小説 長靴
娘に長靴を買ってあげた。雨の中学校に行くたびに靴を濡らしては可愛そうだと思ったからだ。
エメラルドグリーンの長靴を買ってあげた。妻が好きな色だった。
妻が世を去ってから3ヵ月。生活は一変した。
私に残されたのは小学生の娘との時間。それも平穏ではなかった。
私は何も知らなかったのだ。
妻の苦労も、娘の寂しさも。
家族を持った。その事実で強くなったような気がした。
一方で、逃げられなくなったとも思った。
死ぬまで戦い続けないといけないと思った。弱さを見せてはいけないのだと思った。
私は何も知らなかったのだ。本当の幸せの意味を。
娘は長靴を見て嫌がった。
「みんなこんな色のやつはいてないし。赤とか、ピンクとかがいい」
エメラルドグリーンは、妻が好きな色だった。
娘は妻ではないのだ。頭では理解していた。しかし、心は反発した。
私は娘を怒鳴りつけ、叱り飛ばした。
買ってあげたのになんだ、プレゼントしてやったのになんだ。
私は何に怒っていたのだろう。誰に、怒っていたのだろう。
妻の遺影に手を合わせる。涙が止まらくなった。
私はそのまま2時間泣いていた。
翌日、色違いの長靴を買った。ピンク色の奴だ。
「娘さんへのプレゼントですか?」
若い女性店員はそう聞いた。男性が子ども用の長靴を買っている姿は珍しいのかもしれない。
「うん。そうなんだ。この前別の色のを買ったんだ。一色だと寂しいと思って」
とっさに言い訳を繕った。女性は小さく笑みを浮かべた。
「きっと、喜んでくれますよ」
彼女がそう言った。そうかな。私は心の中でそうつぶやきながら店を出た。
新しい長靴を目立つように玄関に置いておいた。
娘がそれを見てどう思うだろう。どう、思うのだろう。
娘の気持ちなんてわからなかった。妻の気持ちだってわからなかった。
なら、私は一体誰の気持ちなら理解できるのだろう。
朝から雨が降っていた。
朝、娘と一緒に家を出る。彼女は小さな傘を差して、とことこ歩き始めた。
ふと見ると、左右の長靴の色が違っている。右足は、エメラルドグリーン、左足は、ピンク。
「長靴、間違ってるよ」
反射的にそう言った。娘は振り返って、
「左右別の色を履くのが流行っているんだよ」
と言った。そんなわけない、と私は思ったが何も言えなかった。
「買ってくれてありがとう。パパ」
少し間をおいて、娘はそう言った。そして、前を向いて、少し速足でとことこと再び歩き始めた。
娘の気持ちはわからない。しかし、娘は私の気持ちを理解していたのだ。いや、理解しようとしてくれたのだ。
私は何も理解しようとしていなかった。私は、私の弱さに対して怒っていたのだ。
不揃いの色の長靴が、しとやかな雨の中で一際美しく映える。
小さな背中が、ただただ愛おしい。
私は娘に追いつき、並んで歩いた。
「あとね、長靴じゃなくて、レインブーツって言うんだよ」
と娘は言った。
口をつんと出して文句を言う姿は、妻とそっくりだった。
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