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顔 1

鏡の中の自分を見て、顔に何の価値があるのかと首を捻る。
3月が始まったばかりのまだ寒いある朝の日、瀬戸真広は洗面所でしばらくそうしていた。

肌はもう水を弾かなくなり、ダラダラと水滴が筋を作って落ちていく。
頬や瞼の質感は重く、色は白いかもしれないがくすんでいる。
歳を取ったと直感で答えを出して首を振る。
なぜ朝からそんなことで頭を抱えるのか。
原因を探して、すぐ見つける。
目覚める直前まで見ていた、イヤな夢のせいだった。

「男前」「ハンサム」と持て囃されている自分を、今の年老いた自分が眺めているだけ。
だがそれが、瀬戸はとてつもなく恥ずかしかった。
おかげで寝覚めが悪く、二日酔いでもないのに頭が痛かった。
夢の中の自分は見た目と顔立ちを褒められて調子に乗って、それを当たり前として振る舞う。
そんな若い自分の頭を叩きたくても、観客の自分は立ち上がることも許されず見ているしかない。
夢の中で、瀬戸は昔の自分に持っていたビールを投げつけようとした。
そこで目が覚め、アラームが鳴る前に起きるしかなくなってしまった。

夢の中の昔の自分も現実そのもの。
しかし現在、瀬戸は50歳を迎えようとしている元プロ野球選手だった。
女性ファンの声援を背にして颯爽とグラウンドを駆けていた瀬戸真広(まひろ)は、15年前に終わっている。
人気者だった自分を今さら突きつけられても、むず痒い。
ルックスが売りの現役時代は認めていても、それを消費され過ぎてそのスピードについていけずに手を焼いた。
早く目覚めて何をするか考えられず、徒歩出社を思いついた瀬戸はコートの襟を立て首を縮めてただただ歩いていた。

福岡アウェイクオウルズ球団株式会社の5階の一画に瀬戸のデスクはある。
オウルズ球団広報部広報課で課長を務めている瀬戸は、7人の部下を束ねて会社員生活を送っている。
現役引退直後に球団社長からスカウトされ、会社員に転身。
第二の人生のセカンドキャリアに恵まれたという意味ではありがたかったが、瀬戸自身はそこにもむず痒さを感じていた。

朝8時の会社に人は殆どいなかった。
5階に上がるエレベーターでは数人の事業系部署の人達と乗り合わせたが、彼等は出張に向かう前に会社に立ち寄るだけのようだった。
フレックス制が敷かれて出勤時間を自分で決められても、早出を選ぶ人間は珍しい。
瀬戸は朝から何度目か分からなくなった溜め息と共に、広報課のフロアに足を踏み入れた。

「あら。早いな」
誰もいない。そう思って俯き気味だった瀬戸が驚き声をあげる。
自分のデスクの斜向かいに部下の姿を見つけたのだ。
「おはようございます」
「おはよう。いつ来たの?」
瀬戸の部下の1人で、これもまた元オウルズ選手の川多至(かわたいたる)が挨拶をする。
川多に気を抜かれた瀬戸が返すと、川多は7時半にはここにいたと真面目に言った。
「社内報のコラムの締め切りが近いんで」
「あぁ、あれか」
笑顔を消してパソコンを見る川多に頷き、瀬戸は卓上カレンダーに目をやった。
2日後にコラム締め切りと書き込んであった。
川多が社内報のコラムを担当すると決まった1ヵ月前に、用心のためにそうした。
生真面目な川多に発破は必要ない。
それでも万が一のために瀬戸は備えていたのだ。

コラムの規定文字数は800文字。
原稿用紙2枚分だからと軽く言う社員も多いが、大半は文字数を聞いただけで追い詰められる。
瀬戸も15年の会社生活の中で何度か担当しては苦しめられた。
川多は今回が初めてのコラム執筆。
瀬戸は川多が実直で規則を守る性格だと知ってはいるが、作文が出来るかどうかは知らない。

