予測することが不可能な作品である。ここでは音素材の録音、作成、作品としての編集過程などに関する指示が、楽譜というよりも作業指示書として提示されている。『心象風景第5番』では、演奏者は任意の四十二枚のレコードを用い、『ウィリアムズ・ミックス』においては、曖昧に指示された六種類の音響――都会の音、田舎の音、エレクトロニクスの音、文字通りの「音楽」を含む人工の音、歌を含む風が作る音、多くの人が同時に聴くために増幅する必要がある音――を録音し、加工して用いることになる。

3-3.沈黙へ


 易経を用い、偶然に任せて音素材を選択することで、ケージは作曲者個人の嗜好や恣意性から離れ、開かれた音楽を作ることができるようになったと信じた。

こうして個人の好みや記憶(心理)、また芸術の遺産や「伝統」からその持続が自由であるような音楽作品をつくることが可能となった。音は、それみずからのなかに中心を置き、抽象に奉仕するいかなる作業にも煩わされることのない時空間に参入するのであって、その周囲の状況は三六〇度、相互浸透の無限の戯れのために開かれている。

ケージ、柿沼訳、前掲書、p. 108.

 しかし『易の音楽』について後年、ケージは以下のように語っている。

《易の音楽》では、全体の部分への分割である構造、音から音への手順である方法、表現内容であり、継続の形態である形式、作品の音と沈黙である素材、これらのすべてが確定している。《易の音楽》では二つとして同じ演奏はありえない[…]が、二つの演奏はたがいにひじょうによく似ることになるだろう。チャンス・オペレーションは作曲の確定性をもたらしはしたが、この操作は演奏では使われない。[…]《易の音楽》がチャンス・オペレーションで作曲されたことによって、作曲家は何であれたまたま起こる事態と一体化した。しかしその記譜があらゆる点で確定していたために、演奏家にはそのような一体化が許されない。作品は演奏家の手にわたる前に、きちんと設計されてしまっているのである。したがって演奏家は、みずからを中心において演奏することができず、書かれたままの作品の中心とできるかぎり一体化しなくてはならないのである。《易の音楽》はチャンス・オペレーションが生んだものであるため、人間的というより非人間的な対象物である。

同書、p.  72.

 『易の音楽』は演奏者をコントロールしようとする「フランケンシュタインの怪物」であるし、こうした状況は西洋音楽の特徴である、と指摘し、自ら批判している。また、「音は意図しようとしまいと起こるということに気がつき、意図しない音の方へ向かった場合に」*5のみ、真の沈黙というものは存在せず、沈黙とは意図されない音であると考えるようになる。というのは字義通りの「沈黙」、音の不在としての沈黙はありえないからである。

*5 同書、p. 26.

聴くべき何ものかがいつもある。実際、沈黙をつくろうとしても、つくることなどできないのだ。[…] 私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液が循環している音だ、と教えてくれた。私が死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも音は鳴り続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない。

同前。

 沈黙というかたちで音がすでに存在するならば、それに耳を傾ける状況を提供するだけでそれは音楽となるはずである。そういった意図によって作曲されたのが、演奏者が4分33秒間一切の音を発しない『4分33秒』(4'33", 1952)であった。『4分33秒』の楽譜は二種類あり、ピアニストのデイヴィッド・テューダー(David Tudor, 1926-1996)による初演時に用いられたものは、縦線が数本引かれただけの数枚の紙である。一ページの横幅七インチを56秒とし、『4分33秒』の三楽章それぞれを2分23秒、1分40秒、30秒に区分し、各楽章間の休止を示すものであった。一方で1960年にペータースから出版された楽譜には、各楽章に”Tacet”とのみ書いてあり、各楽章の合計時間が4分33秒になれば各楽章の時間配分はいかなる割合でもよいと指示してある。この改定は偶然性から不確定性へのシフトであると考えられる*6。初演時の楽譜においては時間配分が確定されており、その構造の中で作曲者や演奏者の意図を離れた音現象が偶然に生じることになるが、後に出版された楽譜では楽曲の構造は不確定なものであり、演奏ごとに異なった構造がつくられることになる。

*6 庄野進、『聴取の詩学 J・ケージから、そしてJ・ケージへ』、勁草書房、1991、p. 70.

