見出し画像

好きな人を好きになりたい

塩入冬湖さんの、弾き語りに行きました、初めて。

大失恋した時にFINLANDSを知って、狂ったように聴いて歌詞を眺めて自分の経験に落とし込んで、「喜んで失ってあげる 人は失う事が得意なんだから」という歌詞にこれでもかというくらい救われたあの頃から、もう4ヶ月。

ソロの曲の方はあまり詳しくなかったけれど、ちょうどいい日にちがあって申し込んだ。FINLANDSの曲と同じように、愛に溢れた曲と、愛に溢れたトークが素敵な空間だった。普段だったら怖くて目も合わせられないような風貌の男の人たちが、ライブの最前列を陣取って、静かな空間で愛おしそうに冬湖さんの歌を聴いていたあの光景を私は忘れられない。

一人一人の心の中は見えないから分からないけれど、そうやって音楽を聴いていた人達はきっと、心の中に誰か一人でも大切な人を思い浮かべながら聴いていたんじゃないかな。だとしたらとっても羨ましい。わたしはあの空間で、こんなに愛に溢れた素敵な曲を聴いているのに、その曲に照らし合わせて思い浮かべられるような大切な存在が居ないと、気付いてしまった。その事が本当に悲しかったし、心が動いていない自分がいるのが悲しかった、悲しかったって思うのも、どこか客観的で自分の事じゃないよう。



先日、中学の頃の異性の同級生と2人で飲みに行った。相手は社会人で、私は大学生。過ごしてきた環境が大分違う2人だけれど、飲んでいる間はとにかく楽しくて、超くだらない会話でこれでもかというくらい、笑った。2人で飲みに行くことになったのは、その前にあったクラスの同窓会でなんとなくそうゆう雰囲気になったからなんだけど、なんかそうゆう、”この人いいな”ってどちらかがなってからの始まり方じゃなくて、お互い”なんかいい感じかも?”みたいな感じで始まるこの感じ、初めてでよく分からない。この場合どちらかがめちゃくちゃ好きになることってあるのか??一緒にいて超超楽しいし、むしろ大学の友達よりも自分の素が出せる気がしたけれど、好きになれそうかと言われたらなんか違う気がする。
それにもっと嫌だったのは、わたしは、ずっと一般的に望ましいと言われているルートでしか歩んでこなかった人間だから、自分の人生の周りにいる人たちのことしか視野になくて、だからこんなこと思いたくないけど、”           ”ってことを、噛み砕いて受け入れるまでに時間がかかってしまった、そんな自分が最悪だと思った。わたしは当たり前に、自分の周りにいる、自分と同じように勉強をしてきた人たちと知り合って、関係を築いて、その中でいいなと思った人と結ばれるのかな、なんて、そのことが当たり前になっていたから、恋愛感情が生まれるか云々の前に、その事が気になってしまった。結婚しない前提で付き合うならいつか別れる訳だし、それなら友達でいれる人とは友達でいる方がいいじゃんと思うし、でもわたしはまだ学生だから社会のこと何も知らないし、大学に行っている人の方が必ずしも良いとは限らないわけで、でもそんなことは分かっているのにね、条件で相手を見てしまうってこのことか、と思った。結婚なんて考えなければ、単純に付き合いたい人を選ぶことが出来るのに。好きとはなんぞや??状態です今。

過去の大好きだった人たちを振り返ってみても、もう今のわたしにはどこが好きだったのか分からない、わたしのことを好きだったから好きだったのか?と思うし、付き合う前は良くても付き合ってみたら直して欲しいところばかり出てきて、結局自分が1番可愛いんじゃんと思ったり。好きだから、一緒にいたいから、付き合ってその先に結婚があるはずなのに、その前に結婚に当てはめて条件を設定してしまったりして、本当に大事なのはそこじゃない、どれくらい気が合うか、どれほど優しくしてくれるか、一緒にいて楽しいか、ダメな自分も見せることができるか、わたしの大切な人を大切にしてくれるか、尊敬出来るところがあるか、とかもっと、人間として大切にするべきものが他にあるはずなのに。顔でだって本当は選びたくないけれど、わたしはタイプではなかった人を振ってしまった過去があるのでもう、そんなことは絶対にしまいと、だからこそ余計に見た目に執着するようになってしまったりして。わたしがめちゃくちゃ好きだった人達はみんな私のタイプでかっこよかったし、でもそんな理由で人を好きになりたくないなと思った、満足するくらいの恋愛を終えて。


今は別に、恋愛する気も無かったし、だから何も無いなら何も無いのが1番いいんだけれどね〜、ひとりごとです、冬湖さんの曲を聴きながら思い浮かべるような存在がいつかまたできたらいいな。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?