側だけ変わる。

ピッツァーカレッジに編入するためにテスト対策や出願対策をしなければならず、海外進学のための予備校に通っていた。

「日本の大学から海外の大学への編入」というのは、海外進学する方法の中でも、「日本の高校卒業→海外の大学に入学」というルートを辿る人間の数よりも体感的にはかなり少なく、ネット等で検索してもあまり有益な情報が出てこなかったので、詳細に情報収集するのが難しかった。

しかし、通っていた予備校が、過去の卒業生をゲストスピーカーとして招き、それぞれの体験談を話してもらうイベント等をちょこちょこ開催していて、「編入体験談」がメインのものもあったりしたので、そこで何名かアメリカの大学に編入した方と知り合いになり、質問をすることが出来た。
「日本の大学の事務とどうやって話つけて色々な書類揃えましたか?」みたいな、かなり細かいけれども経験者に聞いてみたいことがかなり多くあったので、助かった記憶がある。

ただ、そういうイベントに参加していた時は、自分は「編入をしたいと思っている人間」で、ゲストスピーカーの人達は「編入学を達成した人間」であるという、大きな隔たりのようなものを感じていた。もちろん、入学して終わりではないので「達成」という言葉はおかしいかもしれないが、とにかく「成してない者」と「成した者」みたいな差を感じていて、ゲストとして話している人達が、自分と大して歳も変わらないのに、「非の打ちどころが無くて、何事も計画的に物事を進めて、常に冷静でいられる、悩みのない」完璧な人間のように見えていた。本当にそうかどうかは知らないし知ることもできないけれど、「自分も編入して「成した側」に行けば完璧人間になれるかもしれない」という希望もあった。

今まさに書きながら感じたが、「完璧人間になれるかもしれない」というのは、知性のかけらもないアホくさい文章だ。

いざ自分が、「成してない側」にいた時に「成した側」だと思い込んでいたサイドに自分がたどり着いたら、「あれ、こっちサイドに来ても全然自分の内面変わってないんじゃない?」という不安というか、焦りみたいなものが芽生えた。側が変わっても、毎日めちゃくちゃ悩むし、めちゃくちゃ反省するし、めちゃくちゃ慌てている。

中高合同で活動していた部活で、中一の時には、高二の先輩達が内面も外面も大人の完全体だと思っていたのに、いざ自分が高校2年生になった時に、「内面何にも変わってねぇじゃん」と、落ち込んだというか、「時間が自分を変えてくれるだろう」みたいな受け身で5年間くらいを過ごしてきたことを後悔した時の感覚に似ている。

同じような失敗をまた犯してしまった。
側が変わったからってすぐに内面もレベルアップするわけではなく、外側に追いつくために内面をレベルアップさせるトレーニングをしないと、いつまで経っても外側が変わっていくだけということに改めて気付いた。

先日、オンラインの会社合同説明会兼座談会に参加した。
「海外大学進学者」として入社したという社員の人達が、座談会に参加していて、みんな完璧人間に見えた。

みんな本当に完璧なのかもしれないし、そうではないかもしれない。
編入をしていなければ、2023年卒業予定者として今年は就職活動をしているはずだった。色々なことを盾にして、どうにかこうにか直視しないようにしていたけれども、いよいよどうにもならなくなってきた。

「御社」とか「お聞かせ願えればと思います」という言葉を真正面から言えるような内面を育てきれないまま、側を変えるための様々なステップを踏まなければいけないと思うと恐ろしい。全部見透かされて大失敗するかもしれないし、どうにかこうにかするのかもしれない。

留学を初めて早半年。未だに「日本人同士の会話でLAを「エル・エー」と呼ぶことが恥ずかしくてできない」という意識は身体中にこびりついている。




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