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俳句をやらない人こそにお薦めしたい「教養としての俳句」

ここのところ、俳句に関しての本を読むことが多い。
そのほとんどは、俳句をやる人には興味はあるだろうが、俳句をやらない人にとっては興味はわかないだろうと思われるものだ。
技巧的なものはもちろんのこと、句集やアンソロジーに至ってもだ。

ところが、この「教養としての俳句」(青木亮人著 NHK出版)
これは、むしろ俳句をやらない人にこそおすすめしたい俳句の本だ。
タイトルにある通り、俳句に関して知っておいた方がいい、知っていて損はない教養が、わかりやすく書かれている。

ハンカチを干せばすなはち秋の空  星野立子

著者はまずこの句の鑑賞から話を始める。
洗い立てのハンカチを干せば、その向こうに秋の空が見えた。
文章にすればこれだけの、何気ない日常のひとコマ。
この句が書かれたの昭和22年。
戦後の混乱期から新しい時代が始まろうという時に、そんなことには一切触れずに、この句を何故、高浜虚子の娘である立子は詠んだのか。

全体は四つの章に分かれている。
第一章では、和歌から派生した連歌に俳句の源流を求めて、歌仙、俳諧へと至る流れがまとめられている。
連歌の雅な世界から、江戸時代の庶民文化の発達により俗なものが、芭蕉、蕪村らによって詠まれていく。
やがて、五七五の発句のみが個人で詠まれるようになる。
教科書には出てこないが、戦国武将も盛んに連歌を巻いていたらしい。
それは、神仏に奉納する戦勝祈願の意味合いがあった。
あの有名な、明智光秀の、

ときは今天が下知る五月かな

これも実は連歌の発句で、行祐という住職が

水上まさる庭の夏山

と脇句を付けている。

第二章では、いよいよ正岡子規、高浜虚子らによって、五七五で完結する文学として俳句が確立される過程が述べられる。
さらに彼らが唱えた「写生」とは何かについても。
子規の写生を著者はこう述べる。

胸中の屈託を語りえず、眼前に咲く花や虫の様子のみを描くことでひととき無心になれる。子規はその平凡な情景を黙って描くことを「写生」と名付け、俳句の根本に据えたのです。

また虚子の写生については、

日常の出来事以外は詠まないということ、つまり人生の憂さや辛さ、人に言えない孤独や苦悩は直接表明せず、黙々と暮らしの中の小さな体験を掬い上げ、それを季語とともに描くことが「写生」なのです。極端にいえば戦争が始まろうと、終わろうと、変わらずに日々の些細な出来事を丹念に詠み続けるのが俳人虚子の身の処し方でした。

第三章では、連歌から受け継がれてきた季語について。

私たちが日常的に実感している季節感を明確に認識し、その季節にしかない情趣を豊かに膨らませる契機となるものを季語は秘めています。それは、私たちの生活の見方そのものを変える可能性を持っているのです。

さらに、

長き橋を長渡りせり春風と   三橋 敏雄
見えてゐる海まで散歩風薫る  稲畑 汀子
黒南風の潮の湿りを二の腕に  坪井 耿青

この三句を並べて、月ごとに変化する風を、季語を通じて認識することを述べる。

四季折々の暮らしの中、ふとした瞬間に季節を感じ、ささやかな情景に息を呑み、小さな出来事に心躍らせる。季語を知り、味わうことは、これら一つ一つを確かな実感として認識するとともに、四季ごとの自然現象の中で生活の実感を明確な輪郭とともに捉える契機となるのです。

最後の第四章は、これまでのまとめとして、俳句に親しむことで、日々の暮らしの何が変わるのかが述べられる。
著者はそれを、「喜び」「驚き」そして「笑い」だとする。
中村汀女の、

ゆで玉子むけばかがやく花曇

で、花曇りの日でも感じられる「喜び」を説き、
同じく汀女の、

とゞまればあたりにふゆる蜻蛉かな

で、「驚き」を説く。
そして、

かたつぶり酒の肴に這せけり  其 角
転けし子の考へてをり秋天下  上野 泰

これらの句からは、哀しみを含んだ「笑い」を説く。

谷川俊太郎の「生きる」を引き、

あまりに当たり前で、普段は意識すらしないようなことを一つ一つ丁寧に味わい、それらが「いま」起きていることに驚きつつ、こういった小さな出来事に喜びを感じようとする姿勢。巡りゆく四季が細やかにうつろうことを季語とともに認識しつつ、日々の生活の中で「私」を受け入れ、俗世を肯定しながら暮らし、しみじみと笑う。
俳句を通じて、私たちはこういった感性を育むことができるかもしれません。

そして、最後はこの句でしめくくる。

卒業の空のうつれるピアノかな  井上 弘美

俳句をやる人にもやらない人にも、何かしらの気づきのある本だと思う。
100ページ強のムック本だが、内容は平明でしかも深い。

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