小説 ピアノ
そのピアノは、幼い時から家にあった。
祖母が母のために購入したものらしい。母は小さい頃、ピアノを見て一目惚れしたそうだ。自分もピアノを習いたい。そうやって親にねだった。
あまりに真剣だったので祖母も折れてピアノを購入した。KAWAIのアップライトピアノを買った。
「人生で一番の買い物かも」
と祖母は後に語る。
ピアノが家に来た。母はとても喜んで、一日中練習をした。
近所のピアノ教室にも通って、ピアノ漬けの日々を送った。
三年も経つと母のピアノの腕前は近所でちょっとした話題になった。しなやかな指先、流れるメロディー。そして、あふれる感性。母は幼くしてその才能を存分に開花させていた。
学校でもピアノを弾く機会があれば、そこは母の世界だった。誰もが母の奏でる音楽に夢中になった。
しばらくして、小学生のピアノコンクールで優勝した。誰もが母の将来を嘱望していた。
しかし、中学三年生の頃に、彼女の手は思うように動かなくなった。交通事故に巻き込まれたのだ。
命はあった。しかし、以前のようにピアノを弾くことはできなくなった。
その当時の母にとってピアノは命そのものだった。母は自分の命を失ったのだ。
それ以来、家の中からピアノの音は消えた。簡単な曲なら弾けたけれども、以前のように弾くことはとてもできなかった。
母はすぐにその事実を受け止めるはできなかった。
祖母は娘にかける言葉を持たなかった。しかし、ふさぎこむ娘を励まそうと、家の中ではどんな時でも、笑顔を絶やすことがなかった。
祖母は家の中で常に鼻歌を歌っていた。下手くそな歌だった。母はずっとそう思っていた。
「下手な歌はやめて」
母はそう言ったという。冷たい、感情を抜いた声で。しかし、祖母は歌をやめなかった。むしろ、聴かせるようにして歌った。
そんな生活がしばらく続いた。ある時、祖母が母のもとにやってきて、
「曲を作ったから、伴奏してほしいんだけど」と言った。
もちろん、母は断った。しかし、祖母はしつこく頼み続けた。あまりにしつこいので、母もついに折れて、伴奏をすることになった。
「人助けだと思ってさ」
と祖母は言った。
人助け。その言葉が妙に母の心
に残ったという。
曲を作った。といっても、いつもの鼻歌だった。その曲に合わせるように即興で伴奏を演奏しなければならなかった。
癖のある歌だ。
人助だから。そう、自分に言い聞かせてピアノを弾いた。
もう何十年もピアノに触れていないような感覚になった。昔のような演奏は望むべくもない。
事故はもとより、時間の経過によって錆び付いた指は容易に彼女の言うことを聞かなかった。
しかし、それ以上に祖母の歌声は、祖母の言うことを聞かなかった。
弾いている間に思わず笑ってしまった。自分の拙さがどうでもよくなってしまっていた。
時間が経つに従って、母の感覚も少しずつ戻ってきた。
楽しい。ピアノを弾くのが楽しい。以前衆目を集めた自分のピアノの在り方とは全然ちがう。そこには自由があった。音楽を楽しむ自由が。
笑っていた母の頬に涙がこぼれた。涙を抑えることができなかった。
その様子を見た祖母は歌うのをやめて、娘の体を抱きしめた。
それまで母を縛りつけたいた記憶が、その涙とともにどっと流れおち、それ以来母は本来の明るさを取り戻した。
母はそれから曲を作るようになった。そして、作曲家を目指し、音大へと進学した。卒業後、作曲家として活動を始めた。
母はコーヒーを飲みながら、ピアノの思い出を僕に語った。ずいぶん昔の話だと笑いながら。
しばらくして、祖母が家にやってきた。
その日は祖母の70回目の誕生日だった。
祖母の歌声が朗々と響く。正直、上手とは言えない。
年齢を重ねた、しわくちゃな声だ。しかし、なぜだろう。その声は深い生命力に満ちているように思われた。
伴奏はもちろん母だ。
母は下手な祖母の歌に合わせてピアノを弾く。
その顔は満面の笑みに包まれていた。
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