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番外編:弱さを他者に委ねること、『フィクションライン』について

今回は番外編ということで、槇原敬之の作品ではないですが非常に歌詞が卓抜だと思っているボーカロイドの曲を紹介したいと思います。

かぴるすさん作の『フィクションライン』という曲で、高校生の頃に初めて聴いた時に衝撃を受けた一曲です。歌詞が良すぎる…!当時からとても素敵な曲だと思っていたのですが、色々なことを経験してからまた聴いてみるとよりその深みが感じられて、正直聴くたびちょっと泣いてしまいます笑。

では、早速歌詞を見てみましょう。

さっきまで聞こえてた 君の声が
思い出せなくて 耳を澄ましてみる
何か起きそうな 次のページも
壊れないように ポケットにしまっておくよ

まずは導入ですね。「さっきまで聴こえてた君の声」、それは一体誰の声なのでしょうか。この曲の最後まで聴いても特にはっきりした答えは与えられないので、聴く人に委ねられている余白部分だということでしょう。

誰か大事な人の声が「思い出せ」ない、そこで「耳を澄ましてみる」。静謐としてはいますが、少し孤独で不安な感じからスタートです。

その次の2行分も、はっきりと意味を特定するのは難しい歌詞ですね。ただ何かイベントが「起き」てしまうこと、予測していなかったような事態が起こることを避けるために、何か消極的な心情になっているようです。それは次の歌詞からも推察できます。

見慣れたこの街だって 景色を変えていくのにね
僕は今を変えぬように 何かに怯えて暮らしているんだ

「景色を変えてい」ってしまう「見慣れたこの街」に取り残されるように、「僕」は変わらずにいる様子が伝わってきます。それは「何か」に、すなわち「今を変え」てしまうような出来事に「怯えて」いるからだというのです。

後続の歌詞を踏まえるとここもじんわり響く、味のある歌詞であることがわかってきます。ここでは一旦歌詞のメッセージを文字通り確認するに留め、次の歌詞に移りましょう。

君のいない物語を そっとそっと書き足していくだけ
日常の五線譜の上を 頼りなく伝うメロディー

一番サビ。やはり大事な誰か=「君」が「僕」のもとからいなくなってしまった、そんな日々をあたかもノートの「ページ」を「書き足していく」ように紡ぐだけ。それも何かが起きてしまわないよう、「そっとそっと」です。

「五線譜の上」とありますから、楽譜を1ページ1ページ書いていき奏でられる「メロディー」が、僕の「日常」だとイメージされているようです。しかしその「伝う」メロディーは「頼りな」い。「君」を失って、ふよふよとよろめくような不安定感の中を、しかしその微妙な均衡が崩れてしまうのをどこか恐れているように歩いていく様子が伝わってきます。

どうしようもない気持ちをいっそ全部 捨てられやしないから
色褪せてくその時まで 部屋の隅に立てかけたまま

そんな低空飛行の日々の、やるせなく、「どうしようもない気持ち」は手軽に「捨てられやしない」。だから仕方なく、「部屋の隅に立てかけ」て時間が解決してくれるのを待つ。

「思う」とか「感じる」という動詞は、一応能動態として用いられていますが、実際のところ僕たちが日々の中で何かを能動的に「思おう」として思い、「感じようと」して感じることなど、それほど多くありません。むしろ全てある種受動的に(中動的に?)、気づいたらそう思い、感じて「しまっている」ものです。

気持ちとか思惟とか、感性とかというのは、能動的に発揮しようと思って発揮できる類のものではありません。それはまた、発揮する時だけでなく消え去る時も同様です。「色褪せてく」のを、ただ辛抱強く待つしかないのです。

いつか僕らみんな 羽が生えて 
言葉が無くても 繋がりあえるよ
どんな未来を 想像してみても
君がいないなら なくす意味もなくなるよ

二番に入ります。少しスピリチュアルな歌詞が入ってきて意図を把握するのが難しいですが、おそらく前半は僕たち生物がみんな死んでいくことを表現しているのではないでしょうか。それは確実にやってくる「未来」です。あるいは「僕」はここで、少し希死念慮のようなものを抱いているのかもしれません。

