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人生に影響を与えた小説を5冊選んでみた

2月の中旬からリモートワークが始まり、もう2ヶ月以上在宅勤務が続いています。こんなご時世ですから、考えることも自然と不吉なものになってしまいます。それは漠然とした形のないものであったり、あるいは全く独立した僕自身の未来への不安と重なってしまったり。
正直に言えばそんな「弱腰」な自分をずっと隠して生きているのだと思います。

弱腰になると、ついつい過去の自分に教えを乞うことがあります。時にそれは、過去に読んだ漫画や小説という名の「知恵」がもたらしてくれることも多く、僕の場合は「過去のお前ならどうしていたか?」と問いかけながら本を開くことも多いです。

そんなわけで、過去を「読んできた小説」という視点から振り返りつつ
、外出自粛の日々も続いているため、せっかくなのでその本からどんな影響を受けたか?を紹介していこうと思いたち、流れるように書き殴っています。
もし僕の紹介した小説に興味が湧きましたら、ぜひいつか読んでみてください。

また、日々サプライチェーンを守っている配送業者の方や、製造業のみなさま、いつも本当にありがとうございます。みなさまのおかげで、今もこうして自宅で過ごすことができています。重ねて御礼申し上げます。

これまでに読んできた小説を全てあげようとするとおそらく別の1冊が出来上がってしまうので、一旦5冊程度に絞って紹介していきたいと思います。

1.『マチルダは小さな大天才』-ロアルド・ダール

いきなり児童書……?と思ったかもしれません。この1冊は僕にとってとても思い入れの深いもので、「人生で初めて主体的に読んだ活字」でした。
ロアルド・ダールといえば、最も著名なのはティム・バートン監督の映画でも有名な『チョコレート工場の秘密』だろうと思います。
読んだ当時は小学2年生か3年生くらいだったもので、「誰が書いたか」というのはどうでもよかった気がしています。
また、これを「初めて主体的に読んだ活字」と説明したのも、小学生の頃に流行った『マジックツリーハウス』や『デルトラクエスト』といった冒険ファンタジーにちっとも心を惹かれなかったことに起因しています。小学生といえば、『かいけつゾロリ』を読むので精一杯でしたから。

もう最後に読んだのは10年以上前の話ですから、正直内容はほとんど覚えていません。大筋を簡潔に説明すると、マチルダという天才的な頭脳を持った少女が、それを受け入れない両親や学校の先生を完膚なきまでに叩きのめす、という物語だったと記憶しています。
当時「ざまあみろ」と思いながら読んでいただけな気もします。
しかし、この物語には、1人の理解者としての象徴である学校の先生が別に登場します。それが僕にとってはとてもうれしく、またこのダール作品に通底している「子どもの叫びと願い」に幼少期から触れていることもあり、僕はこういう「大人が何もかも正しいわけではない」という価値観を得ていたのだと思います。いいことだとは決して思いませんが。
10年以上前とはいえ、ダール作品に強く影響を受けていることは間違いありません。もしこれから、わけもなく虐げられている子どもや、ひどい扱いを受けている人に出会ったら、ミス・ハニーのように寄り添い、「本当に彼らは間違っているのか?」と問い、向き合えるような人間にならなければならないな、と今も思えます。

2.『13階段』-高野和明

一種のミステリー小説に大別される作品です。
初めて読んだのは中学生の頃で、父親だか兄だかの本棚から取り出し、怖いもの見たさでページを開いたのをよく覚えています。(なんせ表紙が不吉だったものですから……)

あらすじを説明すると、記憶喪失の死刑囚である樹原亮の無罪を証明するために、刑務官の南郷正二と前科持ちで仮釈放中の三上純一が奔走する、というもので、テーマとして一貫して掲げられているものは「死刑とは何か」、そして「罪とは何か」ということだと思っています。
僕は法律の専門家ではないので、実直な指摘ができるわけではないのですが、これを読み終わったあと「人を殺した人なんか死刑でいいだろ!」と思っていたことを恥じました。
これを読んで数日は気分が優れなかったことも覚えています。

