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小説 月読の詩 第1話「祈りの祭壇」

 祭壇の上に供物が置かれた。祭壇の周りには祭服に身を纏った人間が無言で立っている。コルトマは闇の中に茫洋と浮かぶ祭壇を見つめていた。

 密閉された祭儀堂の中央には大きな祭壇が据えられ、周囲には足の長い燭台がいくつも並んだ。使いが一人一人堂内へと入り、供物をささげていく。

 今朝、川で釣れた魚、畑からとれた野菜、干物、燻製。村の生活を育むあらゆる恵みが祭壇に並べられた。
 最後の供物を持ってきたのは一人の少女だった。名をアヴリエといった。村の儀式に立ち、神々の声を聴くのは巫女の役目だった。

 彼女たちは月読と呼ばれ、月の動向から未来を占った。月の言葉を聞き、それらを治政に生かした。

 巫女は皿をしっかりと持って祭儀堂へ入った。祭服は厚みがあり、幾重にも衣を重ねて、裾を垂らして歩いた。裾の最後尾は使いが手を添え、アヴリエの動きに伴って体を動かしていった。

 息の合った呼吸だ。儀礼のために平生より鍛錬を積んでいるのだろう。コルトマはその機械じみた動きに不思議な冷酷さを覚えた。これから始まる儀礼の重さをその感覚を呼んだのかもしれない。

 アヴリエの皿には猪の肉が乗っていた。あれは、俺が今朝取ってきたやつだ。狩りは男の仕事だ。朝、村の裏の山に入り、獲物を狩る。コルトマは今朝、自分が猪の命を絶った時の静かな興奮を覚えていた。

 生きるための殺生。目的のために自分の矛が相手の体を貫く。しかし、その時ににわかに起こる興奮を無視することはできなかった。猪が完全に動かなくなったとき、自分にも冷静さが戻ってきた。

 コルトマはアヴリエの顔を見ようとした。アヴリエの顔はヴェールに覆われ、にわかには確認できなかった。しかし、その顔は白粉で塗られ、唇は固く結び、巫女たらんとする彼女の決意が表情の半分から見てとれた。

 儀礼が始まった。月読の儀式だ。いくつもの呪文が掛けられ、神に祈りを捧げる。大地の繁栄を祈り、作物の豊穣を願うのだ。村には、しばらく雨が降っていない。農作物も不作だ。狩りだけが安定して、食料の調達を可能にしている。しかし、それも冬に至ればままならない。

 村の危機に、月読が立つ。コルトマは父からそう教わっていた。どういう意味か。深くは問わなかった。儀式は淡々と続いていった。幾重にも呪文が重なり、堂内には音が反響していた。

 その反響がいかにも不思議といった感を出し、内部にいる人間はそのその異様に酔った。これが特別な時間なのだと、自分に言い聞かせるように。

 儀式が終わった。祭儀堂内には、巫女が一人残る習わしだった。次々と人が出ていった。コルトマはしばらく彼女の様子を見ていた。しかし、アヴリエは死んだように動かなかった。ヴェールに覆われ、その表情も判然としない。

 もう出ろ。コルトナは使いにそう促され、堂内を出ざるを得なかった。なるべく彼女を見ていたかった。堂内の熱気は去り、どこからか冷たい空気が入ってきた。アヴリエがちらりとコルトマの方を見た。

 互いに視線が交わる。彼女は、泣いているように思えた。しかし、すぐに視線を戻し、二度コルトナを見ることはなかった。
 俺の、気のせいだろう。コルトマは自分に言い聞かせた。

 アヴリエはもともと村の人間ではない。ある嵐の夜に、彼女の母が赤ん坊だったアヴリエを連れてきたのだ。母はそのまま息絶えてしまった。村人達は彼女を育てることに決めた。
 
 しばらく、村には女が生まれていなかった。このまま月読を欠いてはまずいと思った村長は、彼女を月読とすることに決めた。村人には異論があった。外部の人間を巫女に据えるのに抵抗があったのだ。村長はまだ若く、信頼も少なかったので、その決定への反論も多かった。

 しかし、後継ぎ問題の明確な解決法は見つからなかったので、村人も反論する言葉を持たず、アヴリエの継承が決まった。

 小さい頃から、仲が良かった。同い年の子は少なかったからだ。コルトマは幼少を回顧しては、アヴリエと共に行った数々のいたずらを思い出した。鶏を小屋から逃がしてみたり、ボヤを起こして周囲を驚かせてみたり。

 13歳になった頃、アヴリエが月読としての修練を始めた。月読は男と言葉を交わしてはいけなかった。それが掟なのだ。そう父は言った。人前で、話をすることはできなくなった。月読になる。巫女になる。それがどれほど大事なことなのか。父は、コルトマにゆっくりと説いた。

 理解はした。しかし、納得はしなかった。コルトマは、夜になると彼女の家に行って、家の近くにある木を精一杯登った。平生より山を駆け、川を泳いでいるコルトマにとって、木を登るくらいなんでもなかった。ある程度登った所で、コルトマはポケットに隠した小石を、アヴリエの部屋に向かって投げた。

