”目指す子ども像は?”
こんにちは
Yushi(ゆーし)@探究の教師というアカウント名で発信してます
ゆーしです。
今回、ましゅまろの会では、「目指す子ども像とは?」という題で、ましゅまろトークをしました。
その中で考えたこと、感じたことについて言語化していきたいと思います。
1. 教育とは「恣意的に子どもを変える営み」
「学習者主体」「子ども主体」という言葉が当たり前に語られています。一方でどの学校にも「学校教育目標」があるように、目指す子どもの姿が設定されていると思います。
「子ども主体」に子どもを”変える”
私はなんともここに大きな違和感を感じていました。
今回のましゅまろトークによって感じたのは、
教育とは「恣意的に子どもを変える営み」
だということ。
どんなに美しい言葉で掲げていてもそこは変わらないのではないかと思うのです。
2.理想の子ども像は本当に正しいのか
先ほど教育とは「恣意的に子どもを変える営み」であると書きました。その事実からは逃れられないとした時に僕らができることは何か、
それは「目指す子どもの姿が正しい」と言えることではないかと思います。
しかし、今のブーカの時代、昨日あった正しさが、今日正しい保証すら無くなっていくと言われています。だからこそ時代の先を読み、
自分の「目指す子どもの姿」をアップデートし続けること
が重要になってきます。
そう覚悟し、行動し続けることが教師に求められる大きな役割の一つなのではないかと感じました。
3.普遍の目指す子どもの姿
ましゅまろトークをさらに進める中で見えてきたのが
「自分らしさを出せる子」と「他の子の自分らしさを認めることができる子」
というものです。
各々が目指す子ども像がたくさん出てきましたが、この二つに集約できるのではないかと感じました。
これはまさに教育基本法第一条にある
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
という教育の目的と重なるのではないでしょうか
また、X(旧Twitter)で
よしさとさん(@ysst_manabiai)
まさやん@グラレコ喫茶のマスターさん(@succhang55)
が示している表から考えると
鍛えるという視点の「人格の完成<自立>」と
つながりをつくる「社会の形成者<共生>」
というふうに言い換えることもできるかもしれません。
様々な言葉が目まぐるしく生まれてはいますが、つまるところ、大事なことはそんなに変わってはいないのかもしれません。
(ただ、今後も正しいかはわからない)
4. 理想の子ども像と子どもの思い
では、理想の子どもの姿を目指して教育をしていこう!!と決めて、行動してうまくいくのかというとそんなことはありません。
子どもには一人一人思いがあるからです。
「そうしよう!」と思う子もいれば
「そんなこと知ったこっちゃない。俺はこっちがやりたいんだ。」
という子もいます。
そういう中で僕たちはどうしていけばいいのでしょうか。僕自身、今最も問題意識をもっているのがここの部分です。
「理想の子ども像」と「子どもたちの思い」
そこをどう繋いでいけばいいのでしょうか。
理想を重視すれば子どもは離れます。
かといって、子どもの思いだけで学びを担保できるのか。理想の子ども像に子どもたちが成長していくことはあるのか。
5.教師の在るべき姿との往還
「理想の子ども像」を追ってきたはずの僕らはいつの間にか
前回のテーマである「教師のあり方」に問いが変わっていました。
その中で言えることは
・子どもを理想の子ども像に育てるためのあり方
・子どもの思いを大事にするあり方
ここにつながってくるのではないかなと思います
その瞬間瞬間を捉え
揺らぎながら
そのはざまを生きる
そんなあり方が見えてきたのです。
6.終わりに
今回とても面白いなと感じたことは「目指す子ども像」で話し合っているはずが、いつの間にか「教師の在り方」の話題に変わっていたということです。
子どもという他者を育てるという営みは、他者を見ることだけではなくて
自分自身のあり方を問い続けることなんだなと感じました
だからこそ、ましゅまろの会をはじめ、対話を通して自分自身を見つめる機会を自分で設けていくことが大事なのだと感じました。
今日はこれでおしまい。
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