読み物としてあまり人に薦めたいわけではないけれど、一つの「あり方」としてこの本に出会えたのは今も僕の糧になっています。
「お前が悪いと決めつけたその人は、本当に悪いのか?では悪いとはなんだ?」という問いかけは、常に自分にもするようにしています。
誰かを悪いと言える勇気も、自分が悪いと思える勇気も、どちらもなくてはならないものだと思います。
僕らは今日も、どうせ間違えるのですから。

3.『山月記』-中島敦

どなたもおそらく知っているであろう山月記。正直出すか迷いました。というのも、読んだ当初と、改めて読んだ時とではまるで印象が異なっており、「今だからわかる」という感覚の方が強いからです。
また、文章自体は短いですし、この際ネタバレもへったくれもないので言いますが、「男がなんか知らないけど虎になっちゃった」というだけの物語で、特に何か結末が面白いわけでもありません。

学生の頃に読んだときは「虎になったとかウケる」と思っていましたし、ましてやそこそこ難解(舞台が唐代の中国なので、難しい熟語や当時の地名などがぞろぞろ出てきます)なので、理解しようとするだけで一苦労でした。僕は現代文の授業はほとんど寝ていたので、授業ではこの『山月記』と夏目漱石の『こころ』くらいしか覚えていません。というかもはや中学の時にやったのか高校の頃にやったのかも定かでありません。ただいずれにせよ、どちらもこの年齢の学生に読ませるのは、ちと早すぎるのではないかと今も思っています。

さて、これがどう自分にとって影響を与えているかと言いますと、当然虎になってしまった主人公の李徴(りちょう)です。
彼を虎たらしめてしまったのは、おそらく「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。彼は鬼才と言われるほどに能力があったはずなのに、他の役人と同じ扱いをされることを拒み、また詩人として生きると決めたのに、すぐに挫折してしまう。それらはこの「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」からきています。
こう書くとかなり恥ずかしいですが、僕もきっと李徴のように虎になっていたのではあるまいか、とたまに思うことがあります。
自分がいかに平凡であるかを自覚させられ続ける日々の中で、その苦しみを誰かに伝えるわけでもなく、また誰かと切磋琢磨するわけでもなく、何もしなかった。あるいは失敗することを避け、平凡であることから脱却しようともせず、自分だけは特別になりたがった、自分は他とは違うと思いたかった。
その心が、僕から全てを遠ざけていたのだと思います。いえ、こう書くと語弊がありますね、まるで自分は悪くないような書き方だ。

個人的に、李徴の行為の中で気に入っている部分があります。
彼は去り際、友人の袁傪(えんさん)に対して「置いてきてしまった妻子が露頭に迷わぬよう取り計らってくれ」と頼みます。
これは李徴がプライドも羞恥も捨てたところをうまく象徴していると思います。
しかし、これはこれでかなり滑稽なのです。
さて、読者である我々に、かの李徴の行為はどう映るでしょう?

少なくとも僕にとっては、全くもって恥知らずだ、自分のせいで迷惑をかけたのに、どうしてこうも豚のように頼み込むことができようか、と映りました。
彼は羞恥を捨て、人間を失ってしまうことを恐れながらも、彼の妻子に対して思いを馳せることは忘れませんでした。しかし、それは彼の問題であって、まるで袁傪が言うことを聞く義理もなければ、必要のないことであるとも思えます。

恥をさらし、プライドを捨てて動物となり下がっても、人からすればそれは結局醜いものに映ってしまうのだな、と、再三この話を読み進めながら思います。

だからこそ、僕はこの物語が大好きで、大嫌いなんです。
自分をずっと映している気がして、死ぬほど嫌になります。こんなに恥を感じながら読む小説はもう二度とないだろうと思います。
でもそれ以上に、そんな李徴の話を聞いてあげられる、袁傪のような人間がいてよかった、と心底ホッとしてしまうのです。