 初期の作品から沈黙を音素材として用いてきたケージであるが、『4分33秒』に至って沈黙は作曲者による操作の対象ではなく、作曲者の意図を離れた音として扱われている。そして同時期に発表されたレクチャーを見ると、ケージの関心がキリスト教神秘主義やヒンドゥーの藝術理論における無や平穏といったものから、禅仏教における無心と融通無礙へと移っていることが伺える。ケージが初めて禅について言及したのは、1951年の「何かについてのレクチャー」(Lecture on Something, 1951)であった。

すべての物事は等しく仏陀の性質を持っているため成功や失敗を語ることができない。この事実を知らないことだけが悟りを得るための妨げとなる。悟りを得ることは気味の悪い非現実的な状態ではない。禅を学ぶ前人は人であり山は山である。禅を学んでいる間、物事は混乱する。禅を学んだ後人は人であり山は山である。執着がなくなったことを除けば違いはない。こうした思想について議論していると時としてこう言う人たちがいる。「たいへん結構です、でも役には立ちません。東洋のですから」。(現実にはもはや東洋と西洋の問題はなくなっている。すべてが速やかに消えていく。バッキー・フラーはよく好んでこう指摘した。東洋の風に乗った動きと西洋の風に向う動きがアメリカで出会い空中に向けて一つの動きを生んだ――すなわち我々を支える空間、沈黙、無である。)

ケージ、柿沼訳、前掲書、pp. 255-256.

 このレクチャーを書いたのは鈴木大拙に禅を教わる前のことであるが、コロンビア大学で鈴木の講義を受けてからケージの禅仏教についての言及は増え、また鈴木を生涯尊敬しつづけた。

 唐代の禅僧である黄檗希運の『伝心法要』によれば、無心とは一切の心が無いことであるとされ、主体や実体としての自我の存在を否定するものである。そういった主体と客体の二元論を離れる態度が、作曲者の操作が及ばない音、意図されない音としての沈黙を採用するに至った根拠となる。

學道の人は疑ふこと莫れ、四大を身と爲せば、四大我無く、我も亦主無し。故に知んぬ、此の身我無く、亦主も無きことを。五陰を心と爲せば、五陰は我無く、亦主無し。故に知んぬ、此の心我無く、亦主も無きことを。六根六塵六識の和合し生滅するも亦復た是の如し。十八界旣に空なれば、一切皆空なり。唯だ本心のみ有りて、蕩然として清淨なり。

黄檗希運『伝心法要』

 こうした主客二元論からの脱却はまた、禅における融通無礙に依拠するところが大きい。融通とは相互に浸透していることであり、無礙とは障碍がないことを意味する。禅における非二元論は、主客の区別がなくなり合一した状態のことではなく、個々の事物がそれぞれ中心にあり、なおかつ互いに浸透していることを指す。ケージは1958年に書いた文章で、鈴木大拙が行ったコロンビア大学での講義を回顧しつつ融通と無礙について記している。

現代音楽では、格づけみたいなことをする時間がない。できるのは、ふと耳を傾けることだけである。風邪をひいたときに、不意にくしゃみをすることしかできないのと同じように。残念なことにヨーロッパの思想は、ふと耳を傾けたり不意にくしゃみをしたりというように、実際に起こるできごとは、深遠なものとは見なさないという考え方をもたらした。去年の冬、コロンビア大学で行った講義のなかで鈴木大拙は、東洋の思想とヨーロッパの思想には相違があり、ヨーロッパの思想では物事は次々と何かを引き起こし結果をもたらすものと考えられているが、東洋の思想ではこの原因結果という見方は強調されず、かわりに人は今ここにあるものと一体化する、と述べた。鈴木はそれから二つの性質、すなわち無礙と融通について語った。さてこの無礙とは、全宇宙において、個々の物事や個々の人間が中心にあり、さらにこの中心にある個々の存在が、あらゆるもののなかでもっとも尊いものだ、ということをあらわしている。融通とは、これらのもっとも尊いものが、それぞれあらゆる方向に滲み出していき、いつどんな所でも、他のすべてのものと浸透しあうことを意味している。したがって、原因も結果もないと言うとき、そのことが意味しているのは、原因結果は計算できないほど無限にあるということ、実際にはあらゆる時空間におけるあらゆるものが、それぞれ、あらゆる時空間における他のあらゆるものと関係しているということである。こういうわけで、成功と失敗、美と醜、善と悪という二元論的な見地から注意深く進む必要はなく、マイスター・エックハルトを引用するなら、「私は正しいのか、あるいは間違ったことをしているのかと自問することなく」、ただ歩き続ければいいのである。

