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開くことで安心する
開くことで安心するというのは、本当なのだろうか。
閉じこもることで安心するというのは、なんとなくイメージが湧く。
外界は何があるかわからない未知の世界だから、とりあえず安心できそうなところに閉じこもってみる。
しかし、危険から切り離されて、そこで一旦は安心したとしても、その安心は長くは続かない。
きっと不安が立ち上がってくる。
それはきっと、人間が、人とのつながりの中でしか安心できない動物だからなのだろうと思う。
閉じこもって、人とのつながりを切ったとしても、そこに安心はない。
避けようもない将来への不安が、すぐに立ち上がってくるだろう。
そうだとするなら、やっぱり「閉じる」のではなく、「開く」先に安心があるのだろうと思える。
「開く」のは一見危険であるように思える。
未知の世界に「開く」選択をしたところに、危険はあるかもしれない。
それでも、こちらの選択肢としては、「開く」しかない。
一旦は「閉じる」選択をしたとしても、最終的には「開く」しかないのだ。
開いた先の危険は、もしかするとワクワクする冒険かもしれない。
危険を乗り越えるために協力する仲間と出会えるかもしれない。
そのつながりの中にこそ「安心」はあるし、生きている実感を感じることができるし、自己実現の道もある。
閉じた先に自己実現はない。
未知の世界に「開く」ことには恐怖が伴う。
ではなんで「開く」選択ができるのか。
その選択ができるためには、内的な「安心」が必要なのだろうと思う。
養育者との関わりの中で育まれた内的な「安心」の感覚。
その二者関係だけは、こども側の感覚としては、閉じられていてもいいのかもしれない。
というより、そもそも、安心を得ようとして、人が閉じこもろうとするいうのは、もしかすると、その母子一体性の中に帰ろうとしているとも言えるかもしれない。
ただやっぱりそれは、乳幼児の二者関係の中に限られた話であって、社会での生活が求められるようになった状態で閉じこもろうとしても、それはうまくいくはずはないし、初めに書いたように、そこにきっと安心はないのだろうと思う。
開くことで安心する。
それを合言葉に生きてみようと思う。
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