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親の死に目に会うということ

少し暗いはなし。

親を亡くすということは、人の子として生まれた限り誰にでも起こりうることだ。
いや、人でなくても、どんな形であれこの世に生を受けた以上避けられないことだ。
だから、自分がそれに立ち会ったからといって、取り立てて騒ぐほどのことでもない。
あえてそれを文章にして人目にさらすこともない。
自分だけがあたかも不幸の最前線にいるかのようなふりはしたくない。
それでも、今このような文章を書き始めているのは、少し思っていたのと違うことがあったからだ。

よく、「親の死に目に会う」とか「会わない」とか、あるいは「会えた」「会えなかった」などと言う。
「そんなことをしていると、親の死に目に会えないぞ」と諭されることもある。
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」
そんな迷信もある。
どれをとっても、親の死に目には会った方がいい、会うべきだということの裏返しだろう。
僕もそう思っていた。

家族で取り囲み、本人は薄れゆく意識の中で、
「あとは頼んだぞ」
そんな言葉を残してゆっくり目を閉じる。
医者が脈を見て、
「ご臨終です」
家族は静かに涙を流す。
そして、時がたてばその時の光景は家族共有のいい思い出になる。

でも僕の場合には、少し違った。
もちろん、同じような経験はこれまでに何度もどこかで語られているに違いない。
ただ、僕はそのような経験を綴った文章に出会ったことはなかったし、誰かが話すのを聞いたこともなかった。
だから、もし僕と同じような人がいれば知って欲しいと思うだけだ。

その日の夜、病院から電話がかかってきた。
父が意識不明で、今心臓マッサージをしているところですと。
それでも、僕にはまだ緊迫感はなかった。
「行ったほうがいいですか」
「はい、どれくらいで来られますか」
妻に事情を説明して、車で駆けつけた。
病院に着くと、看護師から説明を受けた。
これ以上マッサージを続けても、もう体の方がもたないと。
妹と母も向かっているが、まだ時間がかかりそうだ。
「もう止めてください」
看護師の手が止まる。
モニターのグラフが波から直線に変わる。
映画やドラマでよくあるやつだ。

さて、僕は間違いなく親の死に目に会ったわけだ。
しかし、それが果たして良かったのかどうか。
「お父さんは、最後に息子さんに会えて良かったですね」
バカなことを言わないでほしい。
あの時点で、父には意識も何もなかったはずだ。
もしかすると、光の道を誰かに導かれて進んでいたかもしれないが。
ただひとつ言えるのは、僕が「止めてください」というその瞬間まで、父は間違いなく生きていた、その事実だ。

僕が「止めてください」と言うまで父は生きていた。
たとえ意識はなくても。
身体中の臓器が、細胞が、少しずつその動きをあきらめて行く途中ではあっても、生か死かという区分をするならば、間違いなく、生の領域に、父はいた。
「止めてください」
その時までは。

そのことは、その後半年以上が経過しても、何度もフラッシュバックしてくる。
もちろん、他に選択肢はなかった。
それでも、その時まで父は生きていたという思いはのしかかってくる。
後悔をしているわけではない。
父の死が悲しいわけでもない。

ただ、僕のあのひと言まで父は生きていた。
そのことが、今は重いのだ。

こんな形で親の死に目に会うことが、このように尾を引くものだとは思ってもいなかったし、聞いたこともなかった。
もしかすると、これから同じようなことを経験される方がおられるかもしれない。
脅すつもりではない。
親の死に目にもいろいろあるだろう。
ただ、こんな時にはこうだと知っておけば、その後が少しは変わってくるだろうと思う。

別に毎日こんなことを考え続けているわけではない。
悲しみの日々を過ごしているわけではない。
もちろん、かわいそうな僕を慰めてくださいというわけではない。
むしろ、楽しい日々を送らせてもらっている。
ただ、鳥が視界の端を横切るように、ふと蘇る。

「止めてください」
もし同じセリフを言うことがあれば、こんなこともありますよというお話。

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