 反応はなかった。もう一回投げた。窓の奥から人影が見える。月の光の中、アヴリエが顔を覗かせた。
「何しているのよ」
「何している? 生きているんだよ。夜行性なんだ。俺は」

 アヴリエはコルトマの頓狂な行動に笑わずにはいられなかった。二人は静かな夜の中、互いに声を殺しながら、しばし語りあった。それは誰にも知られぬ逢瀬だった。

 気づけばコルトマは18歳になっていた。アヴリエも同じ年齢だった。嫁をもらえと家族はコルトマに迫ったが、口笛を吹いてごまかした。アヴリエは自分をどう思うのだろう。

 月読は、恋をしないのだ。そう、父は言った。月読だから、恋をしない。そんなことがあるのか。コルトマは父の言葉を生まれて初めて疑った。自分で判断することこそ大人であること証だと考えたのだ。

 大陸を飢饉が襲い、狩りの時間が増える中、二人の会話は減っていった。そこで、豊穣の儀が行われることが村長から告げられたのだ。

 

 コルトマは眠れなかった。アヴリエのあの表情を忘れることはできなかった。闇の中、食堂でじっとしていた。小さな燭台の上で炎が揺れた。

 一際大きな影が食堂にやってきた。父だった。コルトマは父の顔を見なかった。父はそんな息子を意に介せず、席についた。沈黙をしばらく彷徨った後、父は不器用に言葉を紡いだ。

 私は独り言を言う。これを誰かに聞かれたら大変だ。気が緩んでしまった。私は独り言を言う。
 父はおおむねそのようなことを言った。コルトマは不思議に思って父の顔を見た。父は息子の顔を見ずに揺れる炎に向かって話しかけた。

  
 

 コルトマは走っていた。月の光を頼りに山を駆った。山は俺の遊び場だ、そして、大切な狩猟場だ。俺は山を誰よりも知っている。どんな闇でも俺を止めることはできない。コルトマは息を切らしながら、闇を疾走した。腰には銀のナイフを携えている。汗が滴る。もっと、もっと力を持て。俺の脚よ。

 父の話を要約すれば、豊穣の儀の夜に、月読の巫女は殺される。それが定めなのだと。命を供物にして、大地の怒りを鎮めるのだと。父は独り言を、息子に語った。きっと、触れてはならぬ禁忌なのだろう。この村の掟なのだろう。

 父はまじめで、不器用な人間だ。だからこそ、母を愛し、息子を愛し、そして、アヴリエを愛した。いや、父は村を愛しているのだ。だからこそ、迷っていた。村の秩序を守るべきか、それとも自分が子のように愛したアヴリエを取るのか。

  父の言葉は揺れていた。最後の言葉を発する時、父は蝋燭の火を消した。おそらく、泣いていたのだろう。
 とめどなく思考が溢れる。あらゆる雑念は夜の闇に消えていく。行動ありき、行かねば。
 
 ついにコルトマは夜の祭儀堂へと到着した。月明かりの中、その威容が改めて男にのしかかかる。階段を駆け上がり、門扉へとたどり着いた。内側から詮がしてあるのだろう。正面からでは開けることができなかった。

 どこから、中へ入ることができるのか。コルトマは周囲を探り、祭儀堂の裏手に出入口を見つけた。鍵がかかっていたが、ナイフで強引に破壊した。

 ゆっくりと、しかし、なるべく素早くコルトマは動いた。月読は豊穣の儀の夜に殺される。ならば、誰かが月読を、アヴリエを殺そうとするはずである。それは誰か。祭儀堂を管理している人物。儀式を行う機会を設ける権力を持つことができる人物。それは、一人しかない。その人物はもうすでに中にいるはずである。

 コルトマは堂内を覗いた。それほど広くない堂内も、今ではとても広く見える。窓掛けは開き、月の光がほのかに注ぎ込む。

 この中でアヴリエは独りでいるのか。言いようのない怒りがコルトマの中に沸き上がってきた。目を凝らし、檀上に目を凝らす。アヴリエがいた。闇の中で小さくなっていた。怒気は一瞬で消え、代わりに不安が襲ってきた。

 コルトマは足早にアヴリエの元に行き、彼女の体を掴んだ。瞬間、アヴリエは振り返り、おびえた目でコルトマの顔を見た。コルトマの顔とわかると頬も和らいで、涙がどっと出た。

 よかった。アヴリエがコルトマの胸に顔を埋めた。
 コルトマも彼女をぎゅっと抱きしめた。

 その瞬間である。背後よりコルトマは攻撃され、鈍い音が堂内に響いた。アヴリエの悲鳴が響く。月明りが目を闇に慣らせ、ずいぶん様子がよく見える。コルトマは、鈍い痛みを気合で弾き飛ばしながらゆったりと立ち上がる。
 目の前にいたのは村長だった。

