図書館の自由は
困っている。何に困っているかというと、図書館が軒並みしまっているということ。
おおよその書き手がそうであると思うけれども、図書館はとても重要だ。もはや生活の基盤ともいえる場所だ。本があって、机もあって、コピーもできて、とこういう状況になってみて改めてその存在の尊さがわかる。
となりに人がいると気まずいなどと思ったけれども、今やそれもわがままだろう。
「国民の知る自由を保障するため、すべての図書館資料は、原則として国民の自由な利用に供されるべきである。」
という文言が「図書館の自由に関する宣言」の中にある。その意味では図書館は僕らに開放されていなくてはならない。しかし、知識と命ならば、命を取るのは当然のこと。解放されていれば、多くの人が図書館に足を運ぶこと必定である。
とはいえ、図書館という知的生産の基地を失うのは大きい。そして、とにかく街の中に本屋がない。都内では小さいいわゆる「町の本屋」は軒並みつぶれてしまった。大型商業施設に併設された書店の力には敵わない。
本を買うとなると、やはり大きな書店に足を運ぶことが多かったと思う。たくさんの本が並んでいて、その中から好みの本を選ぶ。無尽蔵に並ぶ本から自分が納得する本を探す。それは一種の宝さがしのような感覚すらあった。その一方で、品ぞろえの悪い、というよりもスペースの都合で品ぞろえが少なくならざるを得ない町の本屋に通うことななくなった。
町の本屋の利点は、地域性だったように思う。その地域ではその場所にしかない、ということ。しかし、コンパクト化した都市の中では、ほとんどの生活圏で、大型書店にアクセスすることができるのではないだろうか。
その中で、町の本屋は姿を消した。もちろん、すべてそうだとは言わないが、自身の家の周りを見ても、本屋は見つからない。
唯一、小さなショッピングモールに併設された書店を発見。営業はしているけれども、人が列を作っている。
列がなんだ、と昔なら言っただろうけれども、本を手に入れるために危険を冒すのも微妙な気持ちになる。
本はインターネットでも買える。むしろ、価値の下落が少ないという意味では本は優良コンテンツだと言える。それで買えれば便利だ。
でも、インターネットでは、本の中身を見ることはできない。本の冒頭がサンプルで公開されていることはある。しかし、それをもってその本を「買う」と決める決定打にはならないような気がするのだ。
しかし、そうは言っていられないので、購入。あれ、思った内容と違うぞ、ということがちらほら。本だって決して安くはない。図書館なら返せばいいのだけれども、注文して運んでもらってまた返品というのもなんだか。
立ち読みしてチェックして買う。簡単なことでも今となっては懐かしい。はやく平和が訪れて、気兼ねなく本を手に入れることができるようになることを祈るばかりである。
本屋が、大型商業施設に併設される形で、つまり、知識が効率に落とし込まれる形になってしまっていたのは辛かった。
しかし、それを選択したのは消費者である僕らなのだとも思う。
図書館にある無限の情報は、それを取り出せる「自由」があればこそ機能する。今、情報は固く口を閉ざして、来訪者を拒む。しかし、それは守るため、助けるため、未来のため。
今は、この時間を生きるしかあるまい。そして、新しいスタイルにも慣れていかないといけない。
再び、図書館や書店がその意義を高らかに宣言してくれることを望むばかりである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?