安静記

……風邪?

 週明けから風邪をひいている。鼻の奥の地平の砂漠化が進行し、熱砂をなめる呼吸は潤しはしない洟をとめどなく誘引する。ただ気だるさや発熱といった他の症状はなく、鼻のあたりだけの風邪である。
 翌日になっても症状は回復せず、むしろ喉まで痛みはじめた。腫れを感じさせる程のものではないが、念のため職場に休みを通知して、病院へ行ってみることにした。


分析化学の記憶が噴出

 より生存するほうへ変異した新型コロナウイルスは、最後に風聞した記事によるなら、鼻の粘膜に増殖し鼻風邪様の症状を呈するらしく、その可能性もなくはないかと思われた。病院へ打電する前に、まずは家に残っている抗原検査キットでセルフ検査してみることにした。
 綿棒を自力で鼻奥へ差し入れるのは、以前のような恐怖はなかったが、ただでさえ過敏になった神経が刺激され、辛うじて奥壁に突き当たるまで耐えたところで嚔を連発した。放ち垂れた無様な洟をティッシュで拭い取り、綿棒を試薬に沈めサンプルを作製、これを反応カセットに滴下して、じわじわと薄紫に湿潤していくろ紙を眺めた。
 これを見るたび、ペーパークロマトグラフィの実験をした記憶が蘇る。ペンの色彩を構成する複数の色素は、それぞれ紙と水とに固有の親和度をもち、毛細管現象で紙の中をはしる液体としばらくはともに移動するが、各色素のその親和性に基づいて、ある地点で色がろ紙に定着し、別々の地点に分離して居を占めるのだという。クロマトグラフィが経験的に分かりやすく簡便なこの分析法は、分析化学の最初にやったきり、その後の授業や実験には用いられず、もっぱら機械分析に時間をゆずったが、実用的に、この分析と再会しようとは思わなかった。
 今、原理を検索してみると、以下の仕方で抗原を検出するという。すなわち、ろ紙の始点に標準抗体が封入されていて、これに滴下したサンプル中の抗原(存在する場合)と結合したのち、毛細管現象によってろ紙を浸透する。陽性だったとき発色するTラインには、抗原を補足する抗体が固定され、補足したときにのみ発色する(つまり抗原が存在する)。さらに遠方にCラインが設定され、ここには標準抗体を補足する抗体が固定している。
 判定方法は今さらくどくど書くこともないか。抗原量が多くTラインで抗体を消費しつくし、Cラインに到達しないこともある気がしたが、量的に十分な標準抗体があり、Tラインの抗体量を上回るならCラインのために残る抗体は存在するということだろうか(憶測です。鵜呑みにしないでください)。

いざ病院

 さて、結果は陰性であった。ではインフルエンザだろうか? それにしては平熱である。ともかく以前にも行った病院へ電話してみたが、その日あいにく発熱外来の担当医がいないとのことで断られた。別の病院へ電話してみると、診察してもらえるようだった。
 久しぶりに来るこの病院は改装されて今時の明るいフロアになっていた。最後に行ったのは高校のときじゃなかったか。耳に虫が奥に入って動くし痛いしで診てもらった記憶がある。ひょっとしたらその後にも視力検査は受けたかもしれないが、いずれにしても高校以来じゃないかしら。実際はどうだったか、ただ、薄暗いイメージがあるのは異質な空間という認識のためもあるだろう。
 受付を済ませ、呼び出しがあるという診察室の前の長椅子に座った。感染症には違いなく、ほかに待っている人たちとの距離が気にかかる。周囲にいるのはいずれも白髪の人ばかりである。まもなく看護師の方が症状を尋ねに来たが、やはり辺りを見回し、距離がとれる場所を検討する素振りのあと「近くに人が座ったら離れてくださいね」と伝えられ了承した。加えてインフルエンザともう一度新型コロナの検査をしますと伝えて診察室に戻っていった。
 やがて処置室から名前を呼ばれた。昔インフルエンザで綿棒を突っ込まれたときは、いつまでも擦られた場所がジンジン痛み辛かったが、今回はあっけないほど何ともなく採取が終わり、また待合の長椅子で座っていた。いくらも待たないうちに今度は診察室に通された。
 担当医の後ろに研修医だろうか、もうひとり座っていた。その人とはついに話すことがなかった。担当医は先程の検査結果がどちらも陰性だったことを伝えたのち症状と病前の環境について尋ねると、胸と背中に聴診器をあてた。
 結果は「まあ風邪」という診断がくだり、症状を和らげる薬を処方してもらって院をあとにした。

微妙すぎる症状

 病院から帰ってきたが、なんだか落ち着かない気分である。症状が中途半端すぎ、悪寒も吐き気も発熱も、そういった体調悪さがないので、咽喉を除けば健康みたいな状態である。帰り道にコンビニに寄って、駐車場から職場へ連絡したが、今日は休むようにとのことだった。

早退

 翌日、起床して熱を測ってみる。36度弱、いつもの低体温である。のどの症状は多少残っているものの軽くはなっていた。医者も感染予防しつつなら仕事には出ていいと言っていたので出勤した。
 が、出勤後1時間ほどしてやたら咳っぽくなり、洟も出るし目はショボショボしはじめたので熱を図ると36度8分、これはダメだと思い早退した。
 どうせ休むならうず高き積読を切り崩そうかとも思ったが、潤みやすくなった目ではそれも困難だとふて寝することに決めた。
 さらに日が明けて今日に至るが、症状は良くも悪くもならず同じ調子を維持している。ただ熱はない。熱はないが動いていないからかもしれない。動くと症状が顕在化してくるこの中途半端な状態は、判断がしづらいのでやめてほしい。昨日のこともあるから、もう一日休むことにして、いまベッドに寝そべってこれを書いている。

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