痩せはお洒落の必需品?
先日、頂いた質問の中に「Q.スリムであればもっと色々なファッションにチャレンジできる・したいと思っている。」という痩せ願望を手放したいけれど、そんな気持ちがあるという内容でした。(中省略)
私自身、お洒落やファッションはとても大好き。でも何かを楽しむのに、条件はいらないと思っています。
経験談、私も摂食障害になったキッカケとして「ダイエット」を始めた事、その理由が「自信・評価」だったと今振り返れば分かりますが、自信とは?評価とは?その先にあるものは "他人から映る自分 " でした。つまり、私も一時は「お洒落に痩せは必需品」と考えていた1人なのです。
どうして、老若男女問わず皆が「容姿」や「年齢」に対してお洒落の範囲を狭く捉えているのか?は、大きな疑問ですし社会問題である「ルッキズム」が、影響していると考えますが、私の理想を語れば「皆んなが自由に好きを体現できる世界」になればいいのに、と思うのです。
では、ジェンダーやエイジズム(年齢差別)から焦点を絞って今回は "お洒落を楽しむのに痩せは必需品なのか?" を私の経験談から考え方を書いていこうと思います。
1. 価値観の植え付け
植え付け、と言葉にすると「無理矢理感」がありますが日々押し付けられているのではなく「無意識にインプットされている」というイメージです。
TV 雑誌 広告(CM等) から派生した「モデル タレント 俳優 歌手」といった民衆のアイコニックが強いられたものは「美貌」だったり「容姿端麗」でした。何故なら「貴重価値」のような「特別感」がビジネスライクになり、憧れにもなり夢にもなり応援したい→お金 に変わる事が目的でしょう。
自分の好きな表舞台に立つ人間(今ではSNSのインフルエンサーまでも含まれる)が、着用している衣服など、またはデザインしたアパレルブランドがあれば「買いたい・気になる」と意欲が掻き立てられるはず。
また、別の商業の在り方として「美容ビジネス」も今や当たり前に普及していますよね。
「脱毛・美容整形・ジム・サロン・コスメ」細かく言えばもっと沢山のカテゴリーがありますが一部抜粋して、よく目にするものはどれも「綺麗になる?」を訴えかける広告やビジネスですよね。
これも、最初はメディアの広告や雑誌の広告(特に女性誌)でよく見かける程度が、今では民間人が「美容垢」を作って自分流の美容法を発信できる時代。
つまり、「お洒落をする前の土台作りとして綺麗である方がなんとなく良いだろう」という価値観の植え付けは、こうした日常で目に見え耳で聞こえる様々なビジネスからの思想とも捉えられます。
だから、「綺麗じゃなきゃダメだよ!」なんて大声で言う人はあまりいませんが、内心「綺麗でいなくちゃダメかもなぁ」と思う人はわんさかいる訳です。そう、思う事が悪い事とかではなくって、繰り返しますが「植え付けられた無意識」に近いと考えています。
私もそうして、自信や評価の対象として「容姿」を選択して「ダイエット」に無我夢中になった訳です。
2. 日本の国民性と掛け合わさったお洒落イズム
ここから私の書く国民性というのは、私個人的な見解なので賛否両論である事も理解しています。大袈裟に書く事をしなければ日本独特のルッキズムは語れないのでご了承下さい。
皆さん、日本語には「年相応」や「器量良し」「目の保養」など見た目に関する褒め言葉が存在するに、反対にその枠組み以外の人間という考え方が存在します。
日本は島国で、同じ黄色人種の中で育った歴史も今のルッキズムに繋がっていると考えています。
皆んな、同級生も地域の人も「日本人」ばっかりだったでしょう?大体、同じ見た目同じ背格好な訳ですから「人と違う事の個性」より「人と同じ個性」を重んじるのも、なんだか納得してしまうんです。
ですから、人と違う事をするというのは「出る杭は打たれる」と言うように、「個性より違和感」と感じられてしまいがち。
他国と比較すると、よく「ここ日本だからね?」と圧迫されますけど、私は「ここ地球だからね?」と答えます。
ですから他国と比較させてもらうと、日本は独自の文化に縛られて「好きを体現できない」ように思えます。人の違いといってもそんな違いもないからこそ、「些細な違いが目立つ」
体型も、大体が同じようなものだからこそ「足が長い」「背が高い」「毛がフサフサ」「体毛薄い」「目鼻立ちがいい」「痩せ型」
総じて「スタイルが良い」というものは "同じ背格好ばかりの中のレア感 " な訳です。
旅をして、他の国は沢山の人種が混合していて共存していて背格好も見た目も全然違うからこそ、それに基づいたビジネスだったり個性の違いに関する考え方も違って、日本より多様性を感じたのです。
日本はどちらかというと、「多様性の反対の同調性」で皆んなもわざわざ、声に出して「綺麗でいた方がいいよ」なんて言わないとしても、お金の使い方、言動の節々から「綺麗でいた方がいいよね?」が、滲み出て、他者にも伝わっているんです。
3. 好きを体現してお洒落を楽しむには?
