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『冷蔵庫』

 息子がいじめられているらしい。夕食の席で妻から聞かされた。小学校三年になる息子はもう寝んでいる。
「はっきり決まったわけではないんだけどね」
 そう言いながら、妻は自分のグラスにもビールを注ぐ。時計を見るともうすぐ日付が変わりそうだ。ここのところ、夕食は毎日この時間になっている。
「春の新生活応援セール」
 全館で展開しているキャンペーンだが、中心はやはり冷蔵庫やエアコンのフロアになる。就職や進学ばかりではなく、この機会に買い換えようという顧客も多い。「暮らしのフロア」はこの時期と暑くなり始める梅雨時が書き入れ時になる。だから、連日帰りはこの時間になるのは毎年のことだ。妻も知っている。
 その春のセールもあと三日頑張れば終わる。そうすれば、少しまとまった休みを、各フロアのマネジャーが交代で取れる予定だ。その休みの予定を相談しようとした矢先に、息子の話を聞かされた。
「本人は何て言ってるんだ」
「まだ聞いてないわ。同じクラスのお母さんから聞いただけだから」
「学校には行ってるんだろ」
「今のところはね」
「セールが日曜で終わるから、その後で話をしてみるよ」
 箸を置き、ビールを飲み干す。

 父も、家電量販店に勤めていた。同じ会社ではないし、後を継ごうとしたわけでもない。たまたま、学校を出て採用されたのが、同じ業界だっただけだ。同じ業界で、同じ生活家電担当となったと告げた時には、父は口にこそ出さないが、感慨深そうな顔をしていた。
 その父が現役だった頃、中学校に入学するまではよく職場に遊びに行っていた。小学校低学年までは母に連れられて。三年生くらいになるとひとりで、電車賃をもらって出かけた。父の職場は、自宅から二駅ほどの少し大きな街にあった。
 その店も建物も今はもうないが、記憶では五階か六階くらいまであったように思う。さらに大きな駐車場も備えていた。上から下まで明るい照明に照らされ、新しい電化製品が並べられた店内は、小学生にとっては魔法の城のようだった。
 パソコンのコーナーでは、見よう見まねでマウスをクリックし、思わず出てきた画面に驚いたものだ。音響のコーナーでは、ヘッドホンを装着して視聴用の音楽に聴き入った。また我が家には置き場所など思いつかないほどの大画面のテレビに釘付けになったりもした。そして、最上階にはゲームコーナも併設していた。
 そんな魔法の城の中で、父は暮らしのコーナーでいつも待っていた。
 エアコンや洗濯機、冷蔵庫、電子レンジなどが並ぶ売り場は、子供にとってはどちらかというと退屈な売り場だった。もちろん、今なら、そこがその建物の中でいちばんの売り上げを上げている売り場だとわかる。そして、そのフロアを任されている父が、その店ではそこそこの立場であったであろうということも。

 その父の職場に通っていた小学生の頃、あれは四年生の時に、私はいじめられていた。その頃は、クラス全員でひとりをいじめるというようなことはなかった。むしろ、ひとりのいじめっ子が数人をいじめる方が多かった。そして、私もその数人に入ってしまったのだ。
 四年生の夏休みに転校してきたその生徒は、最初からクラスになじもうとはしなかった。どんな遊びの輪にも加わらずに、ひとりでポツンとしていた。しかし、誰かが気を使って声をかけようものなら、待ち構えていたコブラのように噛みついていく。彼がそんな性格だとわかってからは誰も相手にはしなくなったのだが、それまでに数人が犠牲になっていた。私もそのひとりだった。
 彼は、いちど噛みつくと、その攻撃は執拗だった。教科書や文房具を隠されたりするのは、まだ優しい方だった。そんな時には、むしろ今日はこれで気が済んでくれればとほっとしたものだ。給食の最中に、机の上にドッヂボールを投げられたり、椅子の上に、墨汁をかけられたりもした。いちばん機嫌の悪い時には、校舎の端の、どこからも死角になるところで、殴られたり、蹴られたりした。
 教師は、何度も注意をしていたが、彼のいじめが止むことはなかった。そして、私をいじめ続ける彼からも、いじめられる私からも、他の生徒は離れていった。

