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憶測で書かれたBURNへの解釈

今回はTHE YELLOW MONKEYの1曲「BURN」について解釈してみたい。

※注意
人によっては以下の内容が徒に不快にする可能性があります。特に性被害の経験がある方には。
ご承知おきください。

「BURN」はTHE YELLOW MONKEYのボーカルをつとめる吉井和哉による歌謡作品。

wikipedhiaによると発売は1997年7月とのこと。なんかのドラマのために作られた楽曲らしい(このへんの詳しいことは詳しい人に聞いてください)。なんかのインタビューでドラマはある季節のものだったが、無理を言って(?)「夏の海とか冬の街とか思い出だけが性感帯」というフレーズを入れてもらったとかなんとか答えていた記憶がある(これもうろ覚えなので気になる人は調べてね)。

以下は公式チャンネル(Youtube)によってアップされたPV。

この映像作りも相まって最初に聴いたときは単に自分の過去(その中で去来した人々)との関係を歌っているようにも思った。

フラッシュバック(映像技法)で幼少の自分と今の自分が手を振り合う(その後幼少のほうが共有を求めるように抱く人を振り返るのが印象的)、このPVはひとつの完成度の高い観念的な作品だと思う。PV監督はこの辺から高橋栄樹がやっていて、彼の作品はとても映像のなかに観念的なイメージを入れる印象がある。

さて、歌詞のほうを見ていく(映像のほうはやっつけるには時間も掛かりそうなので)。

赤く燃える孤独な道を
誰のものでもない髪をなびかせ
道の先には蜃気楼
あの日を殺したくて閉じたパンドラ

吉井和哉「BURN」より。以下同

詩というのは大抵、冒頭というのは何を言っているか分かりにくいものだ。ここはとりあえずイメージだけを遊ばせて読むのが良かろうと思う。ただ、ここで個人的なキーワードを探してしまうことには注意を払いたい。とくに抽象度の高い語については保留する。例えば哲学で「無限」と言ったとき、注釈が展開されるまで「無限」が指しているものが何なのか、下敷きにしている語の系譜が不明であるとき、語は揺らぎを孕んでしまう。揺らぎは安易に自分の思うその語とつながる観念に引き寄せてしまうので、どういう意味で使用されているかは判断を停止しておく、ということだ。

「赤く燃える孤独な道」という場合「赤く」「燃える」「道」はまだ即物的に理解できるが「孤独」についてはその意味内容を保留にしておくことになる。「誰のものでもない髪」「なびかせ」「道の先」「蜃気楼」もそのまま受け取ろう。「誰のものでもない髪」だけが少し引っかかりを覚える。普通の感覚では、髪はそれを生やしている者のものであるから。私がこれを最初に聴いたときには一本道のある赤いトーンの絵に、丁度人が立ったときにあるあたりの高さに、髪だけが浮かんでいるというものになる。シュールな絵で、何を示していることになるのかは分からない。ただ、指示されている対象に人称を感じさせない、やや不気味な映像を印象づける。

「あの日」というのも何を指しているのかにわかには判断できない。

ただ、それは「殺した」いものらしいことが言明される。ここをまずつなげてみると、「赤く燃える」「孤独な道を」「誰のものでもない髪を」「道の先」「蜃気楼」といった語が相互に意味を濃縮するように不穏さへと修飾されていく。「赤く燃える」道なので、そこは熱を帯び、人の通る条でありながら、人が通ることを困難にしていて状況が浮かび上がってくる。そこには苦痛が伴っている。そして「孤独な道」であり、この身悶えが誰にも振り返られないということを意味しているように見えてくる。

すると「蜃気楼」はその「道の先」にあって、遙かに遠いものである。

「あの日」はあるいはこの道を作り出した元凶となる時間なのかもしれない。それを「殺したくて」閉じられる「パンドラ」の匣はすなわちこの時間自体を窒息させる、というか意識から忘れ去るということのように読める。