しかし、自分が死ぬことで「なくす」「どんな未来」を想像してみても、「君がいない」のであれば「なくす意味」すらない。だから別に、辛いから死んでしまえということすら思えない。「今」を変えることに怯えているという先述の歌詞を思い出してください。「僕」はとにかく、アクションを起こしたくないのです。

一点、「言葉が無くても繋がりあえる」、これは後の歌詞との関連でも重要になってくることをここで先取り的に注意しておきます。

曇ったレンズ越しに 映るものは不確かで
僕はあるがままの世界 そこから目を背けていたんだ

僕は「曇ったレンズ」、すなわち過度に悲観的になったり消極的になったりした視点からしか世界を見ていません。「世界」はそこに「あるがまま」あるのに、それを僕は直視できないのです。ゆえにそこに「映るものは不確か」で、僕の安寧を脅かすものに見えてしまうのです。

選ばれることない方が ずっとずっと孤独でいれるから
陽の当たる場所遠ざけて 憂鬱をなぞるファンタジー

この2番サビから、珠玉の歌詞の連発です。

まず一行目が何より素晴らしい。誰かと愛し合うこと、認め合うこと、それは肯定的に語られることが多いものです。しかし実はそれほど簡単なことではないというのも、みんな心のどこかでは分かっているのではないでしょうか。

誰かに「選ばれる」、すなわち形はどうあれ親密な関係を持つ相手として認められることは、まずもってその相手の呼びかけに答えるか否かの決断を迫られることでもあります。「私はあなたを信じます、あなたはどうですか」という呼びかけは、嬉しいものであり得る反面、往々にして非常に重いプレッシャーともなります。

なぜなら、相手を信じ、相手に自分を委ねるというのは、自分の中の暗黒と向き合うことでもあるからです。誰かと真剣に向き合う中で、否が応にも自分の汚い部分、醜い部分は露呈してきてしまいます。相手は自分の鏡として、自分の否定的な側面を抉り出してくるのです。

それに嫌気が差すこともあるでしょうし、そもそもそんな自分と向き合うことに足がすくんで、相手に自らを委ね切ることができないかもしれません。その時私たちは、自分を信頼し委ねてくれる他者に対して「私はあなたを信じることができない、しかしそんな私を受け入れてください」という要求をすることになるのです。

差し伸べた手に縋ってくる他者にはいくらでも優しくできる人も、そもそもその手を突っぱねてくる他者にずっと手を差し伸べ続けてくれるかは分かりません。「あなたを信じます」と、「僕」のことを選んでくれた他者は、まごつく「僕」に愛想を尽かして、離れていってしまうかもしれません。それは、はじめから独りでいることより辛く傷つくことです。

だから、「ずっとずっと孤独でいれる」よう「選ばれる」ことのないように生きたいと願うのです。他者の笑顔咲く「陽の当たる場所」を遠ざけて、「憂鬱」で想像の世界に没頭する方が、幸せになれなくとも傷付かずに済むからです。もしかしたら「君」がいなくなってしまったのは、そうやって「僕」がずっと臆病でいたからなのかもしれません。「僕」には、それがトラウマなのです。

どんなに嘘重ねても 世界は廻り続けるから
言葉の裏側に潜む 僕らの弱さを見つけてよ

続けざまに珠玉の歌詞が並びます。

そうして、心のどこかでは自分を受け入れてほしいと思っているのに、怯える「僕」は孤独に閉じこもってしまう。表面上は積極的に孤独でありたい人に見えるので、周りの人もよっぽどでなければあえて声をかけることはしないでしょう。

そんな風に「僕」は自分の気持ちに「嘘」を「重ね」続ける、世界はそんな「僕」には素知らぬ風で「廻り続ける」。

「僕」は哀願します。ずっと孤独でいたいなんて嘘なんだ、「言葉の裏側に潜む僕らの弱さを見つけてよ」と。しかしそんな言葉を投げかけること自体、他者との前述のような関係に入っていくことを意味します。臆病な「僕」にはそれはできません。

だからと言って他者にその枠をこじ開けてもらえたとしても、その他者を前にまごついてしまうだけかもしれません。僕は革新的な出来事が外から降ってくることをもまた恐れています。孤独の中に行き詰まってしまっているのです。