 やはり。コルトマは言った。貴様が、全部仕組んだのか。
「これが、村のためだ。そして、私のためでもある」
 俺のため。ふざけやがって。何を言っているのか。
「コルトマ、お前は何も知らない。生きるための苦しさも、人の弱さも」

 頭がじんじんする。コルトマは意識が次第に遠のいていくのを感じた。思わず足をついた。まだだ、まだ動け俺の体。

「そこにいろ。あらゆる災厄は月読が受ける。生贄が必要だ。あらゆる怨念を月読が受けて死んでいけばいい。みんな、それで助かる。昔からそうやっていた。伝統が、人を殺す。それで、多くの悩みが消える。楽なもんだ」

 村長はゆっくりとアヴリエに近づく。早くもなく、遅くもない。確実に仕留めんとする狩人の歩み。アヴリエは逃げようにも、幾重にもまとった衣装の重さゆえに逃げられなかった。

「……私も、人など殺めたくはない。でも、これが、私の使命なのだ。憎しみゆえではなく、己の宿命のために、刃を立てる」
 冷たい空気が部屋に入ってきた。村長は、ナイフを持った右手を高く上げた。月明りがナイフに吸い込まれていった。

 コルトマの体を見えない力が動かした。村長がナイフを振り下ろすよりも早く、コルトマは腰からナイフを抜き、村長に向かっていった。

 風のようにコルトマは村長へとぶつかった。鈍い感覚がコルトナの手の内にやってきた。猪を刺すのとはまるで違った。ほのかな闇の中村長がコルトマを見た。

 お互いの表情がありありと見えた。互いが怒りの形相を持っていた。しかし、村長は自身が刺されたと思うと頬の筋肉を緩め、小さく笑った。やっと楽になれる。そう言ったように聞こえた。しかし、あまりに茫洋とした声であり、判然としなかった。

 村長はその場に倒れた。冷静になったときに、興奮がやってきた。俺は、人を殺してしまった。しかし、大切な人を守れた。コルトナの胸の内に哀しみと喜びが交錯した。
 「危ない」
 アヴリエが叫んだ。コルトマは村長の方に目をやり、ナイフを構えた。村長の体から流れ出た血液が、蛇のようになりコルトマへととびかかってきた。コルトマは左手でその血を受けた。

 血はそのままコルトマの腕にからみつき、衣服を破り内部へと入ってきた。痛みが全身を走る。コルトマは叫んだまま倒れた。痛みはしばらく続いたが、じきに収まった。

 アヴリエはコルトマの側にいた。痛みに震える男をずっとさすっていた。
 これは一体、何なんだ。血の中に、何かが。
 コルトマは血の中に住む魔物の話を思い出した。それも、父に聞いた話だ。その魔物は憎しみを好む。憎しみを力にし、膨張し、最後にはその人を喰ってしまう。 

 楽になれる。村長の言葉を思い出した。彼もまた、魔物の力に苦しんでいたのかもしれない。
 コルトマはアヴリエを見た。涙を浮かべる彼女を見て、無理やり笑顔を浮かべた。

「腕が……」
 腕を撫でながらアヴリエは言った。
 大丈夫だ。そうコルトマは言った。
「血に住む魔物だ。きっと、なんとかなるさ。これくらい」

 なおもアヴリエは男の手を丁寧に撫でた。コルトマはくすぐったかったがやめてくれとは言えなかった。汚れた手に慈愛を注いでくれるアヴリエを拒むことはできなかった。しばらく彼女に腕を任せていた。

「村を、出よう」
 コルトマは言った。村に留まることはできない。コルトマの言い分が通るとも思えない。そして、父にも迷惑がかかるだろう。アヴリエもこの村に残ることはできないだろう。

 新しい土地で生きるしかない。コルトマはそう思った。新しい土地、新しい暮らし。
 俺はこれからどうなるのか。コルトマは自身の憎しみで汚れた腕を見て思った。この腕の治療法も探さなければならない。

 俺は憎しみのために力を使ったんじゃない。大切な人を守るために、力を使ったんだ。コルトマは自分に何度もそう言い聞かせた。

「私、一つだけあてがあるの。きっと、私たちをかくまってくれるし、その腕も直してくれるかもしれない」
 アヴリエ曰く、祭儀堂から西へ向かった先の森の中に、一人の魔女が住んでいて、その魔女ならきっと腕を治してくれるはずだと言う。

「わかった。行ってみよう。僕らにはもう戻る場所はない」
 アヴリエはうなずいた。コルトマは彼女を抱きしめた。長らく掟の前に触れることのできなかった体。力強く自分のもとに引き寄せた。

 すぐに夜も明ける。夜が明ける前にこの場所を出なければいけない。じきに村の人間が様子を見に来るだろう。すべての事を終えた祭壇を見に。

 祭壇を見上げた、闇の中にぼんやりと映る供物が見えた。アヴリエは最後の供物にはならなかった。
 君は俺が、守る。男の視線は夜の闇を静かに睨みつけた。

 二人は祭儀堂から去った。祭儀堂には、月の光が静かに注ぎ静寂だけが残った。
 

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