ここまでは、なぜ我々が痩せやお洒落に対する価値観が偏ってしまったのか?について書きました。偏ったというより、偏らされた、でいいでしょう。
ではそんな世の中で好きを体現してお洒落を楽しむにはどうしたらいいのか?私なりの考えを書こうと思います。
「他人の目を気にしないスキルの習得」これをまず一つお洒落の必需品にして欲しい。
要するに、深掘りしてしまうと「自信を持って」になってしまいますが難しい課題ですよね。私も自信があるかと問われたら「うーん、別にそこそこです。」くらいなので。
ですが「無視するスキル」に近いものを私は伝えたいだけです。
意識や思考や癖というものは「必ず変わる」と信じています。私がその証明です。摂食障害という「死」に近い体験をしてみて、囚われていた「痩せ」から解放された今、こうして自分なりの「お洒落」について自由に言葉を書けるようになったのです。
ただ、ここまでの道のりは平坦ではなかったので私なりに葛藤して模索して傷付きながら学んできて、練習してきたんです。
最初から「無視できる人間で好きを体現できる器」があれば摂食障害にはなっていませんから。
ただ、人より繊細な私だからこそ無視スキルは人より難しい課題でした。
皆さんには、好きを体現するのに他人の意見を無視するという圧倒的パワーを身につけてほしい。何故なら自分の為のようで、他人の為にもなるからです。
何より、楽しいはず。楽しくあるべきはずの、お洒落が、苦しみという犠牲の上に成り立っている事自体に疑問を持つべきです。
例えば、近しい存在の友人や家族が「自分の個性を堂々と体現している」としたら、恥ずかしく思いますか?痛々しいと思いますか?(そう感じるなら、そういう人の存在は無視させてもらいます)
カッコよくないですか?それを見てパワー感じませんか?私はそちら側の人間として生きていたいと思います。
自分を認める事、他人を気にしない姿勢を「他人に見せつける」事で、自分の為にも他人の為にもなると思うからです。これが、好きを体現する方法であり、1人でも多くの人が「自分らしく」という堅苦しく理解不能な考え方を柔軟にインプットできるやり方かな?と思います。
100人に「私は素敵ですか?」と聞いてみたとして、100人全員が「素敵です」と答える世界線はありません。どこまでいっても人は人なので、「好き嫌いor得意不得意」はあって自由なのです。痩せてる方が良いに決まってる!という人の個性にもぶち当たるし、そういう人の声だけ聞いてたらキリがないという事です。
自分を認めてくれて、お洒落を楽しめる場所を見つけようとするのも素敵だけど「自分で作っちゃえば?」と思います。
自分が認める、自分がお洒落を体現して、新たなジャンルなら開拓すればいい。
誰かのようになりたい、このように服を着こなしたい、あの子のようになりたい。「願望は全ては叶わない」と、酷な事を言います。だって、細胞から異なる我々なのです。同じになってしまったら「サイボーグ」だし「つまんない」でしょう。
誰かになった、なれたところで自分の人生は自分でしかありません。
大きな犠牲を払うより自分に見合ったライフスタイルを堂々と楽しむのがお洒落だと思うんです。自分を誰かと比較して惨めに感じるより、今を受け入れて「こうであるべき」概念をスルーしていく。
人と違うから、本来はお洒落があるはずなのに、「どれだけ人によく映るか?の競い合いの為のお洒落」みたいになっている。
自分を偽るように着飾るためのお洒落ではない。誰かに認められる為のファッションではない。好きを体現するのがお洒落だ。
そう思います。
だからその為に、必要なのは「自然体や直感に近いお洒落」であって「流行りを纏う、高級品を身につける」事でもないと思います。体という土台を「お洒落に寄せる」という考え方もおかしなものだと思います。
(自然体というものがメイクを濃くしたいという願望であればそれも本人の願望として自然体と捉えます、生まれたままを自然体とは思っていません)
mikikoさんというNZでトレーナーをされている方が仰っていた言葉をお借りします。
https://note.com/mikiko_nz/n/nbc74adef5a57
「服のために体型を変える事はしない」
この言葉の通り、自分の健康という土台があってその上に娯楽や洒落がある訳で自分の健康を犠牲にして飾るお洒落は、虚像に近いと思っています。
一人一人の考え方や言動が他人に影響して今の「痩せイズム」が生まれているので、まずは自分からの意識でお洒落を、好きを、体現して欲しいと思う私の考え方でした。
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