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歴史的に存在した集団婚約発表。

高坂Θです。今回は婚姻の前段階、婚約に関する話を。
婚姻を約束するという事は、どういう意味を持っていたのか、を。

父なる天皇、母なる皇后への誓約。

壬申の乱から7年が過ぎた、天武天皇8年(679年)の5月6日。
天武天皇皇后(正確には、后たる鸕野讃良皇女と書くべきですが。
名は「うののさらら」と読みます)揃っての、さらに皇子6人を
引き連れた吉野行幸における出来事が「日本書紀」に記されています。
6人の皇子を日本書紀での記載順に並べますが、先に読みを。
くさかべ・おおつ・たけち・かわしま・おさかべ・しき
以上の六名です。年齢表記は数え年です。

草壁皇子:天武天皇皇子・18歳母は皇后、後に即位して持統天皇
大津皇子:天武天皇皇子・17歳母は皇后の同母姉の故・大田皇女
高市皇子:天武天皇皇子・26歳(母方は胸形氏・九州の豪族)
川島皇子:天智天皇皇子22歳(母方は忍海氏)
忍壁皇子:天武天皇皇子・推定で20または21歳(母方は宍人氏)
志貴皇子:天智天皇皇子・推定で18または19歳(母は越道君娘)

この6人の皇子が順番に、同じ誓いを立てて宣言します。
「助け合って、いがみ合わないと誓う。誓いを忘れず、背きません」と。
これを受けて、天武天皇が「皆を同じ母から生まれた6人の兄弟と考える」
という誓いを明言します。同席していた皇后も同様に誓いますが、
皇后の場合は「あなた方を皆、わたしの産んだ6人の兄弟と考える」
と、言った事になるのでしょう。

これにより、全員母親の違う(うち二人は父も違う)皇子6人
先の記述の順番を兄弟順とする、皇后の産んだ6人兄弟と見做し、
その原則に則った待遇が整えられる事になります。

誓約と婚約。

吉野の誓い・吉野の盟約などと言われる、この誓約に参加した皇子たちは
序列は有るにせよ、全員が「天武天皇の後継候補者」となったわけです。

逆に言えば、参加していない皇子たちは後継候補者とは見なされない
理由付けにもなりました。おそらくは参加者最年少の大津皇子より年下の、
磯城(しき)・穂積(ほづみ)・(なが)・弓削(ゆげ)・舎人(とねり
新田部(にいたべ)といった皇子たちには、参加した6人の皇子とは
明らかに待遇において違う点が有ります。

当時的に、最もわかりやすい待遇の違い。
それは皇子たちの、妻たる女性の出身身分で端的に示されます。

草壁皇子には天智天皇皇女の阿閇(あえ・あへ)皇女:後の元明天皇
大津皇子には天智天皇皇女の山辺(やまべ)皇女
高市皇子には天智天皇皇女の御名部(みなべ)皇女阿閇皇女の同母姉
川島皇子には天武天皇皇女の泊瀬部(はつせべ)皇女忍壁皇子の同母姉妹
忍壁皇子には天智天皇皇女の明日香(あすか)皇女
志貴皇子には天武天皇皇女の託基(たき)皇女忍壁皇子の同母妹

全員、皇女が妻となっています。継承候補者とはこういう事だ!と
明らかに示すこの婚姻をもって、盟約の証拠としたのでしょう。
盛大な、重大な婚約発表です。

ついでに年下の皇子たちの妻は・・・ほとんど、名前も出身も判りません
舎人皇子の妻が、王族の末裔の当麻(たいま・たぎま)氏の出身だと
記録されているぐらいで、皇子たちの子供は多くの場合、母親が不明です

次なる時代へ。

679年の吉野における婚約発表の後、次なる時代の主役が生まれます。

まずは、皇太子となった草壁皇子阿閇皇女の夫妻より、
680年に生まれるのが後の元正天皇氷高(ひだか)皇女
683年に生まれるのが後の文武天皇珂瑠(かる・とも表記)皇子
高市皇子・御名部皇女夫妻より、684年に生まれるのが長屋王です。

この他で歴史資料に記されているのが、志貴皇子・託基皇女夫妻の子である
春日(かすが)です。が、この人物の出生年は記録が無く、
723年に初めて位階を授けられた時点を21歳と推定すると、703年
何故こんなに遅くなるのか。一つに、679年時点で託基皇女の年齢が
推定で9歳だから、という事が有ります。当時は婚約しただけでしたか。
そこから7年が経って686年に、天武天皇の健康回復祈願の為か、
この皇女が伊勢神宮に派遣されます。12日後に戻っては来るのですが、
天武天皇の崩御、そしてその後の騒動に巻き込まれたりしたのかも?
実際、母を同じくする兄や姉、姉の夫は巻き込まれたもようです。

それで結婚が許されなかったからこそ、未婚の皇族女性が務めるとされる
伊勢神宮の斎宮に、文武天皇即位後の698年に任命される理由になる、
のかも知れません。701年に別の皇女が斎宮に任命されまして、
藤原京へ戻り、ようやく結婚・出産という流れが実現したのでしょうか。
時代は更に次へと進み、施行された律令によって、皇女の称号が内親王と
変更されて・・・託基内親王、推定33歳での出産です。
平均寿命が30歳ぐらいの時代で、まず稀な高年齢出産になります。

託基内親王は長寿の人でありまして、亡くなったのは751年です。
上記の推定からすれば81歳春日王は745年の4月に亡くなりました。
実はこの1年ほど前の744年のうちに、聖武天皇の娘で斎宮を務めていた
井上(いのえ)内親王が平城京に戻って来ているはずで、
健康状態次第では、春日王が井上内親王の夫になった可能性が有ります
斎宮経験者同士の、義理の親子関係が成立したかも知れないのです。

ちなみに、井上内親王の夫となるのは春日王の異母弟、白壁王
毎回出て来る気がしますが、770年に即位する、光仁天皇です。
盟約参加の六番手、末席であった志貴皇子の息子が天皇位を継承しました
井上内親王は皇后になりますが、後に悲惨な結末を迎えます。

誓約、そして婚約の年から90年が過ぎて、当時の想定に無いはずの
結果が、歴史となって現代まで繋がっているのでありました。

お付き合い頂き、ありがとうございました。

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