歴史を算数で読む。
高坂Θです。まずは題名について。
歴史を読むにあたって、教えて頂きました。
どんな有名な歴史上の人物でも、誕生した時点でしっかりと
記録されているのは稀な部類で、大抵が信憑性の低いもの。
それでも年齢を特定できるのは、その人物の事を記した歴史資料に
「享年何歳」という記述が有るから、だと。
今は亡き橋本治さんの著作にて、教えて頂いた事です。
享年でなくとも、年表に記されるような歴史上の出来事の際に
当時何歳であったと書いてある場合も有ります。
あとは算数です。満年齢ではなく、数え年で記述されているのが
歴史資料では多数例ですので、そこは注意を。
その手法で、今回は一人?の人物を紹介します。
藤原弟貞(687~763)
さほど有名な人物ではありません。まずは略歴から。
父は長屋王、母は藤原不比等の娘・長娥子。王族としての名は山背王。
729年の長屋王の変では、母が不比等の娘だからと兄たちと共に
連座を免れる。757年の橘奈良麻呂の乱においては
母を同じくする兄・黄文王の乱への参画を密告し、
乱の終結後に功を賞されて、従三位の位階を授けられる。
これを期に臣籍降下、母方の藤原を賜姓されて「藤原弟貞」となる。
以後は藤原仲麻呂側の人物として官職を歴任し、763年に死去。
この翌年に起きるのが、恵美押勝の乱である。
総じて、ギリギリの所で難を逃れる人物といった印象です。
歴史資料の通りに書くとこうなりますが、出生年からして問題が有ります。
687年に、父の長屋王は何歳なのか?享年記録からは684年生まれ。
なので、数えの4歳・・・無理です!8歳年上との説も有りますが、
それでも父親の男性が数えの12歳で、子供が生まれるのは無理でしょう。
ついでに言えば、藤原不比等もまだ29歳の頃。娘は居たとしても、
妻になり、出産が期待できる、そんな年齢だとは思えません。
複数の資料を持ち寄ると。
「尊卑分脈」によると、弟貞という人物の父は長屋王ではありません。
天武天皇の皇子・長(なが)親王の子とされています。
長親王は一応の推定で666年頃の生まれ。20代、しかも早い内の子供という事になります。母は変わらず不比等の娘とされていますが。
弟貞の名前が載っている歴史資料は他にも存在します。「公卿補任」です。
「非参議 従三位 藤原朝臣弟貞」と、しっかり掲載されています。
ご丁寧にも、長屋王の子で母が不比等の娘であるとの解説付きで。
初出は天平四年、732年。それ以後も継続して記載され続けています。
略歴で書きましたが、藤原朝臣、そして弟貞と名乗るのは
757年の8月以降。なのに、25年も前から存在した事になっています。
天平四年は長屋王の変から3年が過ぎただけ。粛清された長屋王、
その子供を国政に関わるような立場に引き上げている?
疑問が次々と湧いてくる記述です。
さらに、国の公式記録である「続日本紀」は、天平十二年(740)の
11月21日に「無位の山背王に従四位下が授けられた」と、記します。
山背王の社会人としての履歴は、この日から始まったという事です。
ひとまずの結論。
740年以前から歴史資料上で存在する、非参議・従三位の弟貞は
長屋王の子息の山背王ではない、別の人物である!
という結論しか出て来ません。739年まで、山背王は無位なのですから。
ひとまず出た結論の、更なる検証を次の記事で行います。
複数の資料の記述を持ち寄るだけで、
こんなにも矛盾が発生する人物というのも、珍しいのではないでしょうか。
お付き合い頂き、ありがとうございました。
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