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安全は作れるのか

皆さんこんにちは、こんばんは。martです。
職場なんかでよく「安全」という言葉を耳にします。
今回はこの安全について書き綴ってみようと思います。

皆さんの中には、特に工業系の会社なんかでは、朝のミーティングで安全標語を唱和したりしている人もいると思います。
その中に「安全職場」とか、「安全文化」とか、一番有名なのだと「安全第一」とかですかね。

では、安全というのは何に対してなんでしょうか?
最近では働き方改革!なんて言って時代が変わっているような気もしますが(質が落ちてるだけな気もしますけど)、多くの会社の特に経営陣は製品とかのお客さんに関わる部分について安全を求めがちです。
その安全は、品質だったり、個人情報の管理だったり、納期だったり、要するに「利益に影響を与えるトラブルがないように」というのが「安全」であるという会社もあります。

一方で、日本には労災という制度があります。
通勤から退勤までの間、仕事に関わる全社員のケガを仕事中のケガとして扱い、必要に応じて会社がその個人の権利を守りなさいと国が言っているわけです。
でも、労災は面倒なので、ケガをすると有給にしといたる!とかってにケガしただけだと病院で説明するように圧力をかける会社も多いですよね。

この労災が発生すると、会社は対応しなくてはならないので、先ほどの納期が怪しくなり、労災で休んでいる人がいると、品質の低下も考えられますし、いろんなリスクが高まるわけです。
なのである程度ライトグレーな会社は、社員の安全も守ろうという活動をするわけです。
残念ながら、多くの会社で社員の安全は二の次、もしくはついでくらいな感じだと思います。

ちょっと脱線しました。
では、皆さんの言う安全とは、何に対しての安全でしょう?

最終的には自分の命に対するものだと思います。
命を守るために安全に行動するんですね。

ただ、誰も事故やケガが好きな人はいません。ミスするのが好きな人もいません。

でも、事故もケガもミスも起こりますよね。

はい、この手の話になると会社の自称おりこうさんな高学歴しか取り柄のない中身すっからかんクソ野郎が「ハインリッヒの法則」云々言いだして、ヒヤリハット活動しろとか言い出して報告書を増やすんです。
報告書が増えて時間が無くなり、作業が適当になって事故るんですよね。でその報告書をまた作ると。ひどい時は、要領書に書いてなかったから事故ったんだから要領書を全数見直せとか言い出すんですよ。
そんなんで事故が無くなるわけないじゃないですか。

僕からすると、「安全を目指す」というフレーズは、子供が「大きくなったらゾウさんになるんだ!」と言っているのと変わりません。

「後悔先に立たず」と言いますよね。後になって悔やむから後悔なんです。
事故起こすと、ケガすると、ミスすると…後悔しますよね。
事後になれば対策なんていくらでも出てくるんです。実際にコトが起きてるので、あの時こうすればよかったって言えるんです。終わってから偉そうにあーだこーだ言うジジイがいっぱいいるじゃないですか。
それが想像できなかったからコトが起きた。そのジジイだってじゃあなんでその時止めなかったんだと問い詰めると、きっと「そんなことになるとは思わなかった」と逃げることでしょう。コトが起きたことは要するに安全ではない状態だったということです。
安全を目指していたけど、事故が起きたから危険だったわけですね。

実は、安全というものはその真逆です。
事故が起きていない今、過去を振り返った時に安全だったというだけです。
要するに安全は未来にはないんです。
未来にないものを目指すってのはムリですよね。

だから、さっき出たヒヤリハットってのは一理あるんです。ハインリッヒも間違っていません。
事故に至ってない、おっと危ないというヒヤリやハッとしたことを放置しないという運動です。
放置しないということは改善するわけですから、要領の見直しなんかより、現場に行って実務を知って、疑問に思うことを探したり現場の苦労を身をもって体感することが大事です。

現場主義という言葉も現場が偉いと言っているわけではありません。机の上で御託を並べても、何回会議を重ねても、現場の経験がないと本質は見えないということです。

日本の悪い文化として略語があると思います。略さないと長くてたまらんという名称を付けるのが悪いと思いますが、最近では略さなくてよくね?ってことも略されてたりしますよね。(息子がジェットパックをジェッパって言ってて略したいだけじゃんと思いました)
略すこと自体は別にいいんですが、最近だと小池百合子都知事の発信がそれにあたると思います。
耳なじみがいい(これは大したもんだと思いますが)がゆえに、その言葉ばかり独り歩きし、言葉自体は知ってるものの、内容を知らない人がいっぱいいるみたいなことが起こるわけです。
まぁ、政治家が多くを語ると切り貼りされて真逆の報道をされるのでリスク回避なのかもしれませんが、あ、あと、言葉が独り歩きするのは、言葉のとこだけメディアが取り上げるからかもしれませんね。さすがマスゴミ。

戻りますが、結局のところ改善するしかないんです。
改善に要領書の作成は含まれません。ソフト対応ですから。
厳密に言えば含まれますが、絶対に本質ではありません。

例えば、回転部に触れてケガをしたとします。
この自称の本質は「要領書に回転部に触るなと記載がなかった」ことでしょうか?

違いますよね。

「回転物がむき出しになっていた」からです。
なので、改善として要領書に「回転物に触れないこと」と追記するのは本質的ではありません。
回転部にカバーすればいいだけです。

現場に行って回転部がむき出しになっていれば、人間は本能的に危ないなと思うわけです。
危ないなと思うことを徹底的に潰していくのが危険の芽を取り除くことなんです。

そういった時間を、太古の昔に起こった事故の是正として追加された報告書の作成に取られ、現場と管理部門はますますコミュニケーションを取らなくなり、その文化で育った若手が管理職になったら現場の管理を紙でするんです。
それが現代なんじゃないですかね。

僕は今、問題が起こった時に何が本質的な悪さなのかをジャッジし、効果的な改善をさせる部署にいますが、要領書要領書と言ってくる他部門の改善に辟易しています。

かつての技術大国と呼ばれた日本。
資源がない我が国が、再び技術で世界を驚かす日は来るのでしょうか。

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