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義母のこと

先日、妻の母が亡くなった。
入っていた施設で、朝のジュースをいただいた後に体調が急変したとのこと。
連絡を受けて妻と駆けつけた時には、もう息を引き取っていた。
あまり苦しむことはなかったようだ。

義母のことは、詳しくは知らない。
ただ、厳しい人ではあった。
結婚していた当時、妻も働いていたが、家事のことで時々叱られていたのを覚えている。

義父が亡くなってからは、ひとりで暮らすようになり、妻がいろいろ手伝いも含めて頻繁に通っていた。
しばらくすると、時々物忘れが出るようになった。
それでも、僕がたまに話す時には、まったく普通ではあった。
そんな義母が、7年前のある日、施設に入ると言い出した。

義父も晩年は施設に入ってもらうことになり、結局その施設で最期を迎えた。

その同じ施設に入ると、自分から言い出したのだ。
義母にしてみれば、足腰も弱くなって来ていたこともあり、娘には迷惑をかけたくない、その前に施設のお世話になろう、そんな気持ちだったに違いない。
誰かに相談していれば、誰もがこう答えるだろう。
「迷惑なんて思わなくていいですよ。安心して、世話になればいいのですよ」
でも、義母はそれをよしとはしなかった。
もちろん施設でも、誰かのお世話になることには変わりない。
ただ、義母はそれを職業とする人を選んだのだ。

義母はわかっていた筈だ。
施設に入れば、もうこの家に戻ってくることはないと。
義母の世代の人にとっては、家を持つことは今以上に人生の大きな目標だったに違いない。
義父を支え、その家を手に入れて二人で暮らし、やがて娘が生まれた。
その娘を育て上げ、相手(僕です)にはいろいろ不安もあっただろうが、無事に嫁に出した。
今とは違い、結納、荷出しなどの行事も行ったので「嫁に出す」という感はより強かっただろう。
その後は、義父と二人の暮らしに戻り、義父を送り出した。
その家だ。
辛いことも、嬉しいこともいっぱい詰まっている。
柱の傷、壁の染みからも思い出がよみがえる。
その家だ。
誰もがそうだと思うが、家を手に入れる時には、そこで自分は人生の最期を迎えると考える。
義母もそうだったに違いない。
その家だ。
その家を、自ら離れる決心を、義母はした。
家とは、大いなる夢でもあり、そして時に残酷でもある。

施設に入ってからは、少しずつ認知症が進んでいたようだ。
コロナの期間は面会が難しくなり、必要なものを送るだけのことが多くなった。
加えて、お世話になるスタッフには毎月菓子折りを送っていた。
しかし、解除されてからも、妻は会いに行こうとはしなかった。
会いに行っても混乱させるだけになる、それよりも今のまま穏やかに暮らして欲しいと。
お互いに深い思いやりの結果だ。

葬儀は僕と妻だけの簡単なものにする予定だったが、東京から娘夫婦も参列してくれた。
たった4人ではあるが、形だけでも家族葬らしくなった。

「お義父さんは話し相手ができて喜んでるやろな」
「お母ちゃんは多分嫌がってると思うわ。またあんたかいなて」

施設に入る当日のこと。
施設から車で迎えに来てもらったが、親切な運転手さんだったらしい。
また、好天に恵まれ、道中渋滞もなくスムーズに走ることができた。
同行した妻によると、その日は全てが良き日であった。

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