ケージ、柿沼訳、前掲書、pp. 89-90.

 二元論的な見地から、個々の事物それぞれが中心にあり妨げられることなく相互浸透するという意味での非二元論的な立場に移行したという点で、『4分33秒』は『易の音楽』から一歩発展したと言うことができる。『易の音楽』においてはその厳密な作曲プロセスによって作曲者と作品それぞれが中心にあるものとして扱われたが、作品は厳格な記譜によって演奏者をコントロールしようとし、演奏者が中心にあることを許さない。その一方で『4分33秒』においては作品と演奏者、そして意図されない音現象がそれぞれ中心にあり、なおかつ相互に浸透する事態がケージによって提供されているのである。

3-4.『4分33秒』以降


 無心と融通無礙という立場は『4分33秒』以外の作品にも見られる。『カリヨンのための音楽第1番』(Music for Carillon No. 1, 1952)は『易の音楽』における厳格な記譜法の反省として、音価を記さないという非常に曖昧な記譜を行っている。カリヨンという楽器の性質上、音の持続時間をコントロールできないため、楽譜には音高と打鍵のタイミングのみが記されている。カリヨンには統一された規格もなく楽器ごとの差異が大きいため、また重量のある鐘をワイヤーで鍵盤に繋いであり演奏者が打鍵する際の力によって音の強度が変わるため、音の持続は演奏ごとに異なったものとなり、それゆえこの作品では音の持続に関して自由な記譜法が取られたのである。また『ピアノのための音楽』(Music for Piano, 1952-56)でも曖昧な記譜法が取られている。この作品は四つの小品(No.1,2,3,20)と各16曲ずつの五つのグループ(No.4-19, 21-36, 37-52, 53-68, 69-84)からなっている。この作品でケージは楽譜の各ページにいくつの音があるのかを易経で決定し、その音数だけ、紙の汚れや傷を目安に音符を書き込むという作業を行っている。この「紙の偶有性」ともいうべき方法は、「厖大な時間と極度の厳密さが必要」になる易経を用いた音の決定を簡素化し、短時間で作曲することを可能にするために取られた手段であった。そしてこの『ピアノのための音楽』シリーズは、1グループ16曲を単独に演奏しても、数人のピアニストで複数の曲を重ねてもよいとされており、作品全体に不確定性が与えられている。こういった「作品の重複可能性」は融通無礙の立場から、各々の作品が相互浸透するようになされた指示であったと言える。

 この重複可能性は、時間の長さを作品名にした一連の作品にも当てはまる。『ピアニストのための34分46.776秒』(34'46.776" for a Pianist, 1954)、『ピアニストのための31分57.9864秒』(31'57.9864" for a Pianist, 1954)、『弦楽器奏者のための26分1.1499秒』(26'1.1499" for a String Player, 1955)、そして『打楽器奏者のための27分10.554秒』(27'10.554" for a Percussionist, 1956)の4曲はいかなる組み合わせで演奏されてもよく、また『ひとりの話し手のための45分』(45' for a Speaker, 1954)の講演と同時に演奏してもよい。