僕は李徴であり、同時に袁傪にもならなければならないのだと、そう思います。
今日もきっと、自分の心に巣食う虎に鞭を打ちながら。

4.『海辺のカフカ』-村上春樹

こちらも名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
恥ずかしながら村上作品には本当に疎く、実はこの年になって初めて手を出しました。

はじめに読んだのは『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で、また諸事情で長いこと村上春樹の著作を避けていたのですが、これらに出会ううちに、なぜ村上春樹の小説をこれまで読まなかったのかと後悔するほどでした。

さて、今回紹介するのは『海辺のカフカ』ですが、この本も非常に難解な物語と言えます。しかし、この物語の面白いところは、「正直読んでみてさっぱりわからなかったが、それでもなんだかこの本を面白いと思える」というところにあると思っています。
今まで、僕の出会った小説や映画はそのほとんどが「何が面白いのか」を説明できた気がします。しかし、ことこの『海辺のカフカ』については、正直どの辺が面白かったと言われると回答に困ります。強いて言うなら、空から魚が降ってくることくらいでしょうか。

この物語の主人公は2人います。1人は田村カフカくん。そしてもう1人は、記憶喪失で読み書きのできないナカタさんという老人。この二人の視点を交互に行き来して、物語は進行していきます。

しかし、話を要約しようとすると、本当に難しいです。これは読んだ人なら理解してくれるでしょうが、この本にはあまりにも多くが語られすぎていて、全体としてもうこれ以上話を分解することは不可能な、それはもう大きな素数のように見えるのです。

ただ、「それでいい」と、この物語は僕らに語りかけている気もします。

記憶喪失のナカタさんは、言葉にして説明しなくてもわかるし、ある物事をそういうものだと受け入れる力がありました。
あとで友人に「それはネガティブケイパビリティ(答えの出ないものをそのものとして一旦受け入れる力)があるってことだね」と言われたことを思い出します。

この作品の謎は、最後までわかりません。なんなら作者本人も知らないのかもしれません。ましてやこの本に意味を見出すのもかなり際どく、乱暴に言えば「なんだこの本は、意味がわからん」で済ますこともできます。

ですが、この本はその1点において強烈にユニークであり、また逆説的にユニバーサルでもあります。きっとこの本を手に取ったあなたの悩みに、誰かが答えてくれるかもしれませんし、答えてくれないかもしれません。それが本当にそうなのかは、実はどうでもいいことなのだと、そう感じます。

5.『氷菓』-米澤穂信

最後にご紹介するのは、こちらの『氷菓』をはじめとする「古典部シリーズ」です。
おそらく、僕の人生で最も影響を与えている作品です。

この物語は、岐阜県の高校に通う主人公の折木奉太郎が、「省エネ」をモットーに掲げ、様々な日常に潜む謎を解き明かしながら人間的にも成長していく、という物語になります。
第1作目の『氷菓』の刊行が2001年のため、時代の感覚も当時の僕のそれとは少しばかり違いますが、しかし読み進めるうちに、僕にとっては忘れられない、そしてずっと大切に残しておきたい感覚やノスタルジーがあふれてくるのは間違いありません。

著者の米澤穂信はミステリー作家として有名であり、『インシテミル』なども手掛けるような非常に多彩な方として個人的にも尊敬しています。
この本に出会ったのは小学6年生の頃であり、僕にとって高校生活とは当時未来の出来事でした。だからこそ、「いいなあ、高校生活って楽しそうだなあ」と、彼らの明るい部分にばかり目がむいていました。
しかし、この作品と共に僕も成長しました。
僕が中学3年生の頃にはテレビアニメとしても放送されました。当時受験も始まった頃ではありましたが、こっそり深夜に1人で見ていたことも思い出します。

