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PL学園硬式野球部一年 「作詞家の孫編」

燃ゆる希望に いのち生き
高き理想を 胸に抱く
若人のゆめ 羽曳野の
聖丘清く 育みて
PL学園 永久に
向上の道 進むなり
ああ PL PL
永遠の学園 永遠の学園”      

作詞 湯浅 竜起

作曲 東 信太郎


制服を着た僕は、この伝説ともいえる校歌を教室で歌っていた。この校歌には嘘か本当か分からない、いくつもの逸話が残されている。PLが初めての甲子園出場を決めた年、PL学園の校歌はまだ存在せず、甲子園に向けて慌てて甲子園用にこの校歌を作った、大阪では自分の母校の校歌は歌えないがPLの校歌は歌える人が存在する、とか校内でもこんな噂が流れていたのだ。

僕たちは毎朝、クラスの朝礼でこの校歌を歌う。唯一の睡眠時間の場所である学校で僕たちが起きているのは昼ごはんを食べている時か、体育の時間か、この校歌を歌っている時だけだった。僕はこの校歌を甲子園で歌うイメージをしながら歌い、そして長い眠りにつくのだ。授業中はテコの原理でも決して動かない(爆睡で)他の部員たちもこの校歌だけはマジメに歌っていた。ただ一人を除いては。

「おい、湯浅!起きんか!いつまで寝てんねん。シャキッとして校歌を歌わんかい!」担任の佐川先生の声が教室中に響く。この朝の校歌の時間、硬式野球部の部員でさえ全員起きているなか、一人だけ”いつも”机に突っ伏して寝ている生徒がいた。風貌はビジュアル系、長い髪の
毛をワックスで立たせ、黒縁のメガネをしている。ワイシャツのボタンは第三まで開け、胸のあたりまでネクタイをおろしている。腰の位置でズボンを履いている彼の名前は湯浅瑛太。軽音部に所属している同じ1−2のクラスメイトだ。硬式野休部が大半を占めるこのクラスで彼の存在はひときわ目立っていた。その見た目はもちろんだが、彼は僕たちとは違い通学生で寮には住まず家からの通いでPLに通っていた。実家暮らしでたっぷり家で眠れる時間はあるはずなのに彼は僕たち硬式野球部の生徒よりも学校でねむっていた。

授業中はもちろん、体育や昼ごはんの時間も眠っているのだ。もはや起きている湯浅を見るのがレアなことだった。彼は毎朝赤ラベルの500mlのコカコーラを持参して自分の机に置いていた。例外はなく毎朝だ。結局彼は高校三年まで医者に高血糖と診断されてコーラ禁止令を食らうまで毎日コカコーラを飲み続けた。

そんな湯浅だが、クラスでは中心的な位置に君臨していた。学校内のヒエラルキーの上位を圧倒的に占めている硬式野球部を差し置いても軽音部の彼は異様なオーラを放っているのだ。彼は軽音部だが背丈が180cm 以上あり、野球部を含めてもガタイで見劣りすることはない。そんな湯浅を誰も”イジる”ことはできなかった。非常に不思議な男だった。

湯浅とは一言も言葉を交わさぬまま、一年
の一学期が終了した。僕は地獄の夏休みをなんとか耐え抜き二学期に突入した。クラスでは席替えが行われ、僕は湯浅の席の前になったのだった。二学期になっても例にもれず湯浅は眠り続けていた。佐川先生も呆れて彼を起こすことはなくなっていた。

二学期になさらに湯浅への興味が増した僕は、朝礼で校歌を歌い終わったあと、初めて湯浅に声をかけた。

「なぁ湯浅、お前なんでいっっつも寝てんの?この校歌の作詞家の名前見てみ、湯浅 竜起やで。湯浅、お前と同じ苗字やん。関係ないやろうけど」

僕は半ばバカにしながら湯浅に声をかけた。すると、ダルそうに顔をあげた湯浅はダルそうにぼそりとつぶやいた。

「あぁ、湯浅竜起は俺のじいちゃんやで。子供のころからこの校歌聞きすぎてもう聞きたないわ」

そういって湯浅はまた眠りについた。「アホや」。僕はもちろんそれは彼の戯言だと思い信じなかった。 僕らの卒業式で校歌を歌うまでは。








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