 ある日、私は瞼の上に血を滲ませたまま家に帰った。普段の彼は、殴る時にも蹴る時にも、巧みにその跡が残らないように行なっていた。どこでそんな要領を覚えたのか。もしかすると彼のような人間は本能的に身に着けているのかもしれない。
 しかし、その時にはそのカンが狂ったのか、私の動きがよほど予想外だったのか。彼の蹴り上げた靴先は、私の瞼の柔らかい部分をかすめた。シュッと、血が一筋、彼の運動靴に飛んだ。黒い運動靴に、それはあまり目立たなかったが、彼は自分の足元と私の顔を交互に見た。そして、小さく舌打ちすると、
「大丈夫だよ」
 そう言い残して、立ち去った。
 私の傷を見て問い詰める母に、隠しきれずに事情を説明した。話し出してから涙が溢れ出したのか、涙が私の言葉を押し出したのかはわからない。
 彼が二学期からの転校生であること、昼休みに彼をドッジボールに誘ってから、いじめられ始めたこと、彼の家は噂では両親共に働きに出ていること。思いつくことと、知っていることを吐き出すように母に話した。
 その日の夕食の席には珍しく父がいた。父はいつも私が布団に入るまでに帰って来ることはなかった。父と顔を合わせるのは、平日の父が休みの日に学校から帰ってからか、私が父の店に遊びに行った時くらいだった。今にして思えば、母が父の職場に電話をして、急遽早めに切り上げてきたのかもしれない。
 夕食の席で父は、ビールを飲んでいた。既に母から聞いてきたのだろう、私が改めて説明することはなかった。
「その子、名前は何だっかな」
私は彼の名を告げた。
「うん、その子を誘って遊びに来ればいいよ、お父さんの店に。そこで、お父さんが話をしてやるから、仲直りできるさ」

 彼を誘うのは勇気のいることだった。しかし、彼にも、先日のケガをさせたという引け目があったのだろう。私は無意識のうちに、瞼の傷を撫でながら話していた。彼は目を逸せてうつむいたまま、「うん」と言った。彼が何かを肯定する姿を見たのは、それが初めてだったかもしれない。
 もしかすると、そう私はずっと後になって考えるようになった。
 もしかすると、彼はその時本当に嬉しかったのではないか。私との、その日からの長い友情とまでは言わなくとも、友だちとしての関係を想像していたのではないか。その証拠に、その日から約束の日曜日までの数日間、彼が私に手を出すことはなかった。こちらも特にかかわるようなことは避けていたが、うっかり目が合うと彼の方から視線を逸せていた。

 次の日曜日、私と彼は父の店を訪れた。
 両親が共働きだと言われている彼は、家族でそのようなところに来たことがなかったのだろう。最初からもの珍しそうだった。父に館内を案内してもらい、途中のフロアの奥で缶ジュースを飲んだころには、すっかり打ち解けていた。
 彼が笑うのを見るのは初めてだった。珍しい電気製品を触り、こちらを振り向いて見せる笑顔は、私に、二人はもうずっと以前から、幼い頃からの友だちではなかったかと錯覚させた。そして、私たちは本当にそのようになれたかもしれないのだ。
 父と三人で、近くのハンバーガーショップで昼食をとった後は、小遣いをもらって最上階のゲームコーナーで遊んだ。
 彼ははしゃいでいた。私も、彼とのそんな時間が楽しかった。私たちは、たちまちのうちにもらった小遣いを使い果たしてしまった。何度か、父を探しては小銭をもらってゲームを繰り返した。

