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国語力について

 国語力が低い。

 なんて話をたまに聞く。個人的にはその感覚はわからない。
俺はすごいぞ。ということを言いたいのではない。ただ、「しっかり日常生活を営むことができている」人が多い昨今、本当に「国語力」が低いのか。そこには疑義を抱かざるを得ない。
  
 しかし、それと同時にXを中心としてSNSでの、罵詈雑言を見るにつけ、確かに「国語力が低い」人がいるのは事実のよう。ただ、それは真に、「文章」が読めない、というよりは、発信者・受信者としての互いのプロトコルの問題であるような気がしていて、互いの思想を受け取るための最低限の知性がなければ相手の文章を読み解くことができない。
 また、いいねの数はインプレッションの数によって扇動されることもあるだろう。つまり、「たくさん読まれているもの」は「価値が高い」と錯覚することである。「バズる」というのは非常に不可思議な、局所的な流行で、それはまさに偶発的な産物である。
 とはいえ、一過性とはいえ人々の興味関心がそのワードに注視されているということは間違いのない事実であって、そこに重きを置くこと自体は否定されるものでもないだろう。
 問題は、加熱した集合知が、真に人の理性を導出することができるのか、ということである。バズった投稿に群がるのは、加熱した知性であって、それは膨張した欲望と言い換えてもいい。つまり、そこには無尽蔵に虚偽が混ざるのである。
 国語力、が問題になるのはこの「虚偽性」を前にした時であろう。文章そのものが問題となるのではない。それらの文章が作り出し、世界に向けて発表される時の、その人個人の背後にある思想そのものを読み取ることができるかどうかである。思想とは、スタイルだ。その人間は態度として虚偽を述べているのかもしれない。あるいは、誠実に虚偽に飲まれたのかもしれない。発信は自由だ。誰しもが表現者になれるのだから。
 それを正しく読み取る必要がある。それこそが、現代的な国語力の正体と言っていいだろう。
 国語力を高めるには。また、国語なるものと向き合っていくためにはどうすればいいのか。じっくり考えていきたい。

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