甲子園の魔物にお願いしたい

選抜出場校が決定した。
かつて僕もその決定を待ったことがある。
今から40年以上も前のこと。

僕は高校1年生だった。
当初は秋季大会の成績からは、際どいが多分だめだろうと言われていた。
しかし、直前になって地区の出場枠が一校増やされることになった。
これはいけるぞ。
練習を見に来るOBは日に日に多くなっていった。
保護者会は、甲子園でのユニフォームのデザインをどうするのかで盛り上がった。
僕たちも、冬の厳しい練習に俄然力が入った。
こっそり、サインの練習なんかもしていた。
試合中のサインではなくて、色紙とかに書くやつだ。

そしていよいよ出場校発表の日。
今なら瞬時にネットで知れ渡るのだろうが、当時はそんなものはない。
さすがに、上級生も浮足だって練習に身が入らない。
少し早めに練習を切り上げて、校舎に入る。
集まった教室には、テーブルが運び込まれ、その上にはずらりと寿司が並んでいた。
OBも何人かいた。
保護者も数組集まっていた。
やがて、監督、部長先生、そして校長が教室に入ってきた。

教室がしんと静まり返る。
黒板の前に校長が立つ。
その両脇に監督と部長先生。
3人とも表情が神妙だ。

え、まさか…
大丈夫て、言ってたやん。
なんで、なんで…

そう思うだけで、込み上げてくるものがある。
校長が俯いた顔を上げた時には、もうこらえるのに精一杯だった。
「駄目でした」
校長の一言が合図のように、みんな声を上げて泣き出した。

しばらくすると監督が言った。
「さあ、寿司食うぞ。この味を忘れるな。来年は笑顔で食うぞ」
キャプテンが泣きながら、それでも大きな声で、
「はい」と返事をした。
それにつられるように、みんなが返事をした。
「はい」
「はい」
「はい」
あんなにそろわない返事は初めてだった。

そんな時に用意された寿司だから、多分高級なものだったのだろう。
でも、残念ながら味は覚えていない。

それ以来、僕たちの高校が選考に引っかかることはなかった。

さて、今年の選抜はどうなるのだろう。
開催は大丈夫だろうか。
観客はどうなるのだろうか。
選ばれた選手には頑張ってほしい。
何も背負わなくていい。
自分のために精一杯プレーしてほしい。

甲子園に憧れ、甲子園を目指し、いつの間にか甲子園を見守る歳になった。
それでも、心のどこかでは今でも甲子園を目指している自分がいるような気がする。
一度球児となった者は、一生球児であることから逃れられないのかもしれない。
甲子園に棲むと言われる魔物の力はそこまで偉大なのか。

そうであるならば、その魔物にお願いしたい。
あなたの力で、あなたの元にあの大歓声を呼び戻してもらえないだろうか、1日でも早く。

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