読書記録#76 夜と霧
心理学者によるアウシュビッツ強制収用所体験記。
当方、2年程前に現地を見学した経験があるため、この著書が気になった。
現地で撮った写真↓
が、しかし、読み始めたものの随分早い段階で飽きが来てしまった。その為、初めの方以外は全然読まずにドロップアウトしてしまった。。
果たしてそれを読書記録に含めて良いものか。
まあでも、メモしておきたい箇所があったので記録に残すことにする。
●読書メモ
収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく1ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。
そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかったと。
→現代社会の縮図
精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告された者が処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想しはじめるのだ。それと同じでわわたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くないだろうと信じた。見ろよ、この被収容者たちを。頬はまるまるとしているし、血色もこんなにいいじゃないか!
<21年6月11日追記>
P 119
(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的を持って生きることができない。ふつうの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもおなじみで、似たような心理的状況は、たとえば失業などでも起こりうる。失業者の場合もありようが暫定的になり、ある意味、未来や未来の目的を見据えて生きることができなくなるからだ。
・心理的ケアの手法
収容所生活が被収容者にもたらす精神病理学的症状に心理療法や精神衛生の立場から対処するには、強制収容所にいる人間に、そこが強制収容所出会ってもなお、なんとか未来に、未来の目的にふたたび目を向けさせることに意を用い、精神的に励ますことが有力な手立てとなる。
ニーチェ
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていても何もならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張り抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人々はよりどころを一切失って、あっという間に崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのは決まってこんな言葉だ。
「生きていることにもうなんにも期待がもてない」
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた。・・・
私たちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。
収容所で唯一の心の支えにしていた愛する人がもういない人間は哀れだ。
収容所にいたすべての人々は、私たちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。
____にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人々が、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、乗り越えることが極めて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?