歴史で同じ名前は珍しくないけれど。
高坂Θです。無視できないほどに、公式記録との乖離が見られる
藤原弟貞さんについての検証を続けます。
弟貞さんの履歴については、前回の記事をご参照下さい。
話は出生前に遡って、「尊卑分脈」で父とされる
長親王に関する検証から始めます。
天武天皇皇子・長親王(666頃?~715)
母が天智天皇皇女・大江皇女という、当時として屈指の
血筋の尊貴さを備える皇子です。母を同じくする弟が弓削皇子。
そんな生まれの派手さに反して、当人の業績はほぼゼロです。
名誉職の類にも就かず、何かに従事していたという記録も無し。
皇族としての位の賜与などで、史書に名前が複数回出て来ますから
実在は確かです。子供は何人も居ます。けれど母方が不明な人ばかり。
藤原不比等の娘が母だという記録の有る、弟貞さんが例外なのです。
弟貞さんが687年生まれという記録から、当時の成人である21歳の頃に
不比等の娘を妻にしたという仮定が成り立ちます。
共通する、藤原不比等の娘という記述
不比等の娘は有名・無名がはっきり分かれています。
有名側は、文武天皇の夫人で聖武天皇の母である藤原宮子、
そして、聖武天皇の皇后:光明皇后の藤原安宿媛。
無名側は、長親王の妻とされるこの娘さんもそうですが、
橘諸兄の妻となった多比能(たひの、たびの)という娘も居ます。
そして、長屋王の妻となった長娥子(ながこ)。
安宿王・黄文王・山背王と男の子だけでも3人を産み、
かなり長屋王からも重要視されていた事が伺えるのですが、
当人の存在感は史書でも、小説や漫画でも多くの場合は希薄で、
例外は里中満智子さんの作品ぐらいでしょうか。
「続日本紀」での登場は一回のみ。神亀元年(724)の2月6日、
「従四位下の藤原朝臣長娥子に従三位を授ける」と記載されていますが、
以後は消息が不明です。いつ亡くなったのかも判りません。
仮にも、従三位の位階を持つ人が。
二人の弟貞
長屋王の息子の山背王は、740年に初めて位階を授かっています。
当時の成人である21歳になってから授かるのが当時の一般例ですので、
720年、又はちょっと前の生まれと仮定すると、687年生まれの人とは
30歳は年齢が離れている事になります。別人と考えるしかありません。
山背王が757年以降の「弟貞」だから、687年生まれの長親王の子を
「乙貞」とでも書いて区別しようか・・・こう書いて、ふと思いました。
女性の名前っぽいなあ、と。
「乙姫」と言えば弟の姫、つまり身分有る令嬢の姉妹、その妹さんのこと。
「貞」の字は貞淑とか貞節とか、女性に関する言葉でも使われる字。
そう突飛でもないかも知れないと思いました。
何よりも、当時は女性の天皇や上皇、女性の皇太子が存在する時代です。
女性の側近、女性の官僚や行政官が居ても、不思議ではない。
少なくとも女性天皇や女性皇太子がそう考えて、何の不思議も無い。
そんな思い付きを提示して、この記事の結論とします。
「乙貞」に成り得る女性が当時居たのか、というならば
らしい履歴の女王が・・・長親王の娘さんが存在したりします。
そちらの検証はまた別にまとめるとして、
弟貞さん別人説の検証を締めさせて頂きます。
お付き合い頂き、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?