二番の初めの歌詞を思い出してください。「言葉が無くても繋がりあえる」未来を「僕」は夢見ていました。それは、嘘をつくことを可能にしてしまう言葉を透明化して、また他者と分かりあうために必要な媒介・距離である言葉を無化して、直接他者と分かり合えるようになる未来、他者と「繋がりあえる」未来です。すなわち、死んでしまい自他が渾然一体となることです。ジャン・ジャック・ルソーが『告白』で目指したような、他者との透明な理解の可能性を「僕」は目指します。

少し歌詞から外れて考えてみれば、そんな自他合一は本当の意味で「僕」の救済になるでしょうか。自他が溶け合った世界、その世界にもはや「僕」はいません。確かに「僕」は他者に繋がる、しかしそれは「僕」を理解してもらったのではなくて、単にその他者になっただけのことです。それは厳密な意味での「僕」の理解ではありません。

極論、「僕」を理解してもらうことは、「僕」と他者の間に圧縮不可能な距離があって、他者が「僕」のことを完全に理解することが不可能であるという条件のもとにのみ可能なのです。他者にわかってもらう、それは決定的に不可能になったときにのみ可能になります。フランスの哲学者ジャック・デリダが分析した倫理におけるアポリアこそ、まさにこの事態を適切に記述してくれているでしょう。

思い通りにいかないことを全部 塗りつぶしてくのは
誰かの愛や優しさに 向き合うことが怖いから

さらにさらに珠玉の歌詞です。

直接に「僕」の心情が述べられました。ここについては、もはや多くを語る必要はないでしょう。「誰かの愛や優しさに向き合うことが怖い」、それで傷つくことが怖いから、「僕」は孤独の中に悶々とすることを選んでしまうのでした。

白眉は一行目です。他者との直面することの恐怖、それは「思い通りにいかないことを全部塗りつぶしてく」ことに繋がるというのです。

他者に真剣に向き合おうとして失敗し傷つくのは嫌だ、そのとき「僕」は孤独に引きこもることを選択するのみではありません。自分にとって不都合なこと、想定外で「思い通りにいかないこと」に苛烈に当たり、「塗りつぶして」しまうことで、それらが起こらないように予防線を張るのです。

何かが起こることを怖がる「僕」は、先述のように、自分の孤独の枠をこじ開けてくれるような他者が外側からやってくることをこそ一番恐れています。自分の方から他者に向き合うか否かは自分の選択の問題ですが、もし他者の側から自分にやってきてしまうとしたら、それは不意打ちです。

そんな不意打ちを避けるために「僕」が取る方策が、自分の思うままにいかない出来事に対してはひとしなみにNoを突きつけることで、他者の歩み寄りを全て無化してしまうことです。これが、孤独の内側に引きこもり傷付かない帝国を堅守するための最強にして単純な手法なのです。孤独は深まり、いよいよ傷つくことは怖くなります。

ここまでの一連の歌詞は、以上のようなリアルで生々しい心情を端的に、しかし適切に描写し切っている、最高峰の出来だと言えるものなのです。『フィクションライン』の最大の魅力は、槇原同様、繊細な心の動きを捉え切った上でそれを非常に単純な表象・短い表現の中に凝縮する手腕にあると言えるでしょう。

どうしようもない気持ちが いつか僕を飲み込んでいく前に
現実を塗り替えるほどの 新しいページ描けたら

「僕」は最後の最後で、やはりそんな「どうしようもない気持ち」に「飲み込」まれていってしまい孤独に生きていくのは嫌だ、「現実を塗り替えるほど」の「新しいページ」を自分から「描」いていこうと思い直し、前を向くのです。

その試みが成功するのかどうか、それは神のみぞ知るところでしょう。しかしいつか「僕」の「弱さ」を受け入れてくれるような他者に出会うチャンスを逃さないためには、傷つく覚悟を固めて、打って出なければならないのです。孤独のアポリアから打って出るには、並々ならぬ決断がなされなければなりません。


「フィクション」の中で線(「ライン」)を描き続けるのでなく、現実に直面し新たなページを紡いでいく、そんな主人公の決意で幕を閉じる『フィクションライン』は、数あるボーカロイドの曲たちの中でも屈指のクオリティを誇る歌詞を持つ、素晴らしい一曲であることが伝えられたら幸いです。

それではまた。

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