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歴史上の人物の結婚事情。

サンプル:藤原不比等

高坂Θです。今回は、過去の時代の結婚形態について書きます。
ご登場頂くのは、超有名人の藤原不比等。
父の鎌足は、藤原という氏を授かった直後に亡くなりましたから、
不比等が実質的な開祖でしょう。開祖の苦労も彼が背負います。

不比等が成人に至るまで

659年生まれの不比等。父の鎌足が亡くなるのが669年で、
数え年の11歳。その3年後の壬申の乱では14歳の彼に
何が出来るわけもなく、中臣氏の頃から所縁の有ったであろう
田辺史(たなべのふひと)一族の保護下で日々を送ったと思われます。
田辺氏は山背在住の渡来人系氏族で、山背を地盤とする中臣氏の
従属氏族、あるいは後援会的な一族集団です。
藤原「ふひと」の名は田辺氏の姓(かばね)に因むものとされています。

要はまだまだ中臣氏に所属する形で育ったわけです。
同じ山背の賀茂神社、その関係者である賀茂氏からも援助の一環として
出仕した娘さん、賀茂比売(かものひめ)が使用人的な立場で、
不比等の身の周りの世話などしていたのではないかと思われます。

成人、そして婿入り

成人に至るまで、実は成人後も、不比等が何をしていたか、
史書には何も記されていません。史書における初登場は689年、
既に天武天皇崩御後のことで、31歳の時です。
但しこの間に、正式な婚姻が為されているのは間違い有りません。
不比等の長男、武智麻呂(むちまろ)が生まれるのが680年だからです。

武智麻呂を、そして次の年に次男の房前(ふささき)を産むのは
蘇我氏の娘さんです。名は娼子(しょうし)又は媼子(おんし)。
彼女の父である連子(むらじこ)は当然ですが蘇我氏の男性で、
有名な蘇我入鹿の従兄弟にあたる人物です。
680年に武智麻呂が生まれているのですから、679年時点で21歳の、
当時の概念で成人に至った不比等と、婚姻が成立していた事になります。

当時の、そして平安時代までも続く、主流の結婚制度は「招婿婚」。
これは早い話が、親元に暮らし続ける娘さんの所に
男性の側が通って子供を産ませ、親権は父となった男性・・・「婿」に、
養育権は母方、多くの場合はその娘さんの父・・・「舅(しゅうと)」が
分担するシステムで、舅側では婿となった男性の立身出世を後援し、
婿の男性は舅の家業に参画し、舅の家の関係者つまりは妻の縁者を
社会的に引き立てて家業を繁栄させるよう努める。
そんな互助努力関係の締結でもあります。ビジネスです、まさしく。

そのように不比等と蘇我氏は互助努力関係を~と、書きたいところですが
当時の蘇我氏は、一族の成人男性を次々と亡くしている時期でした。
壬申の乱で、連子の兄弟の赤兄(あかえ)・果安(はたやす)が
大友皇子側に付いたため、自殺又は流罪。
連子自身は664年に既に死去しており、連子の長男と思われる
安麻呂(やすまろ)という人物は天武天皇派だったようですが、
壬申の乱の後、何年もしないうちに亡くなったと推測されています。
残ったのは672年時点では未成年の、不比等より何歳かは年上の
宮麻呂(みやまろ)、更にその弟の難波麻呂(なにわまろ)ぐらいでした。

この二人、際立って有能と思われる人では有りません。
結局のところ、婿入りした不比等が財産や人材的な後援を受けつつも、
蘇我氏から改名しての石川氏をも背負って立ち、社会人として世に、
当時の中央政界に出て行ったのでしょう、30歳以前、20代で。
立志伝と言うよりは、苦労人物語と表現するのが正しいかと。

不比等の子供たち

不比等の子供は年上世代と年下世代とが、はっきり分かれます。
別の記事で書いた、長親王の妻とされる娘さんは措いといて。
武智麻呂、房前と同年輩と思われるのが、文武天皇の夫人となる
宮子(みやこ)という娘さんです。母親は先述した賀茂比売。
招婿婚システムだと不比等が山背まで出張る必要が生じますが、
飛鳥の地で色々と頑張っている不比等に、そんな余裕は無いでしょう。
おそらくは側仕えとして、賀茂比売が飛鳥まで出仕していたのでは?と。
いわゆる、お妾さんですね。長屋王の妻になった長娥子(ながこ)という
娘さんも、賀茂比売が母であるという説が有ります。

年下世代では、まず藤原四兄弟の三番目とされる宇合(うまかい)から。
武智麻呂・房前の同母弟とされていますが、宇合は房前から数えても
13歳も年下です。現実として可能ではあっても、ちょっと無茶なのでは。
先程、不比等の妻たる蘇我氏の女性の名を娼子・媼子と二つ提示しました。
これは同一人物とされていますが、もしかすると姉妹又は従姉妹であった
かも知れない、そう考える事もできます。その方が縁組としても
強くなるわけですから。これなら13歳年下も無理ではなくなります。

四兄弟で四番目の麻呂(まろ)は五百重娘(いおえのいらつめ)という
不比等の姉妹とされる女性が母親です。近親婚をとやかくは言いません。
この女性はそれ以前に天武天皇の妻であり、新田部(にいたべ)親王という
皇子を産んでいまして。皇子の出生を680年辺りに仮定したとして・・・
麻呂の出生年は695年とされているのです。15年近く年齢が違います。
ですが、これさえも霞む実例が次に控えています。

後に光明皇后と称される、安宿媛(あすかべひめ)の出生年は701年。
母親とされる女性は県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)
後世の呼び方では橘三千代と呼ばれる女性です。
彼女は不比等の妻となる以前、美努王(みぬのおおきみ・みのおう)という
敏達天皇の子孫である王族男性の妻であり、3人の子を産んでいます。
牟漏(むろ)女王、そして王族から降りて橘を名乗った
橘諸兄(もろえ)・佐為(さい)の兄弟です。異父兄となる橘諸兄は、
安宿媛より17歳も年上。安宿媛が生まれた時、三千代は何歳なのか?
・・・推定では37歳になります。当時的にはとんでもない高年齢出産!
実は更にもう一人、多比能(たひの・たびの)という娘さんを産んだなんて
話も有ります、が。個人的に考えまして、三千代は「公的な」母であって、
三千代と共に不比等の屋敷に出入りしていたであろう、県犬養一族の女性に
不比等が手を付けちゃった結果ではないか、そんな推測をしています。

年齢を調べると見えてくるもの

蘇我娼子さんは700年頃には亡くなっていたのか、史書では三千代を
不比等の後妻(二人目の正室)としています。皇后の母君ですからねえ。

ならば37歳での出産を信じて、ついでに、娼子や五百重娘の出産年齢も
疑わないとするならば・・・藤原不比等は当時としてかなり珍しい、
年増女性を好む男性であった!なんて推測もできます。
大昔の人物の趣味嗜好を、歴史資料から無理矢理推定していますが、
こんな歴史の楽しみ方も有るのだと開き直って、記事の締めと致します。

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