見出し画像

読書記録#85 ビジネスの未来


現代社会の闇を深掘りするシリーズ3連発の第2弾。

2021年に入って、これがたぶん25冊目だが、それらの本の中ではこの本が1番面白かった。
2021年暫定首位。

自分の中でモヤモヤしていたものが、明確に言語化されていて爽快。



●読書メモ

・昨今の状況→「低成長」「停滞」「衰退」といったネガティブな言葉で表現される
       ↓
「経済成長とテクノロジーの力によって物質的貧困を社会からなくす」というミッションを終えた「祝祭の高原」とでも表現されるべきポジティブな次元に達した。必然的な結果であって、何ら悲しむべき状況ではない。

「成長が止まる状況」を「文明化の完成=ゴール」として設定すれば、日本は世界で最も早く、この状況に行き着いた国だと考えることができないでしょうか。


「人新世」の資本論 との現状打開策の相違点、、、?

・さまざまな制度疲労が指摘される資本主義だが、これを全否定して新しいシステムを求めれば「観念の虜」に陥る危険性がある。
・むしろ、すでに社会にインストールされている資本主義、市場原理の仕組みを「ハックする」ことでこれを乗っ取ることを考えるべき



・「人新世」の資本論 との共通点

過去30年間にわたって経済は全般に低調に推移しているのに「生活満足度」や「幸福度」は大きく改善しているという事実は、私たちに重大な洞察を与えてくれます。それは「経済をこれ以上成長させることに、もはや大きな意味はない」ということです。


・鬱に関連した箇所

WHO(世界保健機関)は2017年、全世界的に増加傾向にある鬱病が、21世紀中に先進国でもっとも深刻な疾患の一つになる可能性を警告しましたが、これは文明化の終了という問題と密接に関わっています。

→飽和し尽くした何も無い市場空間に飛び込ませ、労働者の尻に鞭を打ちまくって、何も無いところから、無理矢理に需要を作らせて商品を買わせる。その過程には大きな苦痛を伴う。相手を騙すなど倫理を無視しなければならなかったり、酷いと違法すれすれの手法を使わざるを得なくなる場合も。己が腐っていく。心が死んでいく。出来なければ非人道的な罰を受けさせる。さらに死に近づく。こうして心が死に、肉体だけが生命活動を維持して息をしているだけの人間が出来上がる。
売り上げをつくる難易度は昔より当然はるかに上がってるので、苦しみを受ける確率が爆上がりしているのが今日の状況。生きづらさの一因。

・資本主義の弊害

問題を解決することで、その報酬として利益を得る資本主義社会において、これまでは「問題の難易度」が低く、「問題の普遍性=その問題を抱えている人の量」が高い(多い)領域にビジネスが集中していた。まだ物質的に満たされていない世界であったため、モノづくり産業が盛んであった。
現在、その物質的問題は解決され、モノで貧することは無くなった。そうすると、投資余力のある大企業は「問題の難易度」は高いが「問題の普遍性」も高い大きく広い市場を求めてシフトしていく。投資余力のない小規模な組織は「問題の難易度」が低く、「問題の普遍性」も低い小さな市場にシフト。競争が多様化していった。
こうして、「問題の探索とその解決」を続けていくと、「問題解決にかかるための費用」と「問題解決で得られる利益」が均衡する限界ライン「経済合理性限界曲線」にまで到達する。
このラインの外側に抜けようとすると「問題解決の難易度が高すぎて投資を回収できない」「問題解決によって得られるリターンが小さすぎる」という限界に突き当たる。目指すだけ損なので、皆が未着手という状態になる。

この「ラインの外側」に存在するのが、「子供の貧困」「希少疾病」である。

「子供の貧困」は、1985年は10.9%であったのに対し、2015年は13.9%と悪化している。
「希少疾病」は「罹患する人が希少な病気」のことで、日本で50,000人存在するという。これは、ガン患者の20分の1の数字。
「問題の普遍性」が低く、「問題の難易度」が極めて高い、資本主義において最も手を出すに値しない領域。
これらの人々が、「利益にならない」という理由で救われないという事態に陥っている。

ニヒリズムとは何を意味するのか?……至高の諸価値がその価値を剥奪されているということ、目標がかけている。「何のために?」という問いへの答えが欠けている。 
フリードリヒ・ニーチェ「力への意志」
利子とは「資本の価格」なのです。つまり利子が「ほぼゼロ」になりつつあるということは、「資本に価値がなくなった」ということを意味しているわけです。
理想を実現するための途方もない能力はおびただしく持っていると思っているのに、いかなる理想を実現するべきかはわからない、そういう時代に我々はいきているのである。万物を支配しているが、自分の支配者ではない。自分の豊富さの中で途方に暮れている。結局、現代の世界は、かつてないほどの資産、知識、技術を持っていながら、かつてなかったほどに不幸な時代である。
オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』
「便利で快適な世界」を「生きるに値する世界」へと変えていく
ということ、これに尽きると思います。これを別の言葉で表現すれば「経済性に根ざして動く社会」から「人間性に根ざして動く社会」へと転換させる、ということになります。