これを書くよりまえに、私は《二人のピアニストのための34'46.776''》を作曲している。その曲の二つのピアノ・パートは同じ数によるリズム構造を持っているが、総譜の形に固定されていない。たがいに可動的な関係になっている。どちらもチャンス・オペレーションによって得た要素を使用しているため、構造単位は、実際の時間の長さが異なっている。ロンドン作曲家コンコースで話をするよう依頼を受けたので、私はそのために同じ構造を用いたレクチャーを準備することにした。そうすれば、話を行っている間、音楽も演奏できる。第二ピアノのパートは、31'57.9864''であることが分かっていた。スピーチの数的リズム構造にチャンス・オペレーションで得た要素を適用すると、39'16.95''となった。しかし、テクストが完成してみると、その時間内に演奏できないことが分った。もっと時間が必要だった。長い行をできるだけ速く読んで、実験してみた。その結果、各行につき二秒、曲全体が四十五分となった。この速さでもテクストがちゃんと読めるわけではないが、試してみることはできる。[…] 二人のピアニストのための曲は、一九五四年の九月にドナウエッシンゲンで演奏するために委嘱されていた。私はやっと作曲を終えて、ロッテルダム行きの船にデイヴィッド・チュードアとともに乗るのにちょうど間に合わせた。大西洋を渡っているあいだに、スピーチを書く心づもりであった。ところが、船はマンハッタンを発ってから十二時間後に、衝突事故を起こしてしまった。船はゆっくりとニューヨークに戻った。海外との関係が深い他の乗客のはからいで、乗客全員のためにアムステルダム行きの飛行機が用意された。《ひとりの話し手のための四十五分》は、ヨーロッパ旅行の間じゅう、列車やホテル、レストランのなかで書かれた。その年の秋になってニューヨークに帰ると、私は《弦楽器奏者のための26'1.1499''》(二年前に書いた短い曲が折り込まれている)を、また少し後に《打楽器奏者のための27'10.554''》を作曲した。これらの作品はスピーチを含めて、単独でも、またどのような組み合わせによっても演奏することができる。

ケージ、柿沼訳、前掲書、pp.261-263.

 しかしこれらの作品は『ピアノのための音楽』シリーズとは異なり非常に厳格な記譜法をもって作曲されている。ピアニストのための『34分46.776秒』と『31分57.9864秒』では鍵盤上で多くの音を弾きつつ内部奏法も行い、かつプリパレイションの変更やホイッスルなどのアクセサリー楽器の演奏も同時に要求される。ドナウエッシンゲンでの初演時には実験的なパフォーマンス作品と受け取られ、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez, 1925-2016)やカールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen, 1928-2007)に影響を与えた。また『弦楽器奏者のための26分1.1499秒』はヴィブラートをかける位置、弓の圧力、ピチカートの種類や弓のどの部分を使って弾くか、弦のどの位置に指を置くべきかといったさまざまな要素が詳細に確定されており、合わせてアクセサリー楽器の演奏も求められる。一方で『打楽器奏者のための27分10.554秒』では記譜は簡略化されており、四つのパート――金属打楽器、木質打楽器、膜質打楽器、その他のあらゆるもの(機械音、ラジオ、笛など)――それぞれの音を出すタイミングと強度のみが指示されている。しかし楽器そのものについての指定は一切なく、演奏者が自ら選択しなければならない。また音現象の密度も非常に高く多くの音が書き込まれているため、演奏にあたっては高度な技術が要求される作品である。

 これらの作品における厳格な指示は『易の音楽』に共通する「非人間的」な性格を思わせるが、実際には「楽譜に書かれていることはどのような焦点の当て方をされてもかまわない」という注意があり、さまざまに指定された要素すべてを取り上げてもよく、一部でもよいとされている。これらの作品の楽譜は正確な再現を要求するものではなく、演奏者に対して演奏行為の材料を提供するにとどまるのである。

 この4作品以降、ケージは個別の楽器のための連作ではなく多くの楽器が相互に関係性を持たずにまとまっている作品を書くようになる。独奏ピアノと13の楽器を用いた『ピアノとオーケストラのためのコンサート』(Concert for Piano and Orchestra, 1957-58)である。この作品は各楽器が相互に無関係であるためパート譜のみで総譜が存在せず、また各演奏者は自分のパート譜を他のいかなる楽曲と組み合わせてもよいとされている。そのため音響的に混沌とした状態も、『4分33秒』と同じ状況も発生しうることになる。パート譜もさまざまな図形譜で書かれ、特殊奏法も要求される。