「どのぐらい書けた?」
「520文字だそうです」
パソコンのスクリーンの下部に目をやった川多に、瀬戸は目を細めた。
カウンターをちゃんと見ようという姿勢が、川多の真面目さを表していた。
「何を書くの?」
「春季キャンプの思い出ですね」
「また懐かしいね」
瀬戸と川多が経験した、プロ野球界の年中行事の一つ。
現役選手が参加する春季キャンプ。
つい最近、今年のオウルズのキャンプも打ち上がっていた。
そして自分達もそうしてきたようにオウルズは今、春季キャンプからシーズン開幕に向けてオープン戦を戦っている。
幾度となくこなしてきたキャンプの思い出から川多は、野球を離れて起きたハプニングを抜き出そうとしていた。
宿舎の大浴場に感動した外国人選手が、休みの日に風呂に浸かり過ぎてのぼせて倒れ救急車が呼ばれそうになった騒ぎ。
球場からランニングで宿舎に戻ろうとして道に迷ったルーキーのこと。
「あまり堅くない話を書きたいんです」
そんなことを言う川多だったが、瀬戸が見る限り意気込み過多だった。
7時半に出社して、ひたすらパソコンに向かう。
それにこの早出がなくても、川多は最近昼食もデスクで済ませて執筆活動に没頭している。
「そこまで頑張らずに、思いつくままで書いたら?」
「思いつき」
「話す感覚とか、そんな感じで」

川多は真面目なだけに仕事覚えも早く、何事もそつなくこなしてくれている。
引退して2年の川多は瀬戸にとって頼れる部下だ。
しかしどうしても真面目が過ぎて堅い。
「イタルーは、もっと弾けたところもあったから」
川多の現役当時からのニックネームで呼びかけ、瀬戸は笑う。
「ちょっとぐらい、社内報なんやからさ。弾けてもな」
「そうです、かね」
「そうよ。とりあえず、こう思うままに書いたら?」
オウルズの内野の要だった昔の川多は、明るくはつらつとした青年で通っていた。
瀬戸がニヒルでクールな若者でいたのとは真逆の路線で人気を博した、オウルズの看板選手の1人。
選手時代の先輩後輩から球団職員の上司と部下になりはしたが、瀬戸の中の川多のイメージは変わらない。
そして瀬戸も、川多から昔のイメージで見られているままだった。
「手直しは担当者がしてくれる。それに、ここでもアドバイスぐらいはな。みんなするから」
「そうですか、いいんすか?」
「ええよ。みんな困って来た仕事なのよ。あの、お互いさま」
「それなら、頑張ります」
川多の顔に笑顔が戻り、瀬戸は詰めていた息を吐きだす。
お茶を買いにデスクを離れ、これから何をするか決める。
メールチェック、オウルズの予定の確認。
習慣から始めて早く来た分早く帰ると意気込んだ。

「お、良い所に」
「おはようございます」
「いやぁ、お前も早く来てたとはね。助かった」
自販機の前に立つ瀬戸に声をかけたのは、瀬戸の上司の田上だった。
元オウルズ選手で現在は広報部部長の田上怜司(たがみれいじ)。
現役当時は二遊間を組み、歳も近く気の合うチームメイトでもあった。
その関係は今でも変わらず、瀬戸にとって田上は頼れる先輩だ。

「ちょっと、3階の喫煙所に来てくれる?」
挨拶から澱みなく田上は瀬戸に笑いかけた。
「マヒロの耳に入れないといけないことがあるんだよ」
「何すか、それ」
「いいから。とりあえず、おいで」
田上に手招きで誘導されそうになりながらも、瀬戸は待って欲しいと頼んだ。
川多に声をかけてからと田上に告げ一旦別れて、川多の元に顔を出した瀬戸はデスクの引き出しから電子タバコを取り出した。

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