・希望

資本主義の行き着いた先において、このような「労働が愉悦となって回収される社会」がやがて到来することを100年以上も前に予言した恐るべき思想家がいます。カール・マルクスです。マルクスは、資本主義によって文明化が一定の水準に達した社会においては、もはや労働は苦役ではなく、それぞれの個人がそれぞれの実存を十全に発揮するための、一種の表現活動となることを予言していました。
私は、まさにいま「高原」へと至りつつある社会において、このような「人間的衝動」に根ざした欲求の充足こそが、経済と人間性、エコノミーとヒューマニティの両立を可能にする、唯一の道筋なのではないかと考えています。



「人間性に根ざした衝動」

それはたとえば「歌い、踊りたい」という衝動であり、「描き、創造したい」という衝動であり、「草原を疾走したい」という衝動であり、「木漏れ日を全身に浴びたい」という衝動であり、「美しい海に飛び込みたい」という衝動であり、「困難にある弱者に手を差し伸べたい」という衝動であり、「懐かしい人と酒を酌み交わしたい」という衝動であり、「愛しい子供を抱きしめたい」という衝動であり、「何か崇高なものに人生を捧げたい」という衝動です。
現在の世界にはさまざまな問題が残存しており、多くの人が「政府が悪い、企業が悪い、マスコミが悪い、バカな奴が悪い」と他者を攻撃していますが、このような攻撃の先にやってくるのは「風通しの良い高原社会」とは真逆の、不寛容で、頑迷で、攻撃的で、排他的な、まさに「暗く淀んだ谷間」でしかありません。
社会を変化させることを考えた時、人は二つのアプローチをとることができます。一つ目は「自分の外側にあるシステムを変える」というアプローチ、二つ目は「システムの内部にある自分を変える」というアプローチです。特に20世紀の後半以降、多くの人が「世界を変える」と叫んで、1番目のアプローチに人生を投じ、棒に振ってきました。
現在の私たちが直面している状況を「システムの問題」として処理することはできません。多くの人はいまだに「どんなシステムにリプレースすれば、問題が解決するのか」という論点を掲げて議論していますが、どんなシステムを用いたとしても、その中で生きていく人間が変わらなければ、そのシステムが豊かさをもたらすことはありません。重要なのは「システムをどのように変えるのか」という問いではなく、「私たち自身の思考・行動の様式をどのように変えるのか」という問いだ、ということです。
文明化があまねく行き渡り、すでに物質的な問題が解消された高原の社会において、新しい価値を持つことになるのは、私たちの社会を「生きるに値するものに変えていく」ということのはずです。そのような営みの代表がアートであり文化創造であると考えれば、これからの高原社会におけるビジネスはすべからく、私たちの社会をより豊かなものにするために、各人がイニシアチブをとって始めたアートプロジェクトのようにならなくてはいけないと思うのです。
過去のイノベーションを調べてみれば、核となるアイデアの発芽したポイントに、経済合理性を超えた「衝動」が必ずといってよいほどに観察されることが確認できます。
このような「経済合理性を超えた衝動」は、アーティストの活動においてしばしば見られるものですが(中略)現在、ビジネスの文脈においてしばしば議論の俎上に上る、いわゆる「アート思考」とビジネスとの結節点はここにあります。高原社会において、必ずしも経済合理性が担保されていない「残存した問題」を解決するためには、アーティストと同様の心性がビジネスパーソンにも求められる、ということです。

→「スタンフォード式人生デザイン講義」の「デザイン思考」、本稿の「ビジネスの未来」の著者、山口周氏の提唱する「アート思考、アーティストマインド」なるもの、何気なく見るYouTubeのおすすめ動画欄に出てくる動画の内容にも、、私自身なぜか最近よく「アート」「デザイン」思考というものに出くわす。流行っているのか?それ程重要になってきているのか?ただの偶然か?
いずれにせよ、これからの人生を豊かにする上で、重要な鍵を握ってそうな匂いがする。「アート思考」に関する書籍を今度探してみることにする。


・遊びと労働が一体化

これまでの私たちの労働に関する認識は「辛く苦しい労働があり、その労働の対価として報酬を得る」という、まさにインストルメンタルなものでした。しかし、これからやってくる高原社会では、そのような労働観は解体・廃棄され、遊びと労働が渾然一体となったコンサマトリーなものとなります。
私たちはあまりにも長いこと「辛く苦しいことをガマンすれば、その先に良いことがあるよ」と学校や職場で洗脳されてきてしまったために、、、
さて、どのようにすれば、自分が夢中になれる仕事を見つけることができるのでしょうか。
答えは一つしかありません。

とにかく、なんでもやってみる。
特にこれから「人生100年の時代」がやってくると、多くの人々は人生の中で何度かのキャリアチェンジをせざるを得ないのですから、自分がどのような活動に夢中になれるのか、逆にどのような活動にはシラけるかを、いろいろなことを試した上できちんと把握しているかどうかで、その人の人生の豊かさは大きく変わってしまうことになります。
「消費」あるいは「購買」は、私たちが現在考えるようなネガティブなものではなく、言うなれば「贈与」や「応援」に近いものになるでしょう。
私たちは日常生活の中で、特に意識することもなく、モノやサービスを購入するわけですが、この購入は一種の選挙として機能し、購入する人が意識することなく、どのようなモノやコトが、次の世代に譲り渡されていくかを決定することになります。私たちが、単に「安いから」とか「便利だから」ということでお金を払い続ければ、やがて社会は「安い」「便利」というだけでしかないものによって埋め尽くされてしまうでしょう。


●その他メモ
昔「物質的貧困」→今「精神的貧困」




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?