 これらの作品においてはケージの意志は存在せず、作曲者はただ音響的な体験の機会をつくる提案者としてのみ機能する。それに伴って演奏者、聴衆そして作品の関係も変化することになる。それぞれが中心にあり相互に浸透して主客の二元論を越えた事態を受容することがここでは問題となっているのである。

4.言葉と環境を意識した時代(1970-1987)


 1960年代になるとケージの作曲活動は活発でなくなるが、この時期の作品は作曲家の役割を変えることに重点が置かれている。音素材や構造のみならず音楽の現場における物事を規定し支配する者としての作曲者という位置づけから、できる限り離れようとしているのである。八十六の楽器のためのソロの集合として書かれた『アトラス・エクリプティカリス』(Atlas Eclipticalis, 1961-1962)においてはすべてのパートがたった一つの技法によって作曲されている。星図表からなぞるかたちで五線上に音が書き込まれていくのである。演奏者は舞台上に整然と配置されるのではなく、観客席にも入り込んで一人ずつばらばらになって演奏する。複数人の演奏者を個別の独奏者として扱うことで、演奏者それぞれが中心にあり相互に影響しあう状況がつくられる。1976年に初演されたこの作品の完全版において、ケージは以下のような注意書きを記している。「この作品はその内部に私個人のいかなる感情も発想ももたない。すべては単なる音として存在する」。そして続く『0分00秒(4分33秒第2番)』(0'00"(4'33" No. 2), 1962)や『ヴァリエーションズ第4番』(Variations IV, 1963)、『ヴァリエーションズ第5番』(Variations V, 1965)になると、ケージはどのような方法で音を出すのかといったことに対しても一切の指示を行わなくなる。『0分00秒』は「最大限に音が増幅される状況で(ただしフィードバックは避けよ)非音楽的な修練を伴う行為を一回あるいは複数回演じること」という文章のみからなっている(初演時にはこの文章が舞台上で書かれた)。『ヴァリエーションズ第4番』は作品が演奏される空間についての指示のみが与えられ、『第5番』になると楽譜は初演の後に書かれたのみならず、三十七項目の注意書きの言葉――「作曲家の役割を変えよ(電話をかけたり資金をせびったりすること)」など――でしかなかった。

 これらの作品においてケージは、人々に有益な社会モデルを提供する者として作曲家という立場を捉えている。「社会をよりよいものにする」という目的のために社会モデルを呈示し教唆することが作曲家の使命であると考えるようになるのである。それには1960年代後半から1970年代初めにかけて全世界で発生した社会闘争や学生運動からの影響もあったであろう。またケージが著書や対談などでたびたび言及している思想家バックミンスター・フラーからの影響も見過ごすことのできないものである。ケージにとって作曲という活動は、演奏という共同作業を社会の縮図と捉え、その中で個々の演奏者がもつ関係を考えようとするものであった。

