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言葉の無力さ

昨日のショックがまだ抜けないまま、今日は所変わって進学校で「源氏物語」を教えました。

教育界の分断化は既に取り返しのつかない所まで広がっていて、誰より子どもたち自身がそれを自覚していると実感する日。

綺麗事抜きで、ノブレス・オブリージュの発想を持つことしかこの国を救う道は無いのではと思います。

源氏の読解の合間に、自分が体験した昨日の出来事をそれなりの進学校と言われてる彼らに語りました。一体どんな反応をするのか、私が知りたかったから。

「源氏」なんかより私が体験した異世界の話にめちゃくちゃ興味持って聞く高校生たち。自分たちが知らない世界の人間を想像する眼差しは、異民族を見る眼差しと同じだった。

聞くのが怖かったけど、聞いてみた。

「はっきり言うよ、君たちは、私が昨日出会った子たちと今後の人生で接点が無いと思ってるでしょ?」

皆うんと頷く。

もう既に、子どもたち自身も、同世代の分断化に気付いていて、きっとそこにはシンパシーもエンパシーも無いんだろうと思う。

シンパシーやエンパシーは立場の交換可能性から生まれるものだから。

昨日出会った子たちも、進学校の彼らに今後の人生でルサンチマンを抱く事はあってもシンパシーは勿論エンパシーも無いだろうと思う。

分断化された社会では、人生で、社会で出会える層も分断化される。

私自身、昨日出会った子たちに、異文化コミュニケーションの面白さを感じても、正直必要以上に関係性を持ちたいとは思わなかった。多分、「源氏物語」の原文を読めるうちの学生たちも同じ思いだろうと思う。

ドライな話、私は、源氏を教えられる層の方が好きだし可愛いと思う。

綺麗事は語りたく無い。

「お互いをわかり合おうね」なんてクソみたいな道徳心を持てとか言わない。

分かり合えるわけない。

だから、今の状況が酷くならないように、必要なのはノブレス・オブリージュなんだと思う。対話が出来ない、分かり合えない、だからこそ上野千鶴子もそんな事言ってたけど、私も実体験を経て強く思う。

自分の実力だけじゃなく恵まれた環境にいて、難関大学や医学部を目指してる彼らには、ノブレス・オブリージュの発想が必要なんだと思う。自分の能力を自分のベネフィットの為にだけ使うんじゃなく、社会のために使う事。

同時に思う芸術の可能性。

社会の仕組みを変えるのは政治だけど、

社会の眼差しを変えるのは芸術だと思う。

昨日、ロクでもないクソヤンキーが私にほんの少し心を開いたきっかけは、漫画だった。大してうまくもない漫画を誉めて喜んだクソヤンキー。横のクソヤンキーがそれを見て、「俺の絵も見て」と言ってきた。こいつのも下手やけど褒めた。彼らの漫画はまだアートと呼べないけれど、彼らなりのアートを通じて、私たちは少しだけ、ほんの少しだけ打ち解けた。クソヤンキーの求めたグータッチはその証だろう。

私はクソヤンキーに勉強を教える事は不可能だけど、一緒に漫画を描くことでなら、漫画の表現の話では対話出来る日が来るかもしれない。

共通の言語コード、文化コードがない分断社会には言語の力は、結構無力だ。でも、芸術は無力ではないと思う。

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