これはトラウマ体験に伴う現実感のなさや現実の遠さ、そして抑圧を意味しているのではないか。

悲しい気持ち
ないわけじゃない
遠い昔になくしてきたの

と続く詩行は、その解釈へと確信を深くさせる。トラウマ体験ではある時期の記憶が抜け落ちるという場合がある。しかし、過去を全く消失しているのではなく、むしろ現在へと過去の体験をフラッシュバック(心理学)という現前化によって認知を編集してしまう。

限りない喜びは遙か遠く
前に進むだけで精一杯
やわらかな思い出はあそこに仕舞って
BURN BURN BURN BURN BURN ……

「限りない喜び」はほんとうの現実であるところの「赤く燃える孤独な道」の先にある「蜃気楼」と合致する。「前に進む」ものは「赤く燃える」生存の限界を超える苛烈さをそなえた生存への道へと踏み出しているので「精一杯」なのだ。また、「前に進む」といっても「赤く燃える」道を前進しているのではないとも捉えられる。「孤独な道」で立ち尽くすこと、立ち尽くしながらそれと気取られないよう現実、日常をかわしていくこと、その現実的社会的な時間を経過することがどうにかこうにかであることを「精一杯」といっているのでもある。「遙か遠く」の無限遠の地点に見える「蜃気楼」であるほんとうの現実へ近づくだけの余力はそこにない、ただ突っ立っているだけでもうやっとなんだといっているようにもみえる。ここまでの流れから「やわらかな」という語には官能的な印象を伴う。この「思い出」はなんの思い出なのか。「あそこ」とはやはり抑圧の匣のことではないかと思う。

夜は薄紅色の夢を見て
朝は希望のブラインド
開けることなく
せめて
体だけはきれいに
かわいい かわいい さびしくはない

「薄紅色」はまた官能的な色として捉えることができる。その後の「朝」はより強い光を伴う時間とでも言えようか。だから、なのか、「朝」へとは開かれない。現実の遠さと遠ざけざるをえない痛みが存在しているのかもしれない。ここに現われる「体」が誰のものなのかは問われなくてはいけないが、当面は語る主体の体ととらえることはできる。あるいは……あるいはここにもう一つの体があるのではないか? それは、新しく生まれた者の体。なぜそんな風に考えてしまったのか、もう一度歌詞を振り返ってみると、性被害のニュアンスが感ぜられてくる。

「誰のものでもない髪」とは何だったのか。最初こそシュールな映像としてこれを解釈したが、ここには話者の主体性を不在化させた事象が絡まっているように思わせられてくる。他者によって蹂躙され、自分のものとして感じられなくなってしまった身体、それを事象のなかで主体性の交代を象徴するものとしてはたらいたであろう髪に象徴させているのではないか。
では、「赤く燃える孤独な道」は誰にも賛同されない者が通り抜けて生まれ落ちる産道として読み直されてしまう。

このような解釈の転換によって、歌の様相は一変して、性被害的な解離症状として理解できてしまう。

夏の海とか冬の街とか
思い出だけが性感帯
なぜか今夜は眠ったはずの
魂が燃える
hold me hold me hold me hold me

「夏の海」「冬の街」はいずれも大枠の言い方ではあるが、主体にとってもっとも端的にある具体的な事象を言い表し、記憶にあるある一場面なのだろう。それが現実的実感の強い時間であって、それへと向かおうとする、向かおうとしてしまう、しざるを得ない衝動に変わっていく。

飛べない鳥はとりのこされて
腕や背中は大人だけれど

身体的実現可能性と心的実現不可能性のあいだに主体がある。

限りない喜びは遙か遠く
人に話すだけで精一杯
やわらかな思い出は心に仕舞って
BURN BURN BURN BURN BURN

新たに飛ぶために、主体は記憶を焼き付くそう、消し去ろうとする。それがBURNってことなのかもしれない。

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