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「日常」と「非日常」

非日常の世界に行くことで、日常も頑張れる。

夢の国に行ったり、好きなアーティストのライブに行ったり、自己啓発のワークショップに行ったりして、精神的なエネルギーを充電して、またつらい日常を頑張る。

そういうサイクルで生活を回していく人は多いと思うのだけれど、そこに、なんとなく違和感を覚えた。

古くから、日本には、ハレとケという考え方がある。

ハレ(晴れ)は冠婚葬祭や年中行事などの特別な日をさし、ケ(褻)はそれ以外の普通の日常的な生活をさす。

「ハレの日」はそうそうない。

ほとんど毎日が「ケの日」である。

しかし、「ケの日」ばかりでは気分も滅入ってしまう。

そこで定期的に、「ハレの日」を通じて気晴らしをし、心を回復させる。

そういうサイクルで回っていたらしい。

夢の国に行ったり、好きなアーティストのライブに行ったり、自己啓発のワークショップに行ったりして、精神的なエネルギーを充電する。

そしてまたつらい日常を頑張る、という現代のサイクル。

それも、以前から日本文化に存在する「ハレとケ」という考え方で説明できると思っていた。

しかし、なんだかそれとは様子が違うようだと感じたのが、最近のこと。

内山節の「時間についての十二章」を読んで、時間の流れには、「直線的な時間」と「循環的な時間」がある、という切り口を知った。

直線的な時間

直線的な時間は、因果関係がはっきりしている時間の流れ。

そこでは、何かを行った成果としての報酬が得られ、結果の成否は、その前にどのような行動をおこなってきたかということに原因帰属される。

そのような直線的な時間の世界では、すべての結果は自己責任であり、成功も失敗も、その人が責任をとることになる。

循環的な時間

一方、循環的な世界というのは、ムラや町、地域などの共同体の中での関係的な時間である。

毎年、春になると桜が咲き、種をまき、草をとったり水を撒いたりして夏を過ごし、そして秋になったら収穫し、冬は保存食を食べながら寒さを凌ぎ、そしてまた春になると桜が咲き・・・ということがぐるぐる回る。

ただぐるぐる循環する。そこには、進歩も衰退も基本的にはない。

原因と結果に焦点を当てるというよりも、ただぐるぐる回る循環という論理で時間が回っていて、共同体のメンバーとの関係の中で、ハレの日もケの日も、日々の生活を送っていく。

そういう循環的な時間の中での「非日常」と、現代の直線的な時間の中での「非日常」は、少し意味合いが変わってくるのではないか。

意味合いというか、個人が感じる感じ方、個人の体験が大きく変わってくるように思える。

循環的な時間の中での「日常(ケの日)」と「非日常(ハレの日)」

循環的な時間の中での「非日常」、いわゆる「ハレの日」と言われる日は、共同体のメンバーと共に「非日常」を過ごし、精神的エネルギーを充電させる。

そして訪れる「ケの日(日常)」を過ごすのもまた、同じ共同体のメンバーである。

「ハレの日」も「ケの日」も、基本的には同じメンバーで過ごし、つらい「ケの日」も、共同体のメンバーで支え合うことができる。

また「ケの日」での失敗や衰退も、その原因が個人の責任に帰することはなく、また循環してくる時間をメンバー全員で待つというスタンスである。

直線的な時間での「日常」と「非日常」

一方、直線的な時間の中での「非日常」は、多くの場合、「日常」の自分から離れることを期待する。

そのため、「日常」の人間関係とは切り離されたところに行こうとする。

確かにそこで、一旦の精神的エネルギーの充足はできるかもしれない。

ただ、その素晴らしい「非日常」から「日常」に帰った時に、その「日常」のつらさは、自分一人で抱えるしかない。

また、「日常」で、もし失敗や停滞があったとしたら、その責任はすべて自分に帰されることになる。

そうなると、「日常」と「非日常」が、どんどん乖離していくことになる。

「日常」にはつらいことしかなく、「非日常」は楽しいことしかない。

その「日常」と「非日常」は完全に切り離されたもので、少しの関連もない。

そういう「日常」と「非日常」の関係。

直線的な時間と循環的な時間の「非日常」の違い

最も異なるのは、「日常」と「非日常」が、完全に切り離されているかどうかというところ。

循環的な時間の「非日常」は、共同体のメンバーを通じて「日常」とのつながりをもつ。

「日常」とのつながりを持つ「非日常」での心の回復は、「日常」にも浸透し、また「日常」での心の安心につながる。

直線的な時間の「非日常」は「日常」との乖離が大きくなり、人によっては、「日常」をつらくするものになる。

カウンセリングという「非日常」

カウンセリングも「非日常」と言われる。

現代は直線的な時間優位の社会である。

したがって、もしカウンセリングが単なる夢の国的な「非日常」しか提供できなかった場合、それは上述した「日常」と乖離させるだけの、悪影響を及ぼす「非日常」となる。

そうならないために、カウンセリングではどのような場を提供できるか。

カウンセリングでは、「非日常」の場面で、直接的にあるいは間接的に「日常」を扱う。

「非日常」で「日常」を包むという感覚。

そうやって「日常」と「非日常」を完全に切り離すことなしに、どこか深いところでつながりながら、クライエントの話を聞く。

そういうかかわりをするからこそ、「非日常」が「日常」に染み出すような形で、変化が起こっていく。

それが、カウンセリングの「非日常」である。

まとめ

「日常」と「非日常」の違いを、直線的な時間と循環的な時間という切り口から論じてみた。また、その流れから、カウンセリングの「非日常」についても触れてみた。

カウンセリングは「非日常」と言われることが多い。

単なるカタルシスを与えるというだけでは、他のエンタメと変わらないなあと思うことが以前からあった。

今回、直線的な時間と循環的な時間という切り口から考えてみることで、自分なりの答えに辿り着くことができたように思う。

きっと、今後のカウンセリングにもなんらかの変化が現れるだろう。

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