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No. 8 "思考の言語化"

最近、自分の中にある思考を、一切の曖昧さなく明確に言語化することの難しさを改めて感じている。この1年でイタリア語でのインタビューを受ける機会が何度かあった。その度に、日頃日本語で考えていることをイタリア語に置き換える際に、さまざまな障壁が生じることに気がついた。一つは、もちろん自身のイタリア語能力の未熟さにある。が、それ以外にも大きな要因がありそうだ。

日本語は、ある程度曖昧な抽象的な表現が通用すると感じている。これは、行間を読む、ということに通じるものかもしれない。対して、イタリア語はどこまでも具体的でないと、通用しないと感じている。例えば、日本語は語彙数が非常に多く豊かで、物事を捉える際に文学的な比喩表現から想像を広げることができるけれど、イタリア語にはそれがない。絵画的な発想を、感覚的な発想を、そのまま日本語からイタリア語に訳しても、同じようには全く伝わらないのだ。だから、イタリア語では私は本当に言いたいことの6,7割、伝えられているかいないかくらいだろう。もちろん、言語が違えば言い回しも違って当然だが、それだけではない。

私は、自分の考えを公の目にとまる場で迷いなく明確に述べることに勇気が出ず、臆してしまうきらいがある。自分はこう思っているけれど、不特定多数の目がある場所ではリスクを取らないために発信しない方が無難かもしれない、と、自分なりの意見を飲み込んでしまうこともある。それは、自分があらゆることに対して未熟であることを自覚しているからだけでなく、日頃自分が日本語でものを考えている時に、いかにぼんやりと感覚的にしか物事を捉えていないかという事実と、それにより深堀りした時に自分の考えに帰着点を見出せない、という自身の持つ曖昧模糊とした考えに対する葛藤に起因しているかもしれない。
こうしたインタビューの機会は、感覚的なものを具現化することの難しさを改めて自分に知らしめるものでもある。こうしたもどかしさを特にここ最近で持つようになっていたため、こうしてnoteへの投稿をはじめた。

音楽は言葉を持たない世界共通の言語であるが、だからこそ、人に伝えるためには思考を具体的に言語化できる力を身につける必要があることを痛感している。言葉で具体的に語れてはじめて、一つ一つの音に意味を込めることができる、とも言える。このnoteでは、音楽のことも、音楽以外のことも、イタリアでの出来事も、日常の些細な出来事も、日頃自分がふと考えることも、ふと思い浮かぶことも、何一つこだわりなく気の向くままに、しかし明確な表現を心がけて綴っていきたいと思っている。

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