そして、僕にとっての本物の高校生活が始まりました。そこでようやく、この物語が真に伝えたいことにわかったのです。それは、「届かない叫び」や「熱狂に潰されてしまった人へ馳せた思い」だったのだと。

このシリーズは短編集も含めると現在6作目まで刊行されています。完結はしていません。
僕はとうとう彼らの生きている世界を追い越してしまったのです。
そうして彼らを振り返るとき、僕は彼らに「いいなあ、高校生活って楽しそうだなあ」とは、とても言えません。
一応ミステリー小説なので、ネタバレになる分詳しいお話は説明できませんが、各作とも「真実はほろ苦いし、それはどうせ誰にも届かない」ということを伝えていたりもします。
人が死んだり、奇怪なトリックが出てきたりするわけではありませんが、その分人間関係やそれにまつわる葛藤、そして謎の奥に垣間見える本当の願いなどの描写は濃密です。

逆に、それらを知らず、なぜ彼らを傷つけることができるのか、なぜ彼らを悪いと言えるのか、僕はこの年になってようやくその想像力を身に着けることができたのかもしれません。
もちろん全部が全部そういう重苦しい話でもないのですし、希望と共に終わる回も多く登場します。

しかしながら、この小説は読めば読むほど、人の痛みとは一体なんなのか、自分が何に苦しんで、そして隠してきたかをうまく言い当てられるような物語だと思っています。

高校生活といえば薔薇色、薔薇色といえば高校生活

というところから、全ての物語は始まります。
果たして自分の高校生活は、人生は、薔薇色なのだろうか。実は灰色なのだろうか。
そんなことは、わからないかもしれません。
『海辺のカフカ』の感想と矛盾するようで申し訳ないのですが、少なくとも「熱狂すること」でつぶされてしまわぬよう、言い出せず失われてしまいそうな本当の気持ちを守れるよう、僕らは本当のことを知る必要があるし、そして考え続けなければならないな、ということだけは、今も確信しています。

そういう「問い」こそが人を優しくするのだと、そうも思います

まとめ

とりとめもなくだらだらと書いていたら、こんなに長い文章になってしまいました。
もちろんこれ以外にも取り上げたい作品は山ほどありますし、小説というものは意味があったりなかったりしても、伝わる人に伝わればそれでいいのだとも思います。
こうして取り上げたものを見返してみると、僕は案外ただのハッピーエンドの作品やヒーローが現れる物語を好まないのかもしれません。

例えば推理小説は、探偵が鮮やかに犯人を暴くことが醍醐味だと思います。その一方で、僕が上にあげた『氷菓』の折木奉太郎も、『13階段』の南郷正二も、しっかり間違えます。
また、虎となった李徴も、同情はするものの彼がそうするしかなかったとは思えませんし、マチルダに関しても、少々やりすぎな部分はあります。
カフカについてはもっともらしく解説することができないのでここでは控えますが、有り体に言えばどの人物も一様に人間らしく、また、自分に投影しやすいとも言えます。

いつかの際、noteでも書いたのですが、小説はそういう、「リアリティから離れた存在であるキャラクターが、最も身近な隣人として、自分へ語りかけてくれる」、そういう機能を多分に孕んだものだと思っています。

GW期間中、勉学するのも素晴らしいことだとは思います。僕も実際しようと思っていますし。
ただ、なんか元気がないな、思うように力が入らないな、という方はぜひ小説に助けを求めにいってみてください。
映画でも、漫画やアニメでも良いと思います。

また、このnoteを読んで、みなさんの過去に思い当たる小説や物語がありましたら、ぜひ僕にも教えてほしいです。

それが今度は、僕の人生に影響を与えてくれるかもしれません。
困った時は、彼らに聞いてみることにしましょう。彼らはきっと、僕らが間違わないよう、導いてくれる隣人なのですから。

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