見出し画像

曹洞宗の読経スタイルに思う事

ときどき曹洞宗のお経を聴く。昔、CDを買っておいたので。

殊に「修証義」など聴くが、それのみでなく曹洞宗はとても平板に読み上げる。変化のあるのは「さて、このあとは皆で読みますよ」というように経題の末尾を伸ばす部分くらいで、ほかは新しい舗装路のようにつらつらと抑揚のない読経が延々とつづく。

このことは、一端には平板にすることによって数人伴って読み上げやすくしているのでもあろうし、それがほんとうのところかと思う。

ただ、そこにもう一つの効果を見出さないわけでもない。

曹洞宗について、また開祖道元についても私はよく知っているわけでもないが、その中心には一切衆生悉有仏性への問いがあると感じている。

仏性が凡百の生にそもそもあるとしながら、なぜその殆どが迷いのなかにあり、問いの無間のうちにあるのか。この問いに道元は悟りに迷い、迷いに悟る私たちを発見する。「そのようにある」をそのようにあると受け入れられず、あるらしい覚者へと動かされる、それは迷いにほかならないといい、そのようにあるものをそのようにあるままに受け入れるとき仏性が見通せる。仏性とは、有るということそのことであり、仏性のゆえに迷いがあり、修行があり、生があり死があるという。

ここには般若心経などに見える空の論理にも似た逆説を感ずる。つまり、色は空であり、空は色である。色が空ならそれを感受する受も空に発つ現象であるところの空であり、つづく想も空であり、さらにつづく行も識も空である。ゆえに五蘊とはいずれも空である側面をもっていることになる。

読経にもどると、修証義を例にするとこう読まれている。

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。生死のなかに仏あれば生死なし。ただ生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし。このときはじめて生死を離るる分あり。

修証義 総序 冒頭

これが全く平板に、抑揚なく、また音が等分されて読まれる。

ショーヲアキラメシヲアキラムルハブーケイチダイジノインネンナリショージノナカニホトケアレバショージナシタダショージスナワチネハントココロエテショージトシテイトーベキモナクネハントシテネゴーベキモナシコノトキハジメテショージヲハナルルブンアリ

同上

お経らしいお経といえばいいか。
これは数人で読まれるのが普通らしく、人であるかぎり息継ぎを必要とするが、あるひとりが息を吸い込むうちにも読経は平板に滞りなく進んでいく。銘々に息を継ぎつつその間他の者が読み進めて、息の整ったところで途中から読経に復帰していく。これが繰り返される。平板に読むことに何か意味があるかのようだと思う。

その復帰の仕方もおそらくは単語の頭から始めなくてもよさそうだ。息が整ったところがそこならば「…ゴーベキモナシ」と入ってよいのだろうと思う。というのは、さっき記述した空の体現でもあるからだ。

言葉は意味をもつが、言葉は音によって形成される。音が言葉になるのは私たちの認知によって顕わとなるのであって、その音は言葉となってもなお音であり、すなわち空に属し続けていると読み取れる。

よって、曹洞宗(他宗もそうの場合があるかもしれんけど)の読経とは色即是空空即是色の体現になっていると聴くことができる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?