 『ミュージサーカス』(Musicircus, 1967)では参加するすべての観客が演奏者となることが要求される。演奏者は会場内の好きな位置であらかじめ練習した他の音楽作品を演奏しても演奏しなくてもよく、演奏しない場合は他の演奏者の演奏を聴きに行ってもよい。複数の音響現象が同時に別個に進行するという状況が発生することになる。いかなる音現象が発生するかについてケージは何らの規定をも行わない。またレジャレン・ヒラー(Lejaren Hiller, 1924-1994)との合作で作曲された『HPSCHD』(1969)はモーツァルトからシェーンベルク、そしてケージとヒラーの自作曲までさまざまな作品をハープシコードで演奏し録音したものをコンピュータで加工したテープを作成し、一台から七台のハープシコードによる演奏とともに、コンサートホールではなく公園などの外部空間に置かれた複数のスピーカーから流す作品である。作品内の音響は既に規定されており偶然の要素が介入する余地はないが、聴取という活動によってこの作品は可変的な性格を帯びることになる。というのも演奏会場となるべき場所は公園などの外部空間であり、非常に広い地域で演奏することが可能であるため、どの位置から耳を傾けるかによって聴こえる音現象が異なったものとなるからである。また、全体の把握が不可能である上にさまざまな環境音も聴こえてくることがあるということもこの作品の可変性を増長する。聴衆がどこで聴くのかということによって聴衆個々人と音現象との関係がその都度構築されていくのである。これは『ミュージサーカス』と『HPSCHD』に共通する特徴であって、各演奏者、各聴衆とさまざまな音現象の複合的な状況は禅における無礙と融通、あるいは特権的視点による全体の支配と操作を免れた理想的な社会モデルの呈示であり、作曲活動による社会変革を目指したケージによる提案あるいは教唆であったと言える。

 また1969年にはおよそ十年ぶりとなる五線譜記譜法による作品『チープ・イミテーション』(Cheap Imitation, 1969)が書かれる。この作品で採られた技法はやむにやまれぬ事情から考案されたものであった。ケージはカニンガムのダンスのためにエリック・サティ(Erik Satie, 1866-1925)の『ソクラート』(Socrate, 1917-18)を二台のピアノ連弾のために編曲したのであるが、サティの著作権団体から許可が下りず編曲版が使用できなくなった。そこで彼は原曲のリズムには一切手を加えず、音程を易経によって選択、決定することで、この作品の安っぽい紛い物をつくることにしたのである。1972年にこの作品の管弦楽編曲版が演奏された際にケージは演奏者と、やる気のない者は演奏に参加しない旨の契約書を取り交わしている。ここでは演奏はある一つの目的に向かう複数人の共同作業であり、理想的な社会のモデルとして相応しい形態を取っている。

 1970年代のケージは毛沢東(1893-1976)やヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau, 1817-1862)の影響を受けている。よりよい社会のためには毛沢東のように直接人々に語りかけることが必要であると考え、ケージは朗読パフォーマンスを行った。この朗読パフォーマンスは音楽的要素や演劇的要素が強く、文章を読む時間の配分や朗読しながら行う動作などが厳密に規定されている。またソローの自然保護的な思想に影響を受け、自然と科学の融和を目指した作品も書いている。打楽器奏者のための『木のこども』(Child of Tree, 1975)と打楽器独奏あるいはアンサンブルのための『枝』(Branches, 1976)は文章のみからなる作品であり、サボテンと任意の植物を発音体として扱っている。『木のこども』は8分と規定されており、また『枝』は『木のこども』とその変奏からなる作品である。ここではサボテンの針に触れたり枯れ枝を振ったり、松毬を擦ったりといったさまざまな音響がつくられ、その音を電気的に増幅して出力する。かつてケージは作曲活動に偶然性を導入し、偶然に選択された音を楽譜に記すことで作曲してきたが、これらの作品では実際の構造は演奏者によってその都度作曲されることになる。

 1976年はアメリカ合衆国建国200周年のさまざまな祝典や記念行事が催された。ケージもアメリカ国立藝術基金と複数のオーケストラからの共同委嘱によって『アパートメントハウス1776』(Apartment House 1776, 1976)を作曲する。これはアメリカ建国当時の音楽を素材として用いた作品で、賛美歌の楽譜から削除する音を易経で決定し、いわば歯抜けの、どこかから漏れ聞こえてくるような賛美歌が演奏される。その上で四人の歌手が当時の文化的な複合性を、それぞれプロテスタント、ユダヤ人、ネイティヴ・アメリカン、アフリカン・アメリカンの伝統的な歌を相互に干渉するかたちで歌うという作品である。

