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小説 二胡

 彼女は二胡の先生だった。
 彼女が弓を丁寧にひく姿が、悩ましい。


「ゆっくりと弓をひくでしょ。その癖かもしれないけど、ゆっくりと話す癖がついているの」
 彼女はそう言って笑った。彼女の言う通り、しゃべり方はとてもゆっくりで、間をたっぷりと使って話した。


 「ゆっくり」と言うところを「ゆーっくり」と音が間延びしていく様が愛らしかった。ゴムのように伸縮自在で、それでいて決して切れない力強さを感じさせる。


 彼女の母は上海出身らしい。
 1999年に東京にやってきて、父と出会った。世紀末のさなか、彼女の母は小さな二胡の教室を始めた。
 父がいつ教室にやってきたのか。母は覚えていないという。
「できの悪い生徒だったことは覚えているんだって。変な話ね」
 彼女は両親の思い出を語りながら笑った。愛らしい八重歯が光った。

 彼女は目を閉じて二胡をひく。
 私はその様子をじっと見ていた。二胡に戯れる間、彼女は彼女ではなく、ある運動の法則に身をゆだねる観念そのもののように思えた。

 彼女の周りにあるすべての贅肉がそぎ落とされて、そこに音だけが残されていた。
「幼い子どもを、あやしているような感じに思うといいって。お母さんが言ってた」
 彼女はそう言って演奏をやめた。
 部屋に静けさだけが残った。彼女は何も言わなかった。
 言葉をすべて忘れてしまったかのようだった。

 彼女が教室を閉めると聞いて、訪ねていった。
 彼女の部屋には、根本から折れた二胡が横たわっていた。
 呼吸をしていないウサギのように思えた。そこに命はなかった。
  
「また、どこかで会えればいいね。あなたはとっても真面目だから、何をやってもうまくいくわ」
 いつもと同じゆっくりとした口調で彼女は言った。
 彼女は振り向いて歩き出した。私はその背中をずっと見ていた。
 背中が遠くなり、ついに見えなくなった。

 しばらくして、彼女が亡くなったのを聞いた。
 どんな病か知らない。
 私は自分の腕をゆっくりと撫でた。腕を二胡に見立てて。
 乾いた音だけが起こった。それでも、何度も撫でた。
 
 ゆっくりと。ゆーっくりと。 



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