親ガチャとレゴ

 親ガチャという言葉が流行った。最初はあまりにひどい言葉に思えたが、よくよく考えてみたら何も当たり前の言葉である。ガチャに外れはないのだから。以上。

 ガチャはおもちゃであって、遊びであって、そこに善いことも悪いこともない。人生だって遊びであって、そこに善いも悪いもあってたまるかと思う。これは言葉遊びだが、言葉というのはおもちゃであって、本来は遊ばないといけないはずだ。それだけが、AIに出来ない言葉の使い方ということになる。

 学校の担任の先生は選べないが、そこに当たりも外れもない。そう信じるしかないので、信じることが嫌いな科学テキな人間は徹底的に科学をしてみたら良い。今日も日本中で子供が生まれている。残念な親に産まれた子供たちが可哀想だなんて、意地悪にも程がある。完璧な親の元に生まれた子供たちの人生だって、主観的には悲劇であって、客観的には喜劇で、それはみんなに当てはまる。スタンドバイミーを見ればわかる。

 レゴブロックで遊ぶときに、このパーツが足りないから残念とか、そういうことは大人の勝手な見方に過ぎない。レゴブロックはおもちゃであって、ただ手元にあるパーツをがちゃがちゃと組み合わせて、それがすべてだった。レゴブロックに説明書と完成図がついていたら、もうそれはおもちゃでは無くて道具に過ぎない。道具はいつも目的のための手段であって、道具から新しいものは絶対に生まれない。遊ぶことは常に孤独で、誰とも共有できない自分ひとりの世界なのだが、それに耐えられない大人のために完成図が用意されるに至った。でも、新しい価値というのは遊ぶことでしか生み出されない。親、先生、友人、自分、すべてがおもちゃであって、目的のための道具にしてはいけない。 手元のおもちゃをただ孤独な楽しみのために組み合わせてるうちに、新しいものが生まれる。

 神は死んだ。だから完成図なんてどこにもないのであって、やっぱりガチャに外れもない。ただのゲームであるというのは、この宇宙の話。まずもって、神様じゃないのだから、完成図通りに人間ごときが生きられるわけなくて、そういう信仰はドMもしくは傲慢だと思う。

 

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