 1979年にはソローに続いて文学に関わる作品が書かれる。文学的題材をなぞって別のものに変換する作品として書かれた『(タイトル):「(出典)」に基づく(冠詞)(形容詞)・サーカス』((title of composition), (article) (adjective) Circus on (title of book), 1979)である。ケージはこれとともに、作家ジェームズ・ジョイス(James Joyce, 1882-1941)の小説『フィネガンズ・ウェイク』(Finnegans Wake, 1939)によって『ロアラトリオ:「フィネガンズ・ウェイク」に基づくアイリッシュ・サーカス』(Roaratorio, an Irish Circus on Finnegans Wake, 1979)を作曲した。この作品もまた複数の音事象が同時に進行する状況を提供する。用意される音事象は主に3つである。ひとつは出典となっている『フィネガンズ・ウェイク』に登場する地名(ダブリンなど)で偶然に録音された音を素材としてつくられたコラージュ、ふたつめはアイルランドの伝統音楽である。そして『フィネガンズ・ウェイク』にもとづいたメゾスティクス*7のケージによる朗読が重ねられる。これらの作品を通じてケージの作曲活動は、その範囲を文学や演劇、また社会的な働きかけへと拡大していくことになった。この態度は後の作品『ユーロペラ』(Europera, 1987-91)にも引き継がれている。『ユーロペラ』では複数の演奏者が個別に、あるいはアンサンブルとして演奏する中でラジオやテレビ、テープを含む電子音楽が奏でられる作品となっている。

*7 メゾスティクス(mesostics)とは「文字並べの一種で、特定の名前や言葉を構成する文字を各列に一つずつ、ほぼ真ん中に置き、その列の文字を含む単語を特殊な規則に基づいて物語もしくは文章から拾い出して各列に配していく。ここでは物語もしくは文章に書かれた事柄が作り出していた論理的な展開、つまり統辞的な構造は解体され、一つ一つの単語とそれを含む前後のフレーズが論理的な関係を持たないまま、範例的に、つまり空間的に共存している」(白石美雪、『ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー』、武蔵野美術大学出版局、2009、p. 249)。

John Cage, Writing for the Second Time Through Finnegans Wake, 1976-79, Iより。
"JAMES JOYCE"によるメゾスティクス。


5.〈ナンバー・ピース〉の時代(1987-1992)


 晩年の作品群「ナンバー・ピース」(1987-1992)の作品名は二種の数字で構成されている。演奏者の人数を表す数と冪指数のようなかたちで右肩に添えられた数字である。指数で示されるのは、同じ人数のための作品で何曲目に当たる楽曲なのかを表す番号である。たとえば一人の演奏者のために書かれたものとして2曲目となる作品のタイトルは『One2』(1989)、四人の演奏者のための3曲目の作品は『Four3』(1991)となる。これらの作品群は独奏者のためのものから百八人の管弦楽のためのものまでさまざまな編成で作曲され、最晩年まで五十曲近くが書かれている。

 ナンバー・ピースで用いられた技法は「タイム・ブラケット」(Time Bracket)と呼ばれる。この技法は断片化された五線譜を並べるというものであり、その中には和音や単音など演奏されるべき音が記されている。個々のタイム・ブラケットには、その音が曲の開始から数えていつ演奏されるべきか指定されており、「2分15秒から2分45秒まで」と確定されたものもあれば、「0’00’’⇔1’15’’  1’50’’⇔2’05’’(0分00秒から1分15秒の間の任意の時間で弾き始め、1分50秒から2分05秒の間の任意の時間で弾き終える)」と柔軟なものもある。与えられた時間の枠の中であればどのようなタイミングで演奏してもよく、しかし全体の長さは確定されている。時間における柔軟さによって不確定な構造をもつ作品となっているのである。ナンバー・ピースの作品群においてタイム・ブラケットの時間的位置は易経で決定され、複数のタイム・ブラケットが同時に演奏される事態も起こりうる。また反対にタイム・ブラケット間で時間が長く取られた場合には、沈黙が現れることにもなる。それぞれが無関係なタイム・ブラケットによって、ここでは構造が不確定であるだけでなく、別個の音が互いに影響しあって時間が重層化することになる。演奏と聴取に際しては「いつ音が鳴るのか」、「今鳴っている音はどれだけ持続するのか」、常に緊張感を持って臨むことになる。

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