 ゲームに夢中になって気がつくと、彼の姿がなかった。最初は、トイレにでも行っているのだろうと気にしなかった。しかし、いくら経っても彼は戻って来ない。心配になった私は彼を探した。
 その階のトイレを見たが彼はいない。各階のトイレを探してみたが、彼は見つからなかった。一階からゲームコーナーのある最上階まで、何度も登ったり降りたりした。しかし、彼はどこにもいない。
 暮らしのコーナーに父の後ろ姿が見えた。私は駆け寄って父の背中を叩いた。
「ああ、彼はお母さんに言われている時間だからと、先に帰ったよ。言ってなかったのか」
 もちろん私は何も聞いていない。
 元々、今日初めて打ち解けただけで、これまで心を許したことなどなかったのだ。彼が私に話していなかったとしても不思議ではない。黙って帰ったとしても、昨日までの彼ならむしろ当然だろう。
 少ししてから、暗くなる前に私も家に帰った。
 帰ってからも、ずっと不安だった。それは、彼の安否ではなくて、明日、彼にどのように接すればいいのか。今日のように友だち然として話しかければいいのか。それとも、あれは今日だけのことで、明日からはまた、いじめっ子といじめられっ子の関係に戻るのだろうか。夢とうつつの境をうろうろしながら、朝を迎えた。
 月曜日、教室に彼の姿はなかった。

 それから、一週間ほどしてからだっただろうか。彼が亡くなったことを教室で知らされたのは。担任の若い男の教師は、詳しくは語らなかった。彼が亡くなって、もう学校には来られないことと、葬儀は身内だけで行うので皆さんは参列しなくていい、それだけを伝えた。その後、全員で黙祷した。
 大人が隠そうとしても、真相は伝わってくるものだ。
 彼は、町の西の外れを流れる小さな川の土手で発見された。亡くなった原因は、窒息死。しかし、首を絞められた跡はない。事故死なのか、事件に巻き込まれたのかはわからない。
 そのようなことを、生徒たちは刑事ドラマのセリフのように話していた。合わせて、彼の家が母子家庭だったことも伝わってきた。
 二学期の間は、彼の机に花が添えられた。毎日、日直の当番が水を変える。そして、小さく手を合わせる。私も一度だけその当番が回ってきた。
 年が明けて、三学期になると、彼の机は片付けられて、もう彼のことを誰かが話すこともなくなった。
 私は、あの日曜日のことは誰にも話をしなかった。それを話すことで、彼の側に立つことが怖かったような気もするし、あれは二人だけの思い出にするべきだ、そんな気もしたのだ。

 息子と話をしたのは、セールが終わって二、三日してからだ。食事の後に、息子と二人でリビングのテーブルで話を聞いた。妻も同席すると頑張ったが、それでは尋問するみたいでよくないと説得した。
 息子は、最初はなかなか話しづらそうだったが、時間が経つと少しずつ話し出した。それによると、数人の同じ生徒のグループからいじめられているらしい。その生徒たちから、小突かれたり、教科書やノートに落書きをされたりしている。息子以外にも、数人の生徒が被害に遭っている。
 その中でいちばん率先していじめている生徒、リーター格の子の名前を聞いた。
「その子を、今度お父さんの店に連れて来るといいよ。あそこで一緒に遊びながら、お父さんが話をしてやるさ」
 息子は気が進まないようだ。
「ゲームがやり放題だって言えばいいさ」
 話をしているリビングに聞こえるくらい、キッチンの冷蔵庫が大きな音を立てた。そろそろ買い替え時だろうか。ちょうどいい。妻には後から話せばいいだろう。

 あの時もそうだった。彼の姿が見えなかった月曜日。私が家に帰ると、新しい冷蔵庫が運び込まれるところだった。父は仕事で、母だけが家にいた。
「お父さんの店に展示してあった商品で、社員には特別安くしてくれたらしいのよ。前のもまだ使えたんだけど、お父さんがこっちの方がいいからって」
 運んできたのは、父の店の社員だったのだろう。母の指示にテキパキと動いていた。新しい冷蔵庫を設置すると、古い冷蔵庫を荷台に積んで帰って行った。
 あれ以来、父は彼のことを話さなかった。私も、自分から彼について話すことはなかった。

 息子が眠った後も冷蔵庫は大きな音を立て続けている。買